昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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「石馬寺」の歴史と、境内の散策

2009年04月10日 | 近畿地方の旅
安土城跡の見学を前に、予定外に立ち寄った「石馬寺」で、境内の散策です。

昨年、11月初めでしたが、紅葉はまだのようで、境内は、深い緑の木々に囲まれていました。



手前の建物は、重要文化財の仏像が安置されている「大仏宝殿」で、その向こうに本堂が見えます。

「石馬寺」で頂いたパンフレットにあった一節です。
・・・人里をやり過ごして乱れ石積みの「かんのん坂」を登りつめれば、そこにあるのは、ただ自然の整序[ととのい]と旋律[ふしまわし]。・・・

以前は、本堂が茅葺屋根だったそうで、この一節がもっと実感できたものと思われます。



「石馬寺」周辺の地図です。

安土城跡とは直線距離で、約2Kmと近く、琵琶湖東岸の平野の中に独立した山並みが続いています。

「石馬寺」の背後の山頂(標高約300m)からは、安土山(標高約200m)を見下ろす位置にあります。

織田信長が、京都へ上洛の兵を進めた時、「石馬寺」は焼き払われたと言われています。

拝観受付の女性の話では、多数残っている平安・鎌倉時代の仏像(国指定重要文化財が多い)は、とっさに裏山に埋められ、難を逃れたそうです。

その後、天下をとった豊臣秀吉により寺領が没収されるなど「石馬寺」は受難の時代が続いたようです。

その後に築城された「安土城」が本能寺の変で廃虚となる中、江戸時代に「石馬寺」が再興されたことは人々の厚い信仰によるものと思われます。



「大仏宝殿」の前に「鐘楼」がありました。

向って左は、石段の入り口です。



庫裏と、「大仏宝殿」の間に石馬寺の石庭があります。

裏山の岩壁を背景にして白砂に数個の岩が配置され、白波に浮かぶ島をイメージします。

「大仏宝殿」の壁が風情を落としているようで、せめて生垣でも欲しいところです。



「大仏宝殿」の前から見た庫裏の建物です。

屋根瓦が葺き替えられて新しそうな建物に見えますが、玄関を入ると年月を重ねた建物でした。



境内を進み、一段高い場所に本堂の玄関がありました。

このたたずまいに長い歴史を感じさせられます。



本堂を通り過ぎ、奥の方から見た本堂前の様子です。

■寺で頂いたパンフレットにあったお寺の歴史の一説を転記します。
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「石馬寺」は聖徳太子の創立以後、法相宗、天台宗と転宗し、近江源氏、代々木氏の篤く帰向するところとなりましたが、永禄十一年(1568)、織田信長が京都に上ろうとして佐々木承貞を攻めた時その戦禍を受け伽藍、院妨ことごとく兵火の災いに罹り昔日の壮観を二度と見ることができなくなりました。越えて豊臣氏が天下を取るや寺領、山林を没収され山主、僧徒は退散を命じられ、ある者は農民となり、ある者は商人となるに及びました。
 後、慶長八年、徳川氏の知るところとなり「石馬寺」が復興、寛永十一年、家光公上洛にあたり現、神崎郡能登川町に造営された御茶屋御殿を移して大方丈としました。そして正保元年(1644年)十一月、仙台、松島瑞巌寺の開祖、雲居希贋国師を中興開山とし臨済宗、妙心寺派となり現在に至っております。
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本堂を過ぎ、突き当たりにお堂がありました。

苔むした境内にひっそりとたたずむお堂は、実に風情があります。

お寺のパンフレットにも説明が無く、堂の名は分りません。



本堂を過ぎ、お堂に向う右手に石仏が鎮座していました。

最初見た時、ドキッとしましたが、何かをじっと見つめ、思慮深い風貌に見えてきます。

顔と、肩幅・体のバランスから子供のような印象も受けますが、パンフレットに記載されている「不動明王座像(露座石佛)」と思われます。

しばし立ち止まり、拝観させて頂きました。


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