昔に出会う旅

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北海道旅行No.39 「松前城資料館」で見た「夷酋列像」

2011年12月22日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)、北海道松前町の松前城の天守閣にある「松前城資料館」を見学しました。



「松前城資料館」受付の建物です。

「搦手ニノ門」をくぐると正面にある建物で、ここを通り抜けると、そびえる松前城の天守閣が見えてきます。

■天守閣にある「松前城資料館」の案内板があり、階別の展示内容が書かれていました。
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地階 アイヌ
1階 松前藩関係資料
2階 松本家資料展
3階 夷酋列像・松前城写真・福山(松前)城出土陶器展
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地階のアイヌ関係の展示場に「正装した弁開凧次郎氏」と名付けられた写真があり、興味深く見せて頂きました。

幕末に生まれ、明治・大正期に活躍されたアイヌのリーダー的な方だったようです。

この写真のすぐ横にも雪の中に立つ7人の男達の写真があり、下記の説明文にある八甲田山遭難事件で捜索で、アイヌの仲間を引き連れて出動した時の記念写真だったと思われます。

■写真に添えられた説明文です。
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弁開凧次郎(1847~1919)
牛馬商、獣医。アイヌ名はイカシパ。落部[おとしべ]コタン(現 渡島管内八雲町)の有力者の家に生まれる。
1902年、青森歩兵第5連隊の八甲田山遭難事件では、3週間にわたって捜索活動に参加した。
皇太子殿下(大正天皇)のご成婚を祝い子クマ2頭を献上している。また、1911年殿下がご来道の際には、大沼公園の船遊びの近くまで泳いで行き、ご歓迎したという。
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1階の松前藩関係資料の展示場の風景です。

左側の絵図が、前回も紹介した「松前屏風」(小玉貞良筆・宝暦年間[1751~1763])です。

江戸時代中期、交易で賑わう松前城下の様子がよく伝わってきます。

鎖国の江戸時代、公然と交易を収入源としていた松前藩は、西に開かれた長崎ほど知られていませんが、アイヌを通してアジア大陸北東部に開かれた意外に大きな窓口だったようです。



1階、松前藩関係資料の中に「慶応3年の福山城」と題する古い写真がありました。

「函館市写真歴史館」でも紹介されている幕末からの写真家「木津幸吉」「田本研三」両氏の撮影による貴重な映像です。

慶応3年は、箱館戦争が勃発した明治元年の前年で、江戸時代の福山城(松前城)の雄姿と、城下町の様子が伝わってきます。



2階、松本家資料展で見た「長者丸姿図」です。

見慣れた北前船の姿とは違い、美しく飾られた船に目がとまりました。

松前藩主の参勤交代で航行する様子が描かれたもので、船を曳く周囲の小船と合わせ、さながら海上の大名行列絵図といったところでしょうか。

この船の船頭「松本家」は、能登半島の出身とされ、蝦夷地から日本海を南下、若狭湾~琵琶湖~京都~大阪と続く中世からの交易ルートに関連するものと推察されます。

■絵の下に添えられていた説明文です。
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長者丸姿図
参勤交代の時、旗や幟[のぼり]、まん幕などで飾られた長者丸が、たくさんの小船曳かれて松前から出発している様子を描いたもの
   「福山温故図解」より
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松前町指定有形文化財
松本家資料
 松本家は能登(石川県羽咋)出身で、初代金蔵・2代百蔵(のちに金蔵を襲名する)にわたり、松前藩の御召船(おめしぶね)の船頭を勤めた家柄であつた。 御召船とは藩主が参勤交代で津軽海峡を渡る時に乗る船をいう。この船の名を長者丸とこいい、松前城下の豪商柏屋藤野家の持船であつた。
 松本金蔵は、ふだんは長者丸の船頭とこして蝦夷地と大坂・江戸とをはしり、藩主の参勤交代時には御召船の船頭とこして活躍した。したがって、いわゆる北前船の船頭とは異なり身分は松前藩の徒土格士席(かちかく しせき)であった。
 松本家資料は、同家に長く保存されてきたものを平成7年、松前町で購入したものである。資料は、文化年間(1804)から明治・大正期に及び、和船関係、古文書、美術工芸、民族資料など多岐にわたり、北海道の経済史、海運史、生活史などのうえから貴重なものである。
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江戸時代の1791年(寛政3)、蠣崎波響によって描かれたアイヌの有力者「乙箇吐壱[イコトイ]」(左)と、「失莫地[シモチ]」(右)の異様な像です。

