昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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北海道旅行No.33 函館市「元町公園」

2011年11月03日 | 北海道の旅
北海道旅行5日目 6/7(火)函館市元町付近の散策の続きです。

「ハリストス正教会」から西へ進むと、左手に大きな洋館の建物「旧函館区公会堂」が見えてきます。



「旧函館区公会堂」を「元町公園」から見上げた風景です。

昔のアメリカの映画に出てくるような豪邸です。

神戸、長崎などで見る明治時代の洋館でも、これだけ大きいものはめったに見られません。

■門の脇に案内板がありました。
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旧函館区公会堂
 明治40年(1907年)8月の大火は函館区の約半数、12,000戸余りを焼失した。
 この大火で区民の集会所であつた町会所も失ったため「公会堂建設協議会」が組織され、建設資金として区民の浄財を募つたが、大火後のため思うように集まらなかつた。
 当時、函館の豪商といわれた相馬哲平氏は自分の店舗などの多<を焼失したにもかかわらず5万円の大金を寄付したため、これをもとに明治43年(1910年)現在の公会堂が完成した。
 この建物は北海道の代表的な明治洋風建築物で左右対称形になつており、2階にはベランダを配しているほか屋根窓を置き、玄関、左右入口のポーチの円柱に柱頭飾りがあるなど特徴的な様式を表わしている。
昭和49年5月、国の重要文化財に指定され、昭和57年約3年を費やして修復された。
   函館市
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江戸時代、「箱館奉行所」があったとされる「元町公園」付近の地図です。

函館山の裾野の海岸沿いの斜面に通りが碁盤の目のように造られています。

「旧函館区公会堂」の下に「元町公園」、更にその下に「旧イギリス領事館」「ペリー広場」「中華会館」と並び、この付近は官庁街だったようです。



「旧函館区公会堂」を背に見下ろす函館港の風景です。

すぐ前の「元町公園」からは、函館港を航行する船が一望出来、船を監視する奉行所が置かれていたことがうなずけます。

開港後、奉行所は、湾内の艦船からの砲撃を避けるため「五稜郭」へ移転されたそうで、時代の急激な変化の波は、函館の街の構造を変えていったようです。

函館の街は、又、幾度もの大火に襲われたことでも知られ、明治以降に100戸以上消失した火災が28回、1,000戸以上消失した大火は、下記の10件に及んだようです。

函館の主な大火と消失家屋数
 1871年(明治4) 1,123戸
 1873年(明治6) 1,314戸
 1879年(明治12) 2,326戸
 1896年(明治29) 2,280戸
 1899年(明治32) 2,494戸
 1907年(明治40)12,390戸◎
 1913年(大正 2) 1,532戸
 1916年(大正 5) 1,763戸
 1921年(大正10) 2,141戸
 1934年(昭和 9)24,186戸◎

最も大きかったのが1934年(昭和 9)の「函館大火」で、強風により市街地の3分の1を焼き、死者は2,166名と、想像できない規模に広がったようです。

又、1907年(明治40)の大火も2番目の規模で、その後に函館の歴史的建造物「旧函館区公会堂」や、コンクリート造りのキリスト協会などが建てられことから、今日の街並みが出来る転機ともなったようです。



「元町公園」の下にある入口から階段の上の「旧函館区公会堂」を見上げた風景で、2009年8月の旅行で撮影したものです。

左手に「函館市写真歴史館(旧北海道庁函館支庁庁舎)」が見え、背後には函館山がそびえています。



通りで見かけたマンホールです。

向かって左は、実物の色を模した「旧函館区公会堂」を緑の「五稜郭」の輪郭で囲んだデザインです。

向かって右は、波を背景に3杯のイカが並び、「イカの町函館」をアピールするデザインと思われます。

両方に「おすい」の文字があることから「汚水溝」のフタだったようです。



「元町公園」の東側に函館の豪商、相馬哲平[1833年(天保4)~1921年(大正10)]が建てた邸宅がありました。

相馬哲平氏は、「旧函館区公会堂」の建設で、費用の大半となる5万円を寄付したことでも知られます。

公園側から見る「旧相馬邸」は、少し大きな一般の木造民家のように感じましたが、正面に回ると建物の造りや、長さを見ると違いを感じてきます。

17:00を過ぎ、残念ながら中の見学はできませんでした。

■観光案内所で頂いた「旧相馬邸」のパンフレットより
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旧相馬邸は明治41年(1908)に建てられた建坪205坪、敷地面積570坪の和洋折衷の歴史的建造物で、旧イギリス領事館を眼下に旧函館区公会堂のある元町公園に隣接し函館湾を一望できる地にある堂々たる建造物である。
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パンフレットに掲載されていた「旧相馬邸」の間取り図です。

玄関は、左右に2ヶ所、向かって左端「ギャラリー元町」は土蔵造り、右上の間取り図は、二階部分です。

当時の部屋の用途などが間取り図に記載されているとイメージが膨らんでくるのかも知れません。



「元町公園」を下った「ペリー広場」の風景です。

幕末の日本を震撼させた米国のペリー提督の銅像が、函館山を背景に立っていました。(2009年8月の旅行で撮影)

