昔に出会う旅

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九鬼水軍が創建した尾鷲市「九木神社」

2009年06月08日 | 近畿地方の旅
5月2~4日に行った熊野・伊勢・志摩旅行の続きです。

早朝、福山市を出発、熊野市の鬼ヶ城 >> 花の窟神社 >> 産田神社と廻り、尾鷲市九鬼町の「九木神社」を参拝しました。

織田信長に従い、戦国時代に恐れられた「九鬼水軍」のルーツがこの地にあり、九鬼氏が創建した「九木神社」を知り、訪れたものです。



「九木神社」は、紀伊半島を周る国道42号から八鬼山トンネルを通り8Km余りの道のりです。

八鬼山トンネルや、紀勢本線がなかった時代、陸の孤島とも思える場所だったように思えます。

そのような土地に、なぜ戦国時代に名声を轟かせた九鬼水軍のルーツがあるのか、とても興味深いところです。

又、世界遺産となった熊野古道は、九鬼町の南西にある三木里町からの八鬼山越えで尾鷲市へ通じていたようです。



トンネルを抜け、坂道を下って行くと九木湾沿いの道に出ます。

向こうの山すそに九鬼町の集落が広がり、湾に面した右手にこんもりした小山の上に「九木神社」があります。

三方を山に囲まれた九木湾は、太平洋の荒波もなく、驚くほど波静な良港と思われます。

昔、船の航行では水や物資の補給、風待ちなどで各所の港に立ち寄っていましたが、太平洋に面した日本最大の紀伊半島の航行にはこの様な良港が必要だったと思われます。



道路脇の駐車場に九鬼水軍にちなむお菓子屋さんの看板がありました。

九鬼銘菓「九鬼水軍虎の巻」 錦花堂本舗とあり、小さな町の自慢の銘菓と思われます。



「九木神社」は、港に面した正面の山の上にあり、写真右手に鳥居が見えています。

この神社一帯の森「九木神社樹叢」は、貴重な自然が残り、国の天然記念物に指定されています。

特に、樹叢[神社の森]のシダ、クサマルハチは、日本で北限とされているようで、その他多くの暖地性植物が繁っています。



「九木神社」の入り口です。

ここから長い階段を上って行きます。

鳥居の右手に手洗い鉢があり、その後ろの立札に「清めの塩水 九木神社」「手を洗わないで下さい」と書かれていました。

鳥居の横に置かれた塩水で、お清めをするのは初めて見ます。

榊の葉に塩水を付けて御祓いをするようなイメージを持ちますが、実に興味のあるところです。



神社の石段から見下ろした景色で、九木湾の奥を見ています。

鳥居からすぐ前が海で、左手に桟橋、右手に九鬼市場の建物が見えます。

鳥居の横にお清めの塩水が見えますが、すぐ前の海から汲めるので真水を汲むより便利と思われます。



石段を上がり、奥に進むと神木と思われる大きな杉の木があり、その向こうに社殿が見えて来ます。

九鬼氏のルーツは、諸説があるようですが、狭く交通不便な九木湾岸に一族が住み始めたことを考えると戦いに敗れ、落ち延びたものと考えられます。

貞治年間(1362年~1366年)九鬼氏三代目次男の九鬼隆良が、志摩市大王町の波切に転進し、波切城城主となったとされています。

戦国時代、九鬼嘉隆の代になり、それまで従っていた北畠氏から、勢力の伸長著しい織田信長の傘下になったことが九鬼氏の大きな転換点となったようです。

織田軍と、毛利軍の大阪の石山本願寺の戦いに「九鬼水軍」は、火矢を防ぐ鉄板張りの戦艦で、毛利方の大船団「村上水軍」を打ち破り、この紀伊半島から大阪湾までの制海権を握る勢力となったとされています。

