北海道旅行5日目 6/7(火)19時過ぎ、市内観光を終え、食事に行きました。
食事の場所は、事前にインターネットで調べいてた函館市末広町「創作料理 めっし田本」でした。
店名から函館の写真家「田本研造」にちなむご子孫のお店ではと思い、期待して訪れたものです。
電車通りの向かいから撮った「創作料理めっし田本」です。
どことなく温かさを感じる店構えでした。
道路に見える白い鉄柵は、函館市電の「十字街駅」のものです。
「創作料理めっし田本」付近の地図です。
赤レンガ倉庫群から近く、電車通りに面したとても分かりやすい場所でした。
「創作料理めっし田本」のメニューの一部です。
和風のお店で、座敷に座りましたが、意外にもおしゃれな洋風のメニューが多く、ジャズのBGMも流れて楽しい食事になりました。
店内に展示されていた「150年後の田本アルバム」と書かれたパネルです。
男性の店員さんに「写真家の田本研造さんと関りのあるお店ですか?」とたずねると、期待通り「そうです」と返事があり、さっそく展示されていたパネルを見せて下さったものです。
三重県熊野市の石碑で写真家「田本研造」の偉業を知ったこと、事前の検索でお店を知り、訪問した経緯を店主の田本さんへ伝えました。
■パネルの説明文です。
******************************************************************************
150年後の田本アルバム
2010年夏、国の特別史跡である五綾郭に「箱館奉行所」が復元されました。「復元の決め手になったのはたった一枚の古写真だったのです。」(函館市教育委員会談)その写真は函館にて北海道で最初の写真館を創業した幕末の写真師・田本研造によるものでした。150年前、田本は幕府の通事として開港地・箱館に赴任しました。やがてロシア海軍医ゼレンスキーより写真術を習得して「田本研造写真場」を開業し、土方歳三や榎本武揚ら幕末の英傑たちの肖像写真を数多く撮影しました。明治新政府の時代に入り北海道開拓使が置かれると、田本は政府の依頼により函館-小樽-札幌へと整備される新道(現国道5号線)の築造工事の様子、屯田兵により開拓されていく北海道各地の原野、先住民族であるアイヌ人などを写真に収めていきます。函館市中央図書館所蔵の「田本アルバム」には田本研造による150年前の北海道黎明朋の写真が多数収められています。これらは研究者の同で「北海道写真」と呼ばれる大変貴重な映像資源なのです。「田本の写真が無ければ函館奉行所の復元は不可能でした。」(函館市立博物館 談)書末の写真師が残した北海道の原風景が、150年の時を超えて現代人に歴史と浪漫を雄弁に語りかけます。谷杉アキラは田本研造直系写真館継承者として、偉大な創業者が残した足跡を辿る旅を続けています。北海道写真発祥の地・函館。この街が名実ともに「写真の街」として多くの人々に愛される日が来ることを祈りながら「田本ロード」を歩み続けています。そしていつの日か「150年後の田本アルバム」(先祖へのオマージュ)を完成させることが、夢であり仕事でもあるのです。この「旅」(取材活動)は厳しい環境に屈せず北海道の基礎を築いてきた人々へ捧げるトリビュートなのです。
「時代ヲ旅スル写真館」/谷杉写楽館(旧田本研造写真場五稜郭店)旧小林写真館
館主谷杉アキラ www.tokitabi.net
******************************************************************************
「田本研造」直系写真館継承者と自称する「谷杉アキラ」さんは、先人の偉業を引継ぎ、「写真の街函館」を発展させる取り組みを意欲的にされているようです。
店主田本さんから手元に残っている「田本研造」の写真を見せていただきました。
お話では店主の田本さんは、研造氏直系の田本家当主で、写真撮影ではなく写真機を取扱う事業もされているとのことでした。
度重なる函館の火災のためか、手元の写真は、ほとんど無くなったそうで、わずかに残る大切な写真でした。
2009年05月に訪れた三重県熊野市の名勝「鬼ヶ城」の入口に建つ「田本研造」の石碑です。
故郷熊野市の人々が写真家「田本研造」の偉業を賞賛し、建立された石碑です。
なにげなく見たこの石碑が発端で、函館旅行が大変興味深いものになりました。
■以下は碑文ですが、読めない文字は?で記しています。
******************************************************************************
田本研造翁小伝
翁は天保二年(1831)現熊野市神川町の山深き農家に生まる
二十二歳長崎に行き蘭医に仕えかたわらオランダ写真術に心寄すが志を得ず
二十八歳函館に渡るも病みて右脚切断の悲運に遇う
ときに執刀医たりし縁をもってロシア領事館医より写真術を習得す
明治四年(1871)北海道開拓使命により開拓記録写真撮影に専心すること十有余年
その?大なる作品は迫真の記録性に優れ??写真師の声名これより大いに挙がる
風景と人物主流の写真史初期秀抜のドキュメントは高く評価され
下岡蓮杖 上野彦馬と並び???写真界の先駆者と称せらる
大正元年(1912)八十一歳函館に没す
******************************************************************************
写真家「田本研造」の写真です。
風格と、強い意思を感じます。
片足を失った「田本研造」が周囲の協力を得て、重い機材を伴う北海道各地の開拓の歴史を映像に残したこと、又、多くの写真家を育成したことを考えると、次第に味のある人柄が浮かんでくるようです。
今は亡き人にはお会いできませんが、ご子孫にお会いし、お話が聞けたことで、偉大な人に接した気持ちになりました。
店主田本さんのお話では、北海道に田本姓を名乗る人が少なくなったのことですが、写真家「田本研造」の偉業をいつまでも語り継いで頂きたいものです。
