昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

天下の奇祭「数方庭祭」

2007年09月16日 | 山陽地方の旅

下関旅行の一番の目的だった「数方庭(すほうてい)祭」のポスターが、長府の町のあちこちに掲示されていました。
「天下の奇祭」のフレーズに魅かれて一度見たいと思いました。
数方庭祭は、忌宮神社境内で毎年8月7日から13日まで毎夜行われるそうです。
境内の広場にある鬼石の周囲を20mもある竹竿幟を一人でバランスをとりながら持ち歩くというめずらしいお祭りです。
お祭りの由来は、仲哀天皇7年、新羅国の凶酋「塵輪(じんりん)」が、熊襲を扇動して豊浦宮を襲撃、黒雲に乗り空から攻撃する「塵輪」に対して仲哀天皇自ら弓矢を取って塵輪を射落とされ、熊襲は退散したそうです。
その時、兵士たちは矛をかざし、旗を振りながら「塵輪」の屍体を囲んで踊ったのが数方庭の起源であると伝えられています。
「塵輪」の首を切りその場に埋め、その上を覆った石が「鬼石」と言われ、「塵輪」の顔が鬼のようであったことから名付けられたそうです。



向って左下の建物が、「手水舎(てみずや)」、右上が「神門」で、「拝殿」は、「神門」を入るとすぐ正面にあります。
「神門」の前の広場に「鬼石」があります。
太い孟宗竹に旗や、飾りをつけた「大幟(おおや)」が立掛けられています。
実に重そうな竹で、100Kg以上あるそうです。おまけに風の強い日でしたので、祭で持ち歩くのは大変な力が要るようです。



数十本の「大幟(おおや)」が立掛けられています。
神社境内の広場に円を描くように高い柵が造られ、ロープで繋がっています。
「大幟」が倒れて見物客に当たらないようにガードしているようです。



「大幟(おおや)」の下の部分です。
太い孟宗竹の根の部分から掘り出して作ったようです。
かなり重そうです。



上空で風にたなびく「大幟(おおや)」の先端部分です。
竹の先端に鳥毛、そのすぐ下に鈴と、家紋や社紋を染め抜いた旗、その下に白い幟を取り付けているようです。
中国や、朝鮮の祭りでも同じようなものがあるようです。

現在の「数方庭祭」の形が整ったのは、長府藩三代藩主毛利綱元公の頃(元禄)で、それまでの矛(ほこ=両刃の剣に長い柄をつけたような形状)や薙刀(なぎなた)を禁止し、竹竿幟と切籠(きりこ)と言われる笹飾りの様式に変更されたそうです。
昔は、戦いの直後の戦勝を祝う歓喜の踊りのスタイルだったようです。



日が暮れた拝殿の前のようすです。
ハッピ姿の人が参拝しています。
今夜、「大幟(おおや)」を持ち歩く人達でしょうか。
ぼつぼつお祭りが始まります。



神門の前で、神主さんや、役員さんの挨拶があり、いよいよお祭りの始まりです。
最初に「切籠(きりこ)」と言われる笹飾りが境内に入場し、輪を作ります。



上の行列に使われている「切籠(きりこ)」です。
神門に上がる石段はお祭り見物のスタンドになってしまいました。


次は、小幟の行列がありました。
歩くだけであまり盛り上がりがありません。


次に中幟、大幟の順で鬼石の周りを周ります。
中央の太鼓の下に「鬼石」があるようです。
太鼓や、鉦(かね)の素朴なお囃子が続きます。


大幟は、高いもので約30m、重さが100kgのものがあるそうです。
風が強く、すぐ倒れていました。

残念ながら祭りを見てあまり感動はありませんでした。
しかし、今から1800年前の弥生時代の終わり頃に始まり、現在まで続いていることに改めて感心しました。