平安時代末期、「源平合戦」の最後の舞台となった関門海峡の壇ノ浦を望む小高い場所に「日清講和記念館」があり、たずねました。
壇ノ浦に沿って走る国道9号線に面して「日清講和記念館」の入り口があります。
「春帆楼(しゅんぱんろう)」と書かれた看板と、坂道が見えてきます。
日清戦争の講和会議を行った会場が、今でも続いている割烹旅館「春帆楼」でした。
写真を撮ったカメラの位置付近や、坂道の脇が無料駐車場となっています。
「春帆楼」の上り坂の入り口から見上げた写真です。
正面の建物が「春帆楼」、向って右が「日清講和記念館」です。
向って左の塀に沿って曲がって進む道が「李鴻章道」と呼ばれ、清国(中国)の全権大臣「李鴻章」の狙撃事件があった場所でもあります。
坂道を登った門を入ると左手になんともかわいらしいフグの銅像がありました。
フグの町、下関にちなむ由来が書かれているのではと期待して読んでみました。
■説明板を転記します。
「ふくの碑」
春帆楼の名は伊藤博文公春の海の帆を心に描いてされたそうです。
明治二十一年伊藤公が春帆楼でふくを召し上がったのを機にご禁制を解かれふく料理店の公許第一号となりました。以来みなさまのおかげで百周年を迎えることができました。
ここにそれを記念すると共に感謝の心をこめてふくの碑建立します。
平成元年九月二十九日
竹井博友
伊藤博文は、初代内閣総理大臣で、在任期間は1885年12月~1888年4月でした。
平成元年(1989)9月29日で百周年とすると、百年前は1889年で、初代総理大臣を退任した後のことだったと思われます。
碑文に「伊藤公が春帆楼でふくを召し上がったのを機にご禁制を解かれふく料理店の公許第一号となりました」とありますが、当時の伊藤博文が公式な権限を持っていなかったと思われますが、強い政治的影響力を使ったのでしょうか。
伊藤博文が「春帆楼」でフグ料理を食べたきっかけは、シケの日に活きの良い魚がなかったため、苦肉の策で禁制のフグ料理を出したことによるそうです。
その味に喜んだ博文は、魚の名を聞き、遂にフグの解禁に動いたようです。
又、伊藤博文は、「春畝(しゅんぽ)」と号し、「春畝公」とも呼ばれていたようで、博文に名づけられた「春帆楼」と類似しています。
ここから海に行き交う船を眺め、思い浮かべた名称だったのかも知れません。
初代内閣総理大臣を退任した伊藤博文は、4年後に5代目内閣総理大臣に再任され、その在任期間は、1892年8月~1896年8月です。
日清戦争は、1894年(明治27)7月から1895年(明治28)4月まで約10か月間、博文が総理大臣の期間に行われました。
日清講和会議の会場に「春帆楼」が選ばれたのも総理大臣伊藤博文との関係にあったと思われます。
この地方では「ふぐ」を「ふく」と呼ぶようで、縁起のよい「福」にちなむ説を聞いたことがあります。
しかし、この「ふくの碑」のふくれあがった腹を見ていると、「膨れる」から派生した可能性もあると思います。
ところで上記の碑文の最後に「竹井博友」の名があります。
脱税事件で倒産した地産グループのオーナーだった方で、当時の「春帆楼」は地産グループに買収されていたようです。
老舗「春帆楼」ののれんは紆余曲折の中で引き継がれているようで、現在はオリックスグループにより経営されているようです。
フグの町下関は、このような歴史がきっかけとなって始まったようです。
フグの取扱いで日本一の市場は、下関市彦島の「南風泊(はえどまり)市場」ですが、昔「春帆楼」のすぐ近くにある「唐戸市場」が手狭となり、移ったものと言われています。
壇ノ浦に沿って走る国道9号線に面して「日清講和記念館」の入り口があります。
「春帆楼(しゅんぱんろう)」と書かれた看板と、坂道が見えてきます。
日清戦争の講和会議を行った会場が、今でも続いている割烹旅館「春帆楼」でした。
写真を撮ったカメラの位置付近や、坂道の脇が無料駐車場となっています。
「春帆楼」の上り坂の入り口から見上げた写真です。
正面の建物が「春帆楼」、向って右が「日清講和記念館」です。
向って左の塀に沿って曲がって進む道が「李鴻章道」と呼ばれ、清国(中国)の全権大臣「李鴻章」の狙撃事件があった場所でもあります。
坂道を登った門を入ると左手になんともかわいらしいフグの銅像がありました。
フグの町、下関にちなむ由来が書かれているのではと期待して読んでみました。
■説明板を転記します。
「ふくの碑」
春帆楼の名は伊藤博文公春の海の帆を心に描いてされたそうです。
明治二十一年伊藤公が春帆楼でふくを召し上がったのを機にご禁制を解かれふく料理店の公許第一号となりました。以来みなさまのおかげで百周年を迎えることができました。
ここにそれを記念すると共に感謝の心をこめてふくの碑建立します。
平成元年九月二十九日
竹井博友
伊藤博文は、初代内閣総理大臣で、在任期間は1885年12月~1888年4月でした。
平成元年(1989)9月29日で百周年とすると、百年前は1889年で、初代総理大臣を退任した後のことだったと思われます。
碑文に「伊藤公が春帆楼でふくを召し上がったのを機にご禁制を解かれふく料理店の公許第一号となりました」とありますが、当時の伊藤博文が公式な権限を持っていなかったと思われますが、強い政治的影響力を使ったのでしょうか。
伊藤博文が「春帆楼」でフグ料理を食べたきっかけは、シケの日に活きの良い魚がなかったため、苦肉の策で禁制のフグ料理を出したことによるそうです。
その味に喜んだ博文は、魚の名を聞き、遂にフグの解禁に動いたようです。
又、伊藤博文は、「春畝(しゅんぽ)」と号し、「春畝公」とも呼ばれていたようで、博文に名づけられた「春帆楼」と類似しています。
ここから海に行き交う船を眺め、思い浮かべた名称だったのかも知れません。
初代内閣総理大臣を退任した伊藤博文は、4年後に5代目内閣総理大臣に再任され、その在任期間は、1892年8月~1896年8月です。
日清戦争は、1894年(明治27)7月から1895年(明治28)4月まで約10か月間、博文が総理大臣の期間に行われました。
日清講和会議の会場に「春帆楼」が選ばれたのも総理大臣伊藤博文との関係にあったと思われます。
この地方では「ふぐ」を「ふく」と呼ぶようで、縁起のよい「福」にちなむ説を聞いたことがあります。
しかし、この「ふくの碑」のふくれあがった腹を見ていると、「膨れる」から派生した可能性もあると思います。
ところで上記の碑文の最後に「竹井博友」の名があります。
脱税事件で倒産した地産グループのオーナーだった方で、当時の「春帆楼」は地産グループに買収されていたようです。
老舗「春帆楼」ののれんは紆余曲折の中で引き継がれているようで、現在はオリックスグループにより経営されているようです。
フグの町下関は、このような歴史がきっかけとなって始まったようです。
フグの取扱いで日本一の市場は、下関市彦島の「南風泊(はえどまり)市場」ですが、昔「春帆楼」のすぐ近くにある「唐戸市場」が手狭となり、移ったものと言われています。