■参拝者向けの手作りの資料を頂き、その中に「九鬼の沿革」の記載がありました。
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九鬼の沿革
 九鬼という地名の由来には諸説あるが、日本地理資料によると正平年中(1346~1370)【南朝】に九鬼氏が城を築いてこの地に住まったので、九鬼と呼ぶようになったと書かれている。しかし、九鬼氏が当地に居城したのは数年の間であったようだ。
 九鬼家々譜略には、文和年中(1352~1356)【北朝】に隆良謂く、武名を天下に上げんことを願って壮士30余人を率いて海を渡り、志摩国英虞郡波切村に着いたと書いてあり、国史大辞典にも文和年中に志摩国に移ると書かれている。
 九鬼と称する以前は比志賀と称していたようだ。
 比志賀には伊勢神宮に献ずる塩を焼いていた御厨があったことが、鎌倉時代(1185~1333)の「神鳳抄」という書物に書かれているが、早田寄りの荒磯で塩を焼く程度の土地で、舟を繋留するような場所もなく、漁が出来るような場所ではない。
 平家の落武者が住んでいたと語り継がれている古田等の小集落が、平坦水利と静かな内湾を有する現在の地に居住するに至ったと思われる。
 尚、九鬼城については北牟婁郡地誌によると、慶長8年(1603)に九鬼恒隆が城を壊つと書いてあり、その城址は大正4年迄残っていたそうである。
 江戸時代に入ると九鬼以西の港と江戸とを行き交う船多く、天和2年(1682)に九木岬に遠見番所・狼煙場・燈明台が設置され、明治2年に廃す迄、九鬼水軍の末裔によってその任務は引き継がれていた。
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立札に「大漁の神 大黒(大国主命) えびす(事代主命)」とあり、小さな鳥居の後ろに二つのご神体と思われる石が置かれていました。

左手の石は、釣り竿を持ち、大きな鯛を抱えるえびす様と思われます。

なんとなく感じの出ている石です。



一見、寺院のお堂のようにも思える神社の拝殿正面の写真です。

閉め切って無人の神社が多い中、拝殿の中で参拝させて頂くことができました。

■参拝者向けの手作りの資料に神社の創祀が書かれていました。
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九木神社創祀
今から凡そ六百七十年前九鬼村開村間もなく藤原隆信(後醍醐天皇後村上天皇二氏奉仕)九鬼港に面する海岸のほぼ中央に位置する丘の上に小規模な城郭を築き、この開村から何もない時期に社寺、すなわち九木神社と曹洞宗真厳寺を建てられた。九木神社は隆信の嫡子隆治の時に創祀されたと伝えられる。そこで菅原道真公をお祭りした天満天神とは南国和尚(隆治十二世の孫)にお告げ有り前期(南国和尚)文章祭神となされました。(一三七五~一三七八)藤原隆治により九鬼城内に一祠を設け天満天神を祀ったのを創祀とし、後寛文二年二六六二)には現在の鎮座地に遷座し、それまでこの地の産土神として祀られていた若宮八幡・国柄明神と共に一社に祀られたと伝えられている。「天神」と称し近郷の人々の崇敬を集めていた。明治六年(一八七三)村社に列せられ、同三九年(一九〇六)神饌幣帛料供進社となり、昭和二一年(一九四六)宗教法人として届で現在に至っている。
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拝殿内の様子です。

