昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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ドイツ・スイス旅行 7 ネッカー川を見下ろすハイデルベルク城(1)

2013年08月16日 | 海外旅行
南ドイツ・スイス旅行2日目夕方、フランクフルトの南、ペンスハイム」のワイナリーからさらに南下し、ライン川の支流ネッカー川河畔に広がるハイデルベルクの町に到着しました。

ハイデルベルクは、中世に栄えた町で、「ドイツ・北欧・東欧の古城」(太田静六著 吉川弘文館)に歴史的な説明文がありました。

■「ドイツ・北欧・東欧の古城」より
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ハイデルベルクの名が最初に現れるのは1196年頃で、この頃はヴォルムス司教領の一小村に過ぎなかった。
この小村が名を出すようになったのは、プファルツ公国の領主・プファルツ伯オットーが13世紀前半に居城してからである。プファルツ伯は神聖ローマ帝国皇帝を選出する特権を持つ選帝侯という有力者なので、プファルツ伯が居城地とした結果、ハイデルベルクは急激に発展した。しかも、プファルツ伯は以後、18世紀までの約500年の長期にわたって居城地としたので、一段と栄えるようになった。
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ネッカー川に架かる橋「アルテ・プリユッケ」から左岸を見たハイデルベルクの街の風景で、街の上の高台に「ハイデルベルク城」がそびえています。

神聖ローマ帝国時代(962~1806年)のプファルツ選帝侯の居城「ハイデルベルク城」は、三十年戦争(1618~1648年)、プファルツ継承戦争(1688~1697年)と、二度の戦争で徹底的に破壊されたため、居城はマンハイムへ移され、現在は廃城として保存されているようです。



ドイツの地図にハイデルベルク周辺の地図を拡大して加えたものです。

ハイデルベルクは、マンハイムからチェコのプラハまで東西千キロに続く「古城街道」のハイライトとも言える町で、マンハイムでライン川に合流するネッカー川の河畔には多くの古城が見られるようです。



「スイス・オーストリア ロマンティック街道の本」 (近畿日本ツーリスト 出版) に掲載されているハイデルベルクの町の観光地図です。

ネッカー川河畔に街並が広がり、南の高台にはハイデルベルク城があります。

又、ハイデルベルクにはドイツ最古のハイデルベルク大学(1380年創立)があり、第二次世界大戦後はアメリカ軍が駐留する町でもあります。



右手に折タタミ傘を持つ添乗員Yさんに連れられ、ハイデルベルク城の入口に入ろうとする風景です。

左下の図は、上段のハイデルベルクの市内地図からハイデルベルク城の部分を切取り、少し拡大したもので、ハイデルベルク城の入口は、右下隅にあります。

今回は、ハイデルベルク城の外郭(ハイデルベルク城図1~4)の範囲をこの図の番号で紹介します。



入口を入り、左手に「ゲーテ記念碑」(ハイデルベルク城図1)があり、Wikipediaによると、ゲーテ(1749~1832年)と共にここを訪れた晩年の恋人マリアンネ・ヴィレマーが作った詩の一部が刻まれているようです。

戯曲「ファウスト」、小説「ウィルヘルム・マイスター」と並び、ゲーテ文学の三大主柱とされる抒情詩「西東詩集」の中の詩「いちょうの葉(ギンゴ ビローバ)」は、1815年9月にこの辺りで作られたとされ、秋になると写真の右上から斜めに垂れ下がるイチョウの枝も紅葉し、二人が立つ当時の風景が蘇るようです。

1814年、65歳のゲーテが古い友人であるフランクフルトの銀行家ヤーコプ・ヴィレマ-(1760~1838年)と会い、その時に同席していたのが30歳の若妻「マリアンネ」(1784~1860年)で、二人には35歳の差があったようです。

マリアンネは、小さな芝居小屋で母親と働いていましたが、ヴィレマーにみそめられて養女として引き取られ、約14年後に妻として迎えられた直後だったようです。(「ゲーテ その生涯と時代」講談社発行 リヒァルト・フリーデンタール著より)

「西東詩集」の名は、西洋の一詩人が歌った東洋風の詩いう意味だそうで、その中の「ズライカの書」ではゲーテは高徳のアラビア詩人「ハテム」として、「マリアンネ」はイスラム文学の中で最も美しく、才智ある恋の女性「ズライカ」として、それぞれが作った詩が対話形式で展開しており、ゲーテと出会って間もないマリアンネの詩の才能には驚きます。

■「ゲーテ全集 第一巻 西東詩集」(人文書院出版 )より
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いちょうの葉

はるばる東方の国から移されたという
これはいちょうの落葉だ
いちょうの落葉には
神君を満足させる深い意味がふくまれている

これは一枚の葉がさかれて
二枚になったのだろうか
それとも 二枚がたがいに結びあって
一枚の葉になったのだろうか

この問にこたえるために
ぼくはちょっとうまい考えを思いついた
ぼくの歌を聞きたまえ
ぼくもまた一枚と二枚であるいちょうの葉にみえないか
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イチョウの葉先の中央の切れ目を二つの葉が結合した痕跡と発想したゲーテの詩です。



「ゲーテ記念碑」の碑文の部分です。(ハイデルベルク城図1)

翻訳サイトで調べることも考えましたが、一部文字が読み取れず、断念しています。



「ゲーテ記念碑」の先にあった砲台跡「ロンデル」(ハイデルベルク城図2)です。

西の高い城壁から半円柱形に突出していた施設の約半分が破壊され、内壁の下方に各階の床を支えていたと思われる石積みが見られます。

各階の右手には塞がれた窓のような跡が見られ、大砲は、各階に据え付けられ、壁に開けられた窓から砲撃していたのかも知れません。

ロンデルの上には、街を展望する人が立っていますが、突出た施設からの眺望はなかなかのものでした。



ネッカー川に架かる橋「アルテ・プリユッケ」から見た「ハイデルベルク城」で、黄色の破線で囲まれた場所が「ロンデル」です。

破壊を免れた「ロンデル」の壁には窓がなく、二度目に城が破壊されたプファルツ継承戦争(1688~1697年)当時には砲台が廃止されていたものと思われます。



「ロンデル」に隣接して螺旋階段がありました。

「ロンデル」の各階に通じる階段だったと思われます。



「ゲーテ記念碑」の少し東側に「エリーザベト門」(ハイデルベルク城図3)がありました。

工事のフェンスで囲まれたこちら側は、門の裏側だったようで、美しい装飾がある正面の写真は撮れませんでした。

エリーザベト門は、1615年にフリードリヒ5世 (1596~1632年、在位1610~1623年)が妻エリザベスの誕生日を祝って造られたものとされ、門の正面からは同じくエリザベスのために造られたイギリス館が望めるようです。

プファルツ選帝侯フリードリヒ5世は、イングランドとの同盟を目的に1613年、イングランド王ジェームズ1世の王女エリザベス・ステュアート(1596~1662年)と結婚したものです。

それから10年後、選帝侯の地位を追われて不遇の生涯を送ったようですが、二人はその後も仲睦まじく生活していたようです。



ハイデルベルク城の内郭に入る城門の風景です。(ハイデルベルク城図4)

次回は、内郭の紹介です。


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