食事の場所は、事前にインターネットで調べいてた函館市末広町「創作料理 めっし田本」でした。
店名から函館の写真家「田本研造」にちなむご子孫のお店ではと思い、期待して訪れたものです。
電車通りの向かいから撮った「創作料理めっし田本」です。
どことなく温かさを感じる店構えでした。
道路に見える白い鉄柵は、函館市電の「十字街駅」のものです。
「創作料理めっし田本」付近の地図です。
赤レンガ倉庫群から近く、電車通りに面したとても分かりやすい場所でした。
「創作料理めっし田本」のメニューの一部です。
和風のお店で、座敷に座りましたが、意外にもおしゃれな洋風のメニューが多く、ジャズのBGMも流れて楽しい食事になりました。
店内に展示されていた「150年後の田本アルバム」と書かれたパネルです。
男性の店員さんに「写真家の田本研造さんと関りのあるお店ですか?」とたずねると、期待通り「そうです」と返事があり、さっそく展示されていたパネルを見せて下さったものです。
三重県熊野市の石碑で写真家「田本研造」の偉業を知ったこと、事前の検索でお店を知り、訪問した経緯を店主の田本さんへ伝えました。
■パネルの説明文です。
******************************************************************************
150年後の田本アルバム
2010年夏、国の特別史跡である五綾郭に「箱館奉行所」が復元されました。「復元の決め手になったのはたった一枚の古写真だったのです。」(函館市教育委員会談)その写真は函館にて北海道で最初の写真館を創業した幕末の写真師・田本研造によるものでした。150年前、田本は幕府の通事として開港地・箱館に赴任しました。やがてロシア海軍医ゼレンスキーより写真術を習得して「田本研造写真場」を開業し、土方歳三や榎本武揚ら幕末の英傑たちの肖像写真を数多く撮影しました。明治新政府の時代に入り北海道開拓使が置かれると、田本は政府の依頼により函館-小樽-札幌へと整備される新道(現国道5号線)の築造工事の様子、屯田兵により開拓されていく北海道各地の原野、先住民族であるアイヌ人などを写真に収めていきます。函館市中央図書館所蔵の「田本アルバム」には田本研造による150年前の北海道黎明朋の写真が多数収められています。これらは研究者の同で「北海道写真」と呼ばれる大変貴重な映像資源なのです。「田本の写真が無ければ函館奉行所の復元は不可能でした。」(函館市立博物館 談)書末の写真師が残した北海道の原風景が、150年の時を超えて現代人に歴史と浪漫を雄弁に語りかけます。谷杉アキラは田本研造直系写真館継承者として、偉大な創業者が残した足跡を辿る旅を続けています。北海道写真発祥の地・函館。この街が名実ともに「写真の街」として多くの人々に愛される日が来ることを祈りながら「田本ロード」を歩み続けています。そしていつの日か「150年後の田本アルバム」(先祖へのオマージュ)を完成させることが、夢であり仕事でもあるのです。この「旅」(取材活動)は厳しい環境に屈せず北海道の基礎を築いてきた人々へ捧げるトリビュートなのです。
「時代ヲ旅スル写真館」/谷杉写楽館(旧田本研造写真場五稜郭店)旧小林写真館
館主谷杉アキラ www.tokitabi.net
******************************************************************************
「田本研造」直系写真館継承者と自称する「谷杉アキラ」さんは、先人の偉業を引継ぎ、「写真の街函館」を発展させる取り組みを意欲的にされているようです。
店主田本さんから手元に残っている「田本研造」の写真を見せていただきました。
お話では店主の田本さんは、研造氏直系の田本家当主で、写真撮影ではなく写真機を取扱う事業もされているとのことでした。
度重なる函館の火災のためか、手元の写真は、ほとんど無くなったそうで、わずかに残る大切な写真でした。
2009年05月に訪れた三重県熊野市の名勝「鬼ヶ城」の入口に建つ「田本研造」の石碑です。
故郷熊野市の人々が写真家「田本研造」の偉業を賞賛し、建立された石碑です。
なにげなく見たこの石碑が発端で、函館旅行が大変興味深いものになりました。
■以下は碑文ですが、読めない文字は?で記しています。
******************************************************************************
田本研造翁小伝
翁は天保二年(1831)現熊野市神川町の山深き農家に生まる
二十二歳長崎に行き蘭医に仕えかたわらオランダ写真術に心寄すが志を得ず
二十八歳函館に渡るも病みて右脚切断の悲運に遇う
ときに執刀医たりし縁をもってロシア領事館医より写真術を習得す
明治四年(1871)北海道開拓使命により開拓記録写真撮影に専心すること十有余年
その?大なる作品は迫真の記録性に優れ??写真師の声名これより大いに挙がる
風景と人物主流の写真史初期秀抜のドキュメントは高く評価され
下岡蓮杖 上野彦馬と並び???写真界の先駆者と称せらる
大正元年(1912)八十一歳函館に没す
******************************************************************************
写真家「田本研造」の写真です。
風格と、強い意思を感じます。
片足を失った「田本研造」が周囲の協力を得て、重い機材を伴う北海道各地の開拓の歴史を映像に残したこと、又、多くの写真家を育成したことを考えると、次第に味のある人柄が浮かんでくるようです。
今は亡き人にはお会いできませんが、ご子孫にお会いし、お話が聞けたことで、偉大な人に接した気持ちになりました。
店主田本さんのお話では、北海道に田本姓を名乗る人が少なくなったのことですが、写真家「田本研造」の偉業をいつまでも語り継いで頂きたいものです。