北海道旅行No.14、根室半島「ノッカマフ」の記事でも紹介しましたが、江戸時代の道東でアイヌが蜂起した大事件「クナシリ・メナシの戦い」の後に描かれたとされる絵です。

松前城天守閣最上階3階に「夷酋列像」12枚が展示されていましたが、額のガラスに城の窓の光が映った写真になってしまいました。

■パネルに添えられていた説明文です。
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乙箇吐壱[イコトイ]
アッケシ(厚岸)の指導者。常に槍を携えている。騒動を聞き、参加者の逃亡を防ぐため、弓が巧みな部下数十人をウルップ(ラッコ)島、エトロフ島へ派遣した。

失莫地[シモチ]
シモチアッケシの準指導者。幼少より体術に巧みで弁舌に優れていたという。
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■「夷酋列像」12枚のパネルの説明文です。
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夷酋列像<いしゅうれつぞう>
 寛政元(1789)年、クナシリ島やメナシ地方(根室管内)のヌイヌ民族が場所請負人飛騨屋の横暴に対し蜂起する事件があつた。(国後目梨騒動、クナシリ・メナシの戦いと呼ばれる)この事件では、クナシリ島や対岸の標津(しべつ)地方で和人71人が殺害され、搾取に苦しむアイヌ民族の怒りが頂点に達した結果であつた。
 これに対し松前藩側では急きょ260人余の討伐隊を派遣し、首謀者ら37人のアイヌを処刑し事件を収束させた。この時、松前藩側に協力し事件の収拾にあたったアイヌの指導者12人の肖像が「夷酋列像」である。
 事件後の9月、松前藩は44人のアイヌを引き連れ城下へ凱旋(がいせん)するが、それらアイヌの人々は松前で一冬過ごしたという。
この時、藩主道廣は、弟で家老であった蠣崎波響にその肖像を描せた。ただし、12人のうち実際に松前に来ていたのは4人(シモチ、イニンカリ、ニシコマッケ、イコリカヤニ)で、残りの8人は人相などの聞き取りによって描いたものと云われている。しかし、描くにあたってはかなり苦心したらしく、多数の下描き(粉本)が残されており、完成したのは翌年秋であつた。
 波響は寛政3年、作品を携えて上洛し、改めて浄書を行った。「夷酋列像」は文人の間での評判が高まり、ついに天覧(天皇陛下がご覧になること)を賜わるにいたった。その後、諸大名の間でも関心が持たれ、借り受けた大名による模写作品がいくつか知られている。展示作品は 黒田家旧蔵の模写(小島貞喜による)作品である。
 「夷酋列像」は二組(松前家と蠣崎家蔵、一説にはもうー組あった)作成されたが、明治維新の混乱のため散逸してしまい、現在、市立函館図書館に2幅とフランスのブザンソン美術館に11幅が保存されている。
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「夷酋列像」のパネル「貲吉諾謁[ツキノエ]」(左)と、その妻とされる「窒吉律亜湿葛乙[チキリアシカイ]」(右)の絵です。

上段の乙箇吐壱[イコトイ]は、二人の息子になるようです。

アイヌの蜂起事件「クナシリ・メナシの戦い」は、支配下のクナシリで発生したとされており、和人への強い反感がありながら騒動の鎮圧に動かざるを得なかったやり場のない心情があったものと思われます。

■パネルの説明文です。
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貲吉諾謁[ツキノエ]
クナシリの総指導者。身長6尺余(180cm余)、眉目秀麗、腕力出群。年齢70才以上。騒動の時には千島列島にいた。しかし、息子、支配下のアイヌの多くが騒動に加わっていた。
部下の中の雄弁な者に説得の演説をさせ、騒動を鎮めた。鎮圧の功績第一という。

窒吉律亜湿葛乙[チキリアシカイ]
ツキノエの妻でイコトイの母、65才
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「卜羅鵶[ボロヤ]」(左)と、「乙箇律葛亜泥[イコリカヤニ]」(右)の像です。

