滋賀旅行の2日目は、彦根市に近い「多賀大社」の参拝からスタートしました。
「多賀大社」の祭神は、伊邪那岐[いざなぎ]命と、伊邪那美[いざなみ]命で、伊勢神宮の祭神「天照大御神」の親神になります。
「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」などとPRされ、伊勢や、熊野と比較して利便性の良いことで次第に参拝者を増やしたようです。
今でも初詣には大渋滞が発生するほど有名な神社のようです。
露店や、土産物店が並ぶ通りに面した「多賀大社」の鳥居です。
8:10頃で、周辺のお店は開店準備の時間でした。
古事記(※1)では「伊邪那岐[いざなぎ]命は、淡海の多賀に坐[まし]ます」とあり、多賀が終焉の地とも考えられます。
平安時代の「延喜式神名帳」では「小社 多何神社」が確認され、近江国に13社の大社がある中、当時の社格は高くなかったようです。
日本書紀(※2)では伊奘諾命[いざなぎ](古事記と漢字が違う)は、淡路島の幽宮[かくれみや]で、静かにお隠れになられたとあります。
淡路島の多賀には「伊奘諾神宮」があり、「延喜式神名帳」での社格は名神大社で、「淡路伊佐奈伎神社」と記載されています。
一般的には日本書紀の内容を信じるむきが多いようですが、ここ多賀の地名にも大変古い歴史があるように感じます。
※1古事記:「故其伊邪那岐大者 坐淡海之多賀也」
※2日本書紀:「是以 構幽宮於淡路之洲 寂然長隠者矣」
鳥居を入った右手に神社の案内図がありました。
たくさんの摂社があり、背後には「杉坂山」の神木も描かれています。
式内社には磐座[いわくら]のあるご神体の山が、あることが多いようですが、「杉坂山」の情報がなく、分かりません。
図に向って左には、いくつかの摂社や、神社には珍しい鐘楼がありましたが、カットしています。
鳥居を入り進むと「太閤橋」に突き当ります。
半円形に近い急な坂の橋は、やはり神様専用の橋のようで、通行禁止となっていました。
■橋のそばに「そり橋」の案内板があり、転記します。
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多賀大社の「そり橋」
太閤秀吉が当社に寄せた信仰から「太閤橋」とも呼んでいるが、実際は「太鼓橋」である。
築造は、江戸初期寛永十五年に徳川幕府の助成もあって大僧正慈性によって本殿以下諸堂社の造営が行われた。
「寛永年間多賀大社絵図井指地図」に「そり橋」も記載されていることから、この大造営際に築造されたものである。
こり「そり橋」は神橋であって、例祭にはお神輿が渡られる。昭和七年の造営には、「そり橋」の附近が改修され現在に至っている。お多賀さんの表玄関にふさわしい重厚な橋である。
平成3年十一月吉日 多賀町教育委員会
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「太閤橋」を両脇にある石橋から迂回すると土塀と、神門があります。
門の中から立派な神社の建物が見えて来ました。
■門の脇に「多賀大社」の案内板があり、転記します。
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多賀大社の概略
ご祭神 伊邪那岐大神[イザナギノオオカミ] 伊邪那美大神[イザナミオオカミ]
この男女二柱の大神は、はじめて夫婦の道をおこされ、わが国土と万物の神々と、その主宰神としての天照大神をお生みになられましたので昔から、わが日本国の祖神[おやがみ]さまと仰がれ、奈良時代の初めにできた「古事記」には、すでに淡海「おうみ]の多賀にご鎮座という記事が見えています。
そこで、早くより朝野の尊崇あつく、延命長寿、縁結び、厄除けの霊神と仰がれ、元正天皇や俊乗坊重源、太閤秀吉の母大政所の延命祈願、武田晴信(信玄)の厄除祈願など数々のご社伝が伝えられております。
四月十二日の多賀まつり(古例大祭)の騎馬四十頭に及ぶご神幸は天下に名高く、他にも節分祭、お田植祭、万灯祭、九月古例祭、七五三なども大変なにぎわいを見せます。
室町時代以来の由緒をもつ全国各地の多賀講はあまりにも有名ですが、更に近年は崇敬会に加入して神縁を結ばれる人々も増加しています。
ご本社の左奥にある参集殿では、これらの人々のお食事、あるいは結婚式の披露宴なども行われています。
又、春の枝垂れ桜、秋の紅葉、国の名勝である奥書院庭園も見事で、年間を通じ約百七十万人の参拝者を数えております。
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大きな鳥が、羽を広げたようなすばらしい多賀大社の社殿です。
桧皮葺の屋根と、背後の緑が美しく映えて感動しました。
現在の社殿は、昭和7年に再建された建物で、幾度の火災や暴風の被害で再建が繰り返されているそうです。
これだけの建物を繰り返し再建続けることに、何か不思議な底力を感じさせられます。
拝殿正面から奥の神殿を見た様子です。
とても美しい神殿の祭壇が見えています。
8:30頃神官さん、巫女さんが大勢集合し、正座していました。
朝礼が始まったようで、何か唱和していましたが、数分で終わりました。
絵馬ではなく「杓子」に願い事が書かれ、掛けてありました。
平安時代、元正天皇の病の平癒を祈念して多賀社は、強飯[おこわ・こわ-めし]を炊いて、杓子を添えて献上した。
