下関市長府惣社町の「長府毛利邸」へ行きました。
道路から奥に見える大手門まで長い道が続いています。
さすがお殿様の屋敷と思い、入口の説明板を読むと明治に造られた屋敷で、既にお殿様を廃業された後に建てられた建物でした。
向って左に「明治天皇長府行在所」と書かれた石碑があります。
説明板を転記します。
■長府毛利邸(長府惣社町)
長府毛利邸は、長府毛利家第十四代当主の毛利元敏公が、東京から長府に帰住し、この地を選んで建てた邸宅で、明治三十一年(一八九八)に起工し、明治三十六年六月二日に完成した後、大正八年(一九一九)まで長府毛利家の本邸として使用されました。
その間、明治三十五年十一月には、明治天皇が、熊本で行われた陸軍大演習をご視察の際、当邸を行在所として使用され、一部の部屋は当時のまま残されていて、往時を偲ばせてくれます。
また、津軽家に嫁がれ、常陸宮華子妃殿下の御生母となられた久子様(元敏公のお孫さんにあたる)も、この御屋敷で幼少時代を過ごされています。
邸内にある庭園は、池泉回遊式で苔・石・池・楓・灯籠等配置の妙は、新緑や紅葉の季節に一段と映え、しっとりとした日本庭園のたたずまいを感じさせてくれます。
開場時間 午前九時から午後五時まで
休 業 日 年末年始(12月28日より翌年1月4日まで)
「長府毛利邸」入口の道路脇に「総社跡」の案内板がありました。
総社は、一か所で様々な神社が参拝でき、古代の国司にとって神社のデパートとでも例えられる実に便利な施設だったようです。
案内板を転記します。
■総社跡(長府惣社町)
大化改新(六四五年)により律令制度が全国に施行された時 中央から任地に赴いた国司は管内の官社を巡拝することが一つの義務であった。
しかし時代が下って平安中期以降になると祭祀やしきたりが怠りがちとなり管内の神社を便宜的に集めて一社を建てて総社とし管内官社の巡拝にかえるようになった。
今日国府のおかれた町にいずれも総社の跡をみるのはそのためである。長門国府があった長府でも国衙にほど近いこの位置に長門国の総社が建立されており昭和四十年代までその社の一部を見ることができた。
このあたりは現在も惣社町と呼ばれているがそれは総社と同意語であり国府時代に総社があった名残である。
大手門をくぐると「邸内案内図」がありました。
屋敷の入り口や、「総社跡」の案内板は、[赤丸A]の記号の場所です。
その他、この後に記載する場所では[赤丸B]が「玄関」、[赤丸C]が「当主の間」、[赤丸D]が「明治天皇御宿泊の間」です。
中庭のある建物で、廊下は中庭を一周できるようになっていたと記憶しています。
長府毛利邸です。
向って左手に見えるのが玄関で、向って右の入り口から入場します。。
柵のある玄関から中を見た写真です。
「邸内案内図」の[赤丸B]の場所です。
障子の絵は、川端玉章作「丹頂鶴と青竹図」です。
裏には「白い鷹と松図」が描かれています。
川端玉章は、幕末の日本画家で、円山派の伝統を受け継ぎ、洋画も学んだ明治画壇の大御所の一人だそうです。
野草の生け花がありました。
なかなか風流です。
邸内案内図にある書院庭園のようです。
少しシンプル過ぎる感じもします。
廊下の一番奥に突き当たった場所で、当主の間の横の廊下になります。
手水(ちょうず)があり、その横にススキに似た「パンパスグラス」と思われる草が植えられていました。
上の写真で、突き当たりにある案内板です。
当主の間とあり、お殿様の部屋のようです。
正面に「本床」、正面右に「床脇」(違い棚、天袋のある場所)があり、「本床」の横の向って左側に付書院がある本格的な床の間です。
掛け軸もなかなか良い絵ですね。
「付書院(つけしょいん)」です。
「付書院」は、床の間の横にあり、縁側方向に張り出した棚、下の「地袋」、中心に明かり障子、上に「欄間」を組み合わせた物だそうです。
明治天皇がお泊りになった部屋です。
恐れ多くも赤いじゅうたんの上に座って記念写真を撮らせて頂きました。
確か6畳程度の部屋だったように記憶していますが、明治天皇にしては驚くほど小さな部屋に思えました。