昔に出会う旅

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秘境の神社? 大名口参道からの「末吉宮」参拝

2008年07月27日 | 沖縄の旅
4月の沖縄旅行の思い出を続けています。


「末吉宮」は、首里城から北北西へ約1.5Kmの位置にあり、末吉公園に含まれる緑に囲まれた神社です。
地図にある赤い丸印が「末吉宮 大名口参道」の入口です。
ゆいレールに面した末吉公園の入口からの道もありますが、近道を選びました。

分かりにくい道でしたが、レンタカーのカーナビをたよりに参道入り口にたどり着きました。



白い門柱のある所が「末吉宮 大名口参道」の入口です。

大名口参道の前の道は道幅があり、駐車禁止ではないようで、路上駐車が両側に並んでいました。

■参道に入るとすぐ右手に神社の案内板があり転記します。
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末吉宮御由緒
 主祭神 伊弉冉尊[イザナミノミコト]
       速玉男神[ハヤタマヲノミコト]
       事解男神[コトサカヲノミコト]
        旧称 熊野三所権現ノ神 (現称 熊野三宮ノ神)

 別鎮斎 ●土祖神[ツチミオヤカミ]・澳津彦命[オクツヒコノミコト]
        ・澳津姫命[オクツヒメノミコト]
        (通称 竈神[カマドノカミ]・火神[ヒヌカン])
       ●産土神[ウブスナノカミ]

 末 社  地神・荒神(宮の脇、洞窟)

<御 由 来>  末吉宮は、王朝官社時代の琉球八社の一社で、俗に「社壇」「首里社壇」などと
           称され、史料では尚泰久王の時代(1456年頃)天界寺鶴翁和尚が熊野三所権現
           を勧請して祀ったという。
           お宮は、本殿・拝殿・祭場からなり、拝殿は大正二年に倒失、大小二つの岩山を
           結ぶ独特の磴道(石造階段)全体と本殿は、昭和十一年、旧国宝に指定された。
           (先の大戦で罹災、昭和四十七年復元)
           周辺はイベ、拝所が多く、古くから一大聖地を形成し、霊場として朝野の信仰を
           あつめてきた様子が偲ばれる。

<王の御参詣> 正月・五月・九月・十二月(宮籠り)
           代理社参元旦、正月十五日

<御 神 徳>  国家守護・国泰民安・五穀豊穣
           一般には子方[ニーヌファ]の神(事始の神)、学業・技芸成就、縁結び(ヤハンメー)、
           子孫繁栄の神として親しまれる。

<文 化 財>  「末吉宮磴道」、県指定文化財(旧国宝)
           「末吉宮跡」(全域)、国指定文化財・記念物・史跡

<例   祭>  十一月二十三日
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「大名口参道」に入ると向こうに木々が生い茂る林が広がり、石段を上って行く道になっていました。
よく見ると道端に植えられた花の他、見慣れない野草の花々が咲いていました。



石段を登って突き当りの道を右手に曲った所です。
向こうに赤い建物が見えてきました。「末吉宮」のようです。

向って右にノアサガオ(野朝顔)の青紫の花が見えます。



「末吉宮」に近づいてきました。
見えている建物は、「末吉宮」の本殿のようで、写真に向って左に拝殿の屋根が見えています。

道の先は谷になっており、「末吉宮」には直進出来ません。



突然、道が途切れたと思ったら断崖を下る階段がありました。
下を見るとかなりの高さがあり、実にスリルのある参道でした。



断崖を下りて振り返った景色です。
写真には見えていませんが、なだらかな中央の階段から右手に曲がると急な石段があります。

大きなガジュマルの木が、山の上から長い根を谷底まで伸ばし、さらに地面を這って根を広げています。
聖地を演出する迫力のある神木のようでした。

とにかく、秘境を歩いている気分になります。



山に沿ってやや右に進むと「末吉宮」の建物の下に出ました。

秘境の中で、突然目の前に高くそびえ立つ神社が現れたような驚きを感じました。

急な山の斜面に拝殿が造られ、石垣と長い柱で支えられています。
赤い建物と石垣の配色が、柱の黒い色で引締まっている感じです。

石垣の下にアーチ型のトンネルが造られています。



アーチ型のトンネルをくぐって反対側から見た景色です。
参道入口の案内板に「大小二つの岩山を結ぶ独特の磴道(石造階段)」とありましたが、まさにこの左右の岩山と、間の石垣のようです。

「磴道」は、唐時代の漢詩でも使われている言葉ですが、日本でも稀に使われているようです。
辞書では見つかりませんでしたが、使用例から考え、やはり「石造階段」の意味のようです。



社務所と思われる建物がありましたが、無人でした。
この社務所の前を向かって右に進む道があり、末吉公園から来る道のようです。

社務所の手前に見慣れない丸い柱が立っていました。
寄付をした方の名が書かれているようです。

■社務所に向かってすぐ左に史跡の案内板があり、転記します。
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史跡 末吉宮跡
 昭和47年5月15日国指定
末吉宮は「末吉社壇」の名で沖縄県民に親しまれたお宮で、室町時代中期に建立されたものです。波上、沖、安里八幡、識名、普天、金武、天久と共に琉球八社の一つにあげられている。近くの万寿寺(現遍照寺)の鎮守として熊野権現を祀ってあります。本殿は沖縄の地方色をよくあらわしている三間社流造本殿として昭和11年、国宝に指定されましたが、第二次大戦で砲撃を受け、建物の礎石と柱日本と虹梁(頭貫)を残したのみで飛散しました。現在の建物はこれら残った礎石と資材を基に昭和47年に復元修理をしたものです。
なお、この地域で許可を得ることなく現状を変更し、又は保存に影響を及ぼす行為をすることは、法律によって禁じられています。
  文部省 沖縄県
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社務所と、トンネルの間に拝殿の正面に昇って行く石段があります。

階段や、石垣の様子は、まるでグスクの雰囲気です。



祭場の奥から拝殿を正面から撮った写真です。

一段上の写真の石段と、この石段を合わせた「磴道(とうどう)」は、36段あるそうです。

参道入口の案内板に「末吉宮」について、「天界寺鶴翁和尚が、熊野三所権現を勧請」 とあります。
「天界寺」は、琉球王朝時代の三大寺院とされ、正月3日に王が「円覚寺」「 天王寺」「 天界寺」に参詣する慣わしがあったようです。
今でも「首里文化祭」には「古式行列」として再現されているようです。

「 天界寺」は、臨済宗の寺院で、首里城前の信号のある交差点横の管理センター辺りにあったと言われています。



末吉宮の拝殿の後ろに一段高く、本殿が少し見えています。
向って右に見える木は、断崖の下から見上げたガジュマルのようです。

神社とは言え、社叢には沖縄古来の御嶽の雰囲気、建物は中国の文化を感じます。

社務所横の案内板にもある「琉球八社」の内、七社は熊野権現を祀った神社と言われています。
特に「末吉宮」は、「熊野速玉大社」に、「識名宮」は「熊野本宮大社」に、「普天満宮」は「熊野那智大社」とそれぞれが熊野三山に結び付けられていたようです。


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