その結果、天皇が全快せられたことで、無病長寿の縁起物として信仰を集めるようになったとされています。
国家「君が代」の歌詞にある「さざれ石」は、長い歳月に小石が固まって岩になる例えを歌詞にしたもですが、この石は本当に小石が大きな石の塊になったものです。
初めて「さざれ石」を見たのは島根県の熊野神社でした。
最初はとても感動しましたが、最近感じなくなりました。
■さざれ石の前に案内板があり、転記します。
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さざれ石の由来
君が代は千代に八千代にさざれ石の
巌となりて苔のむすまで
この手氏は通称さざれいしといわれ岐阜県春日村の産 古今集に天皇の大御代の弥栄を寿ぎ祈り この石の如くましませと詠われ 後に一部改作されて日本の国歌となりました
学名は石灰質角礫岩で 長い年月の間に溶解した石灰岩が多くの小石を集結して次第に大きく生長したもので 誠に目出度い石であります
岐阜県揖斐川町の小林惣一郎翁がはじめて発見したものです
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「寿命石」と案内された石がありました。
下の説明文で、東大寺再建の任を前に祈った「重源」が、二十年の延命を感得したゆかりの石と説明されています。
「石のゆかり」の内容がよく分かりませんが、お祈り次第では20年長生きというごりやくがあるというなかなか商売上手な神社のようです。
■「寿命石」の案内板があり、転記します。
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寿命石と祈願の白石
今から八百余年前、俊乗坊重源は後白河上皇から、南都東大寺再建の大勧進を仰せつけられた。上人はまず大神宮に三度参拝、さらに寿命守護を祈るため当大社に参籠し、満願の暁に「莚」の字の虫喰いのある柏葉を授かり二十年の延命を感得、ついに大業をとげたと云われている。
この寿命石は上人がその霊験をいただいた際のゆかりの石だと伝えられています。
重源上人が授かった「柏葉莚字」・・・・柏の葉のご神託により延命を授かったこと・・・・の故事に因んで、昔から白石にもろもろの願いを込めて、寿命石に祈願する人々が絶えません。
祈願の白石は授与所に用意しています。住所・氏名を書いてご祈願下さい。後のち白石はご本殿の庭に敷き長く祈念致します。
発穂料 五〇〇円
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中央の大きな石が、「寿命石」でも願い事が書かれた白石が「祈願の白石」のようです。
「多賀大社」の祭神は、伊邪那岐[いざなぎ]命と、伊邪那美[いざなみ]命で、伊勢神宮の祭神「天照大御神」の親神になります。
「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」などとPRされ、伊勢や、熊野と比較して利便性の良いことで次第に参拝者を増やしたようです。
今でも初詣には大渋滞が発生するほど有名な神社のようです。
露店や、土産物店が並ぶ通りに面した「多賀大社」の鳥居です。
8:10頃で、周辺のお店は開店準備の時間でした。
古事記(※1)では「伊邪那岐[いざなぎ]命は、淡海の多賀に坐[まし]ます」とあり、多賀が終焉の地とも考えられます。
平安時代の「延喜式神名帳」では「小社 多何神社」が確認され、近江国に13社の大社がある中、当時の社格は高くなかったようです。
日本書紀(※2)では伊奘諾命[いざなぎ](古事記と漢字が違う)は、淡路島の幽宮[かくれみや]で、静かにお隠れになられたとあります。
淡路島の多賀には「伊奘諾神宮」があり、「延喜式神名帳」での社格は名神大社で、「淡路伊佐奈伎神社」と記載されています。
一般的には日本書紀の内容を信じるむきが多いようですが、ここ多賀の地名にも大変古い歴史があるように感じます。
※1古事記:「故其伊邪那岐大者 坐淡海之多賀也」
※2日本書紀:「是以 構幽宮於淡路之洲 寂然長隠者矣」
鳥居を入った右手に神社の案内図がありました。
たくさんの摂社があり、背後には「杉坂山」の神木も描かれています。
式内社には磐座[いわくら]のあるご神体の山が、あることが多いようですが、「杉坂山」の情報がなく、分かりません。
図に向って左には、いくつかの摂社や、神社には珍しい鐘楼がありましたが、カットしています。
鳥居を入り進むと「太閤橋」に突き当ります。
半円形に近い急な坂の橋は、やはり神様専用の橋のようで、通行禁止となっていました。
■橋のそばに「そり橋」の案内板があり、転記します。
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多賀大社の「そり橋」
太閤秀吉が当社に寄せた信仰から「太閤橋」とも呼んでいるが、実際は「太鼓橋」である。
築造は、江戸初期寛永十五年に徳川幕府の助成もあって大僧正慈性によって本殿以下諸堂社の造営が行われた。
「寛永年間多賀大社絵図井指地図」に「そり橋」も記載されていることから、この大造営際に築造されたものである。
こり「そり橋」は神橋であって、例祭にはお神輿が渡られる。昭和七年の造営には、「そり橋」の附近が改修され現在に至っている。お多賀さんの表玄関にふさわしい重厚な橋である。