■ペリー提督の近くにあった案内板です。
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ペリー提督 来航記念碑
 日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、1854年(安政元年)5月17日、開港される箱館港を下検分するため、5隻の艦船を率いて来航した。
滞在中には、箱館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダゲレオタイプ)の初公開、西洋音楽の吹奏なとを行い、当時の人々の驚きの様子が記録として残っている。)
 このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先として五稜郭が築造されることになったほか、開港場として欧米文化の影響を受け、本市が国際観光都市として発展する礎となった。
    函館市

 黒船来航150周年(2004年)を目前に、日米和親の意を後世に伝え、ヘリー提督を末永く顕彰するため、ここ函館の由緒ある他に
「ペリー提督来航記念碑」を建立する。
    2002年(平成14年)5月17日
    ペリー提督来航記念碑建立協議会
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横から見上げた「ペリー提督像」です。

背筋を伸ばし、前方を見据えて立つ姿は、威厳にみちたものです。

数隻の戦艦に威圧され、開港と不平等条約を結ばされた徳川幕府を想うとき、織田信長による天下布武が成し遂げられ、海外との交流が続いていれば歴史は違っていたのかも知れません。



「元町公園」に四人の銅像が建っていました。

函館に繁栄をもたらせたとされる豪商で、明治維新の新しい変化の波にずば抜けた才覚で財を成し、銅像の建立は地域への貢献を讃えられたことによるものとされています。

■函舘四天王像の案内板です。
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四天王像
函舘四天王像
市民精神の源流
明治の函館は本州の都市のように、旧藩の遺産も恩恵もなく従ってその束縛もなく市民は自主的に市民精神を養い、経済の発展を計り進んだ都市造りをした。造船所、器械製作所等の重要産業を興すと共に日刊新聞の刊行、学校、病院、水道、公園をはじめ、恵まれない人々のための教育、医療施設にいたるまで力を尽くした。
明治、大正には東京の文化は東北を素りして北海道へ渡ったと言われたが、その北海道とは函館のことである。その繁栄は、平田文右衛門はじめ四天王と言われた人々の合議によって昔の泉州の堺港とくらべて明治の自由都市の函館と称する人もある。人口は終戦前まで常に全国第十位前後であった。

四天王とは次の四人である
像の向かって左より

今井市右衛門
天保七~明治二十年
一八三六~一八八七
石川県能登の生まれ、苦くして当地に来たり西洋雑貨の店舗を開く、また、北海道最初の新聞社の北溟社を創立した。
医師と共同で福祉事業の育児会社や恵まれぬ人のための鶴岡学校を創立する等多くの私財を投じて少しも惜しまなかつた。

平田文右衛門
嘉永二~明治三十四年
一八四九~一九〇一
函舘生まれ、呉服太物商。函館繁栄のため造船所、器械製作所、学校、病院、新聞社の設立等四天王の功績は多くこの人が主唱し計画、実行に誤りがなかつた。
区の財産造成にも大功があつた。没後、区会の決議により肖像を事堂に高く掲げてその徳を顕彰した。

渡邉熊四郎
天保十一~明治四十年
一八四〇~一九〇七
 大分県竹田の生まれ、明治二年金森洋物店を開きて世界各国の商品を普及、書店を開きて文化に尽くし海運業を計りて貿易に貢献、また巨費を投じて函館病院を再建、二代三代にわたり私財にて育英的な人材を養成したボーニ森屋デパート金森商船は遺業の一部である。

平塚時蔵
天保七~大正十一年
一八三六~一九二二
青森県田名部の生まれ、函舘の平塚家の義子、呉服太物、西洋雑貨の販売を業とした四天王の一人として公共事業に尽くし、私財を投じては慈善事業に貢献、四天王のうち最も長命、後輩の指導に尽くした。

この四人は当時の区長常野正義と共に明治十四年制定の藍綬褒章第三号から第七号まで受けた。
  建設期成会
  昭和五十七年十月九日
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「函館四天王」と、「相馬哲平」との関係が気になります。

「旧函館区公会堂」の建設資金の大半を寄付し、「イギリス領事館」を見下ろす邸宅を持つ「相馬哲平」(1833~1921) は、函舘四天王とほぼ同時代に函館で活躍した人です。

最も長く生きた「平塚時蔵」「相馬哲平」の没後約60年に作られた「相馬哲平」抜きの「函館四天王像」には、観光案内では語られていない謎があったのかも知れません。



元町公園の東に建つ「旧開拓使函館支庁書籍庫」です。

1880年(明治13)に建設され、大火にも耐えて今日まで残ったようです。

瓦屋根と、建物の形は伝統的な土蔵のようですが、レンガの壁がかろうじて欧米を感じさせてくれます。

このレンガ壁は、「フランス積み」と言われる方式で積まれたもので、一段に積むレンガが長い面と、短い面が交互になっているのが特徴のようです。(写真右下部分にレンガ壁拡大)

レンガを積む方式には「イギリス積み」もあり、1段ごとに長い面と、短い面が変化するものだそうで、レンガ造りの建物も興味深いものです。



「元町公園」の中心となる建物「旧北海道庁函館支庁庁舎」です。

1909年(明治42)建設の建物で、建物内部が火災になり、1982年に修復されたようです。

一階は、観光案内所、二階は「函館市写真歴史館」になっていました。

日本最古の写真や、写真家「田本研三」の「田本アルバム」など「函館市写真歴史館」の展示は実に見所が多く、次回の掲載とします。


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