左手の壁に掛けてあった菅原道真公の絵と、正面の祭壇の写真を並べています。

菅原道真公の絵は、どことなく憂いを感じるお顔で、服装には不思議な透明感があり、天神と祀られた姿を表現されているようです。

神社では、祭神のイメージをあまり強く感じることはありませんが、改めて祭神「菅原道真公」を印象付けられました。



「九木神社」宮司さんから頂いた葉書です。参拝の記帳をしていたためと思われます。

「このたびは ぬさも取りあへず・・・」は、菅原道真公の歌で、高校時代に習った百人一首の記憶がよみがえりました。

丁寧な礼状が、とてもうれしく、忘れられない神社になりました。


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10 コメント

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比志賀(ひじか)御厨 (日和良)
2010-08-19 20:40:02
はじめまして、旧九鬼村早田浦の出身者です。
九鬼水軍発祥地・紀州九木浦のHPの管理人です。
九鬼では、今は、自領の大ひじかをひじかと今は、言っていますが、早田領は、小ひじか、も、ひじかです。九鬼領ひじかは、昔、早田の旧家の田んぼが、あった口伝が、あります。
早田からは、峠越えで、九鬼領ひじかに行く道があります。今は、早田では、九鬼のひじかは、おじか・早田領ひじかは、こじかと言っています。三重県文化財の尾鷲組大庄屋文書に領境におおびじか、九鬼・早田が比志賀御厨の名残でしょう、九鬼の網代大明神・早田の松尾大明神の社が、ひじかの近くあります。
ただ、九鬼・早田も発祥地ですが、あまり語られていません、九鬼・早田の領地争いの地です。九鬼・早田の寺が兄弟寺で仲裁していたそうです。
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「九鬼」の旧名「比志賀御厨」について (tako_888k)
2010-08-20 16:41:18
日和良さん コメントありがとうございます。

昨年、長いトンネルを抜けて、おだやかな海岸に面した九鬼神社の鳥居前に立ったことを思い出しました。

「九鬼」の旧地名「比志賀[ひじか]」は、地図では見当たらず「早田町」の北の岬「ナサ崎」の南辺りでしょうか?
「比志賀」は、「ひしが」と呼ぶと思っていましたが、「ひじか」とは意外でした。製塩の地から「ひしお」を連想し、末尾に「賀[が]」の付いた地名かと思っていました。
伊勢神宮の「御厨」だったとのことですが、「御厨」を「神領」と解釈したらもう少し広い範囲の地名だったとも考えられますね。
いずれにせよ地元の歴史に詳しい日和良さんのHPなどで、このあたりの歴史を地図と合わせてご紹介頂けると有難いと思います。
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ひじか (日和良)
2010-08-20 22:46:52
早田のHPに、詳しいところが、あります。
比志賀は、九鬼町奈佐の鼻から早田町オビアナの鼻が、ひじかです。
神宮領です、神鳳抄にひじかが、書かれているそうです。
ひじかが一番南の御厨です。
尾鷲市には、村島・焼野・すがり・さわの御厨があります。
九木神社は、明治の初め九木浦の村社だからですよ、今年の五月の連休の帰省の折、九木神社に参拝して、宮崎宮司とお話できました。私が中学生の時は、九鬼宮司でした。
私は、宮崎宮司のように、早田神社を守りたいと思っています、早田の入り口に九鬼の茜の森の入り口が、あります、車で行くひじかの近くまでいけます。九鬼のひじかには、行ったことがあります。キウイフルーツの小さい野性の実やアケビが自生しています。
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早田のHP (tako_888k)
2010-08-21 14:48:56
日和良様

コメントありがとうございます。

早田のHPは、こちらでしょうか?
 「紀州熊野灘の漁村・早田浦・今昔」
 http://park17.wakwak.com/~haidaura/index.html

やはり「比志賀」についての記載がありました。

縄文時代以降の遺物が出土しているようで、住みやすい土地なんでしょうね。

いろいろとご教示頂き、ありがとうございました。
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九鬼水軍発祥の地・紀州九木浦 (日和良)
2010-08-21 14:57:29
九鬼町、紹介のHPです。
本来、九鬼出身の九鬼に詳しい方が作るといいとおもいます。
尾鷲高校同窓会で、九鬼出の方の要望でだきました。一応・九鬼中・九鬼ひまわり幼稚園の卒園です。
九鬼の鰤定置網、全盛期のころ、大漁に導いた伝説の網頭(漁労長)バストスリーが早田の出です。
私の曽祖父、父も九鬼定置で働いています。
早田定置の漁場は、ひじか沖にあたるかも知りません、早田稲荷は、鎮護国家の銘文があります
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お尋ねします (tako_888k)
2010-08-22 18:20:03
日和良様

何度もコメントありがとうございます。

折角の機会ですので、日和良様のご見解をお尋ねさせて頂きたいと思います。

日和良様のお話では「比志賀は、九鬼町奈佐の鼻から早田町オビアナの鼻が、ひじかです。」とあります。

しかし、神宮「比志賀御厨」のエリアとしては極めて狭いように思われ、当時の「ひじか」は、九木浦や、早田浦に広がっていた可能性はないのでしょうか?

