昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

「安土城考古博物館」の見学

2009年04月22日 | 近畿地方の旅
滋賀旅行2日目、2008年11月2日10:40頃、「安土城跡」から近くの「安土城考古博物館」へ向いました。



東海道本線(琵琶湖線)を横切るといかにも信長が好んでいたような中世ヨーロッパ風の塔がある「安土城考古博物館」が見えて来ました。

コスモス畑が花盛りでしたが、休耕田を利用して観光客を楽しませようとする地元の人の気持ちを感じます。



「安土城考古博物館」の建物に近づくと、「博物館から見た安土城跡」と書かれた写真が展示されていました。

下段の写真は、その場から「安土城跡」方向を撮った写真です。

標高約200mの安土山に石垣築かれ、武家屋敷が立ち並び、「安土城」の天守閣がそびえ立つ様は、実に壮大だったものと思われます。



「信長の館」と、「安土城考古博物館」の共通入場券です。

とても印象的なデザインです。

二つの建物は、六角形と思われる部分が共通のようです。



「安土城考古博物館」で頂いたパンフレットにあった周辺の絵地図です。

向って左の山が「安土城跡」で、その左上に弥生時代の「大中湖南遺跡」が見えます。

中央の「安土城考古博物館」を中心に「旧安土巡査駐在所」「旧宮地家住宅」「旧柳原学校校舎」「信長の館」が並び、その下の山には「瓢箪山古墳」が見えます。



これも博物館のパンフレットにあった「大中の湖南遺跡模型」と書かれた写真です。

壁面に遺跡の平面的な模型が展示され、人形は農耕をしている様子を説明するものです。

「大中の湖南遺跡[だいなかのこみなみいせき]」は、弥生時代中期の農耕集落遺跡で、今は干拓された「大中湖」の湖畔にあったようです。

「大中湖」は、琵琶湖周辺に多くあった内湖[ないこ]の一つです。

遺跡からは、集落跡・水田跡・木製農具・漁具・狩猟の弓・祭祀具など当時の生活を知る遺物が多く出土し、博物館に展示されていました。



館内の本棚の上に飾られた弥生人と思われる人形で、意外な高さ飾られて驚きました。

地震で落ちて来る懸念はないのでしょうか。



古墳時代の王の服装を再現していました。

向って左から前期(4世紀)・中期(5世紀)・後期の(6世紀)と並び、副葬品だけの展示と比較して実感が持てます。

後期の王は、高島町鴨稲荷山古墳の副葬品ですが、朝鮮半島の色濃い影響がある特殊な古墳で、後期の一般的事例ではないようです。

■説明文があり、転記します。
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王者の装い
古墳時代は大きく前・中・後の三つの時期に区分されるが、古墳の石室内に残された副葬品から、それぞれの時期の王者たちの装いが復元できる。前期(4世紀)の王は、県下最大の前方後円墳、安土瓢箪山古墳の被葬者を、中期(5世紀)の王は、大量の鉄製武器・武具を副葬していた栗東町新開1号墳の被葬者を、後期の(6世紀)の王は、豪華な金銅製の冠・飾履などを副葬する高島町鴨稲荷山古墳の被葬者をそれぞれモデルとしてみた。
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パンフレットにあった写真で、「復元された金銅製のスパイク(鴨稲荷山古墳)」と説明されていました。

上段の写真「王者の装い」で、古墳時代後期の王が履いているものと思われます。

国内では出土例が少なく、朝鮮半島から伝わったとされるこの靴は、「飾履[しょくり]」と呼ばれる儀式用の靴で、靴の裏まで飾りが付いていては、とても履いて歩けるものではないように思えます。

ただ、パンフレットの説明文にある「スパイク」は間違いではないかと思います。



パンフレットにあった安土城天守閣の300分の1の再現模型の写真です。

館内ではガラスケースに入れられ、確か高さが1mまでの小さなものでした。



安土城の立体模型がありました。

長い模型が斜めに立てられ、当時の城の様子がよく分かります。

湖を掘に利用したとても堅固な城だったようです。

この城が、あっけなく炎上したことが不思議です。

ここから天下に号令を発する日を間近にして無くなった信長ですが、もし本能寺の変がなかったらどんな日本になっていたのか興味深いものがあります。