平成3年十一月吉日 多賀町教育委員会
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「太閤橋」を両脇にある石橋から迂回すると土塀と、神門があります。
門の中から立派な神社の建物が見えて来ました。
■門の脇に「多賀大社」の案内板があり、転記します。
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多賀大社の概略
ご祭神 伊邪那岐大神[イザナギノオオカミ] 伊邪那美大神[イザナミオオカミ]
この男女二柱の大神は、はじめて夫婦の道をおこされ、わが国土と万物の神々と、その主宰神としての天照大神をお生みになられましたので昔から、わが日本国の祖神[おやがみ]さまと仰がれ、奈良時代の初めにできた「古事記」には、すでに淡海「おうみ]の多賀にご鎮座という記事が見えています。
そこで、早くより朝野の尊崇あつく、延命長寿、縁結び、厄除けの霊神と仰がれ、元正天皇や俊乗坊重源、太閤秀吉の母大政所の延命祈願、武田晴信(信玄)の厄除祈願など数々のご社伝が伝えられております。
四月十二日の多賀まつり(古例大祭)の騎馬四十頭に及ぶご神幸は天下に名高く、他にも節分祭、お田植祭、万灯祭、九月古例祭、七五三なども大変なにぎわいを見せます。
室町時代以来の由緒をもつ全国各地の多賀講はあまりにも有名ですが、更に近年は崇敬会に加入して神縁を結ばれる人々も増加しています。
ご本社の左奥にある参集殿では、これらの人々のお食事、あるいは結婚式の披露宴なども行われています。
又、春の枝垂れ桜、秋の紅葉、国の名勝である奥書院庭園も見事で、年間を通じ約百七十万人の参拝者を数えております。
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大きな鳥が、羽を広げたようなすばらしい多賀大社の社殿です。
桧皮葺の屋根と、背後の緑が美しく映えて感動しました。
現在の社殿は、昭和7年に再建された建物で、幾度の火災や暴風の被害で再建が繰り返されているそうです。
これだけの建物を繰り返し再建続けることに、何か不思議な底力を感じさせられます。
拝殿正面から奥の神殿を見た様子です。
とても美しい神殿の祭壇が見えています。
8:30頃神官さん、巫女さんが大勢集合し、正座していました。
朝礼が始まったようで、何か唱和していましたが、数分で終わりました。
絵馬ではなく「杓子」に願い事が書かれ、掛けてありました。
平安時代、元正天皇の病の平癒を祈念して多賀社は、強飯[おこわ・こわ-めし]を炊いて、杓子を添えて献上した。
その結果、天皇が全快せられたことで、無病長寿の縁起物として信仰を集めるようになったとされています。
国家「君が代」の歌詞にある「さざれ石」は、長い歳月に小石が固まって岩になる例えを歌詞にしたもですが、この石は本当に小石が大きな石の塊になったものです。
初めて「さざれ石」を見たのは島根県の熊野神社でした。
最初はとても感動しましたが、最近感じなくなりました。
■さざれ石の前に案内板があり、転記します。
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さざれ石の由来
君が代は千代に八千代にさざれ石の
巌となりて苔のむすまで
この手氏は通称さざれいしといわれ岐阜県春日村の産 古今集に天皇の大御代の弥栄を寿ぎ祈り この石の如くましませと詠われ 後に一部改作されて日本の国歌となりました
学名は石灰質角礫岩で 長い年月の間に溶解した石灰岩が多くの小石を集結して次第に大きく生長したもので 誠に目出度い石であります
岐阜県揖斐川町の小林惣一郎翁がはじめて発見したものです
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「寿命石」と案内された石がありました。
下の説明文で、東大寺再建の任を前に祈った「重源」が、二十年の延命を感得したゆかりの石と説明されています。
「石のゆかり」の内容がよく分かりませんが、お祈り次第では20年長生きというごりやくがあるというなかなか商売上手な神社のようです。
■「寿命石」の案内板があり、転記します。
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寿命石と祈願の白石
今から八百余年前、俊乗坊重源は後白河上皇から、南都東大寺再建の大勧進を仰せつけられた。上人はまず大神宮に三度参拝、さらに寿命守護を祈るため当大社に参籠し、満願の暁に「莚」の字の虫喰いのある柏葉を授かり二十年の延命を感得、ついに大業をとげたと云われている。
この寿命石は上人がその霊験をいただいた際のゆかりの石だと伝えられています。
重源上人が授かった「柏葉莚字」・・・・柏の葉のご神託により延命を授かったこと・・・・の故事に因んで、昔から白石にもろもろの願いを込めて、寿命石に祈願する人々が絶えません。
祈願の白石は授与所に用意しています。住所・氏名を書いてご祈願下さい。後のち白石はご本殿の庭に敷き長く祈念致します。
発穂料 五〇〇円
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中央の大きな石が、「寿命石」でも願い事が書かれた白石が「祈願の白石」のようです。