又、九木神社の資料に「正平年中に九鬼氏が城を築いてこの地に住まった・・」とあり、この地を選んだ理由として以前から神宮との関係があった可能性はないのでしょうか?
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難しいお尋ねですね。 (日和良)
2010-08-24 00:04:09
九鬼氏の祖・藤原隆信公は、南朝に仕えていたと、九鬼村初代村長の遺稿集に書かれています。伊勢神宮の御厨の長官で九鬼に赴任では、ありません。
尾鷲市の隣町に木本(このもと)御厨の長官で来て、豪族になり、神宮文庫にある、荘司文書を残した家もあります。
尾鷲には、後南朝の王子も落ちてきたいます。
菊水の紋の楠姓の方もいます。
九鬼は、天然の良港で、今も堤防がありません
九木神社の岬が天然の堤防です。そして、明治になっても、三重県一の海難地です。九鬼・早田が九鬼氏の領地と思われるには、寺が兄弟寺です。江戸時代は、共有林がありました。
九木神社宮司さんから詳しいお話を聞いていあるとおもいます、
四日市のさくらに居城し、さくらの中将の藤原隆信公は、家臣の反逆にて九鬼に逃れた、九鬼は、三方山に前は、海、、住民の協力もおおかったと思います、紀州徳川家になり、浦組で、九鬼・早田も尾鷲組となり九木浦・早田浦になり、前は、三木荘戦国時代・三鬼新八郎の治める地でした。そのころは、九鬼村・早田村です。三木荘の南に曽根荘の4村は、近江の国の佐々木氏を招き城築き治めてもらったそうです。九鬼氏もその可能性があります。
九鬼湾・早田湾の間がひじかです。
ひじか御厨は、現在でいえば、ひじか町です。
九鬼・早田に分かれたのは、慶長検地のころは、分かれています、太閤検地を元にした検地なのと云われています。
九鬼の方なら、九鬼は九鬼だけと言われるかもわかりません、古老たちによりと、九鬼早田は、事あるごとに、相談して、地区の運営の仕方も同じでした。三木荘の七人集に東兵庫が早田を治めていた口伝があります。九鬼氏と三鬼氏の仲介役だったのか、三木城攻めの時には、早田から峠越えした口伝が、あります。
早田神社は、九鬼とちがい、若宮八幡宮でした。
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感謝します (tako_888k)
2010-08-25 08:25:02
日和良様

コメントありがとうございました。
九木浦と、九鬼氏の歴史にも分からないことがまだ多くあることを知りました。
貴重な参考情報をたくさん頂き感謝申し上げます。
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九鬼氏の祖 (日和良)
2010-08-27 22:40:53
九鬼氏の祖も、綾部説なら、藤原隆真公ですよね、九鬼の九鬼氏説なら、藤原隆信公です。
九鬼嘉隆公が大名になったからでしょうね
綾部の城主の子孫は、熊野本宮大社の宮司になっています。
八幡書店の九鬼文書の研究を読むとわかります。
九鬼氏の祖が南朝に仕えた方は、同じです。
三重県南部は、南朝の臣が多く、北畠氏に仕えたかたも多いです。三鬼新八郎(三鬼伊賀守)尾鷲荘司(尾鷲神社宮座の一人)の屋敷が北畠氏城下地図にあるそうです。九鬼を安住の地に藤原隆信公が決めた要因では、50年前には、早田と九鬼をつなぐ交通は、渡し船でした。
尾鷲からも八鬼山越えです。
以前九鬼出身の風水師のかたが、九鬼は、風水に適った地と言ってました。
早田は、限界集落に」ねったます。
九鬼もまじかでしょう、小学校、中学校は、休校になりました。
九鬼には、行場の滝があります、おこちの滝です、九鬼も縄文遺跡があると思います、石斧が発見されています。今は、行方不明だそうです。
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Unknown (tako_888k)
2010-08-30 21:55:27
日和良様

コメントありがとうございました。

歴史ある土地が、「限界集落」とは深刻な事態ですね。
こちらでも山間部の由緒ある神社仏閣が荒れているのを見るにつけ、この国はどうなるのか、大きな社会の変化に不安がつのります。
いずれ、遺跡で発掘される運命なのでしょうか。
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