「イコリカヤニ」も上段の「ツキノエ」の息子とされるようで、「ツキノエ」の息子の一部には蜂起に参加した者がいたとされることから、親子、兄弟が戦う悲しい事件でもあったようです。

■パネルの説明文です。
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卜羅鵶[ボロヤ]
東部ベッカイ(別海)の指導者。シモチとともにクナシリ島アイヌの説得をする。

乙箇律葛亜泥[イコリカヤニ]
クナシリの準指導者。不敵勇猛であり、衆夷かに敬服されている。クナシリで一番の弓の名手。
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「麻鳥太蝋潔[マウタロケ]」(左)と、「起殺麻[キサマ]」(右)の像です。

説明文にある「ウラヤスベツ」は、網走の東にある地域のようで、国後島で始まった蜂起事件は、北海道東部のアイヌ社会全体を巻き込む深刻な事件となったことがうかがえます。

■パネルの説明文です。
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麻鳥太蝋潔[マウタロケ](マウタラケ)
東部ウラヤスベツの総指導者。騒動を聞き300人余のアイヌを率いて参加者の西北部よりの逃走を防ぐ。

起殺麻[キサマ](チョウサマ)
騒動の発生を聞き、マウタラケとともに300人余のアイヌを率いて騒動参加者者が西北部から逃亡するのを防ぐ。
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「贖穀[ションコ]」(左)と、「訥室孤殺[ノチクサ]」(右)の像です。

「知慮にあふれる」とする「ノチクサ」の説明文と、鹿をかつぐ姿は、どうもイメージが合いません。

夷酋列像の12人の内、松前に来なかった8人に含まれる「ノチクサ」の像だけに、蠣崎波響が会わないで描いた絵と、説明文に矛盾があることは仕方ないことかも知れません。

■パネルの説明文です。
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贖穀[ションコ]
東部ノッカマップ(根室)の総指導者。威厳があり、深い知恵にあふれ貧しいアイヌを救ったという。弓術が巧みで常に携えていた。

訥室孤殺[ノチクサ]
東部シャモコタン(根室)の指導者。道理をわきまえ、知慮にあふれる。弁舌により利害を説き、他のアイヌの騒動への参加を押さえる。
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「乙[口金]※葛律[イニンカリ]」(左)と、「泥湿穀末決[ニシコマッケ](右)」の像です。

■パネルの説明文です。
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乙[口金]※葛律[イニンカリ]
厚岸の指導者。侠気にあふれたという。
松前藩兵が到着する前に、騒動を起こしたアイヌを攻めようとするが思いとどまり、藩兵到着によりノッカマップ(根室)へ同道する。

泥湿穀末決[ニシコマッケ]
アッケシの指導者。弓に優れ、威名は東部にとどろくという。
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※[口金]は、1文字の活字表示がなく、口と金を合わせた一つの文字で見てください。



タイトルに「旧幕府軍 中島三郎助」と書かれた写真がありました。

函館戦争で五稜郭の南西約1~2Kmにあった「千代ヶ岡陣屋」の隊長で、降伏の勧告を拒絶して二人の子供と共に壮絶な最後を遂げたとされる人です。

一昨年、中島三郎助最期の地「千代ヶ岡陣屋跡」を訪れ、どんな人だったかと思っていましたが、この写真の顔に最後まで意志を貫いた強い人柄を感じます。

■函館市「千代ヶ岡陣屋跡」付近にあった案内板の説明文です。
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中島三郎助父子最後の地
中島三郎助は浦賀奉行配下の役人であったが、安政2(1855)年に幕府が創設した長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となった。
維新後、明冶元(1868)年10月、彼は榎本武揚と行動を共にし、軍艦8隻を率いて北海道に来た。箱館戦争では、五稜郭の前線基地であった千代ヶ岡陣屋の隊長として、浦賀時代の仲間とともに守備についた。
新政府軍は箱館を制圧すると、降伏勧告をしたが、中島はそれを謝絶して戦闘を続け、5月16日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死した。「ほととぎす われも血を吐く思い哉」という辞世の句を残した。
昭和6(1931)年に、中島父子を記念して千代ヶ岡陣屋のあったゆかりの地が中島町と名付けられた。
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なぜ、この松前城資料館に写真があるのか分かりませんが、函館戦争の歴史を肌で感じるような写真でした。


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