昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

北海道旅行No.44 鰊番屋の原型「旧笹浪家住宅」

2012年01月21日 | 北海道の旅

北海道旅行6日目 6/8(水)、北海道最古の建物、「上ノ国八幡宮」の次は、隣の北海道最古の民家建築「旧笹浪家住宅」の見学です。

「勝山館跡ガイダンス施設」で、「旧笹浪家住宅」との共通観覧券を購入して入館しました。



国道沿いに建つ「旧笹浪家住宅」です。

「旧笹浪家住宅」は、江戸時代末期の建物とされ、この地で鰊漁を営む旧家の住宅でした。

ガラス戸の玄関を入ると、奥まで土間が続き、向かって左が笹浪家、右手は使用人の居住スペースで、外観の装飾も左右で明確な差がつけられていました。

屋根にはおびただしい数の石の並び、茶色の樹皮の壁は、杉の皮(松前杉?)でしょうか。

杉の皮(?)で覆われた外壁は、内側の板壁を保護し、厳寒の冬に断熱効果を高めるための工夫だったのでしょうか。

■「旧笹浪家住宅」で頂いたハンフレットの説明文です。
******************************************************************************
 旧笹浪家住宅(主屋)は、天保九年(1838)に没した仝能登屋笹浪家の五代目久右衛門が建てたと伝えられています。安政四年(1857)に家の土台替え、翌五年に屋根の茸替えを行ったことを記した「家督普請扣」が残っており、十九世紀前半の建築であると認められます。
 イロリの自在鈎[じざいかぎ]に吊された鉄瓶から湯気がのぼり、カマドから真っ黒に煤けた梁組まで立ち上る煙が、遥か遠い時代の記憶を呼び覚まし、どこか懐かしいものに出逢ったような気分にさせてくれる北海道最古の民家建築です。

 昭和三十年代まで主屋の表通りに建ち並ぶ民家の大部分が石置屋根でした。主屋の屋根は置き石のヒバ柾葺です。
 松前藩政時代、無断で檎材を家作に用いた者は処罰されたそうです。
 主屋の柱や梁は雑木で建てられたと伝えられてきましたが、部材の大部分がヒバと判明しています。
******************************************************************************



前回も掲載しましたが、上ノ国町の史跡の地図です。

「旧笹浪家住宅」は、地図中央の海岸に近い青色の家のマークの場所です。

西隣に「上ノ国八幡宮」、その隣にも「上國寺」があり、いずれも「北海道最古」と形容される建物が並ぶ歴史的なスポットです。



近くの海岸にあった笹浪家の漁場の風景画で、当時としては珍しい銅版画です。

江戸時代末期、近くの浜に造られた番屋で、ニシン漁の大型化に伴い、家屋と加工施設などが分離した歴史過程を感じます。

展示パネルのそばに銅版画を元に製作された漁場の模型も展示され、鰊漁で賑わう浜の様子が伝わってくるようです。

絵の上部に「渡島国桧山郡上ノ国村廿五番地」とあり、明治政府は渡島半島を平安時代から続く地方の国名にならい「渡島国」としています。

北海道には渡島国」の他に「後志国・胆振国・石狩国・天塩国・北見国・日高国・十勝国・釧路国・根室国・千島国」と全部で11カ国新設されました。

ちなみに「北海道」の名称は、古代からの広域地区名称「畿内・東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道」に連なる名称で、幕末の探検家「松浦武四郎」の銘名と言われています。

■添えられた説明文です。
******************************************************************************
銅版画(笹浪家漁場 明治20年頃)
のとや笹浪家漁場
重要文化財旧笹浪家住宅(主屋)西方の浜磯に能登屋笹浪家の漁場があった。能登屋笹浪家文書の中に明治20年頃の漁場の風景を刻んだ銅版画が残されている。漁場中央の番屋(漁舎)は、幕末期の上ノ国村名主として高名な久末善右衛門(のちに積丹美国に移住)の旧宅を移築したものと伝わる。
番屋二階の一室で向かい合うのは親方夫妻だろうか、玄関口の二組の男たちは〆粕や身欠きの出来具合でも話しているかのようだ。漁舟が並ぶ浜には大タモを担ぐ男や、早櫂を手に談笑する男たち、番屋横の干場ではニシン粕をエビリで叩き拡げ、筵に干す若い者の姿も見える。

漁場には番屋、船倉、網倉などと考えられる建物が並び、ニシン粕焚き用の薪が大量に山積みされ、の浜側に築設された「やらい」の中には釜場が据えられている。玉砂利の前浜には沖揚げを終えた保津船や磯船が引き揚げられ、澗印が所在なげだ。

モッコ背負いの女性が二人、モッコの中味は数の子や白子、笹目(えら)であろうか。廊下(船倉)から溢れ出たニシン相手にニシン潰しや尻つなぎに精を出す男女の喧噪が聞こえてきそうだ。
******************************************************************************



建物正面の特徴のある部分の写真を集めてみました。

右上の家印は、案内の女性から「ほしやまに」と教えられ、星の付く名にオシャレな印象を受けました。

左上は玄関上の欄間で、手の込んだ組子細工のようです。

下の写真は、玄関脇の建物の下部で、基礎の石の上に表面が平らな「笏谷石」が使われていると教えて頂きました。

遠く福井から運ばれた笏谷石は、前回掲載の「上ノ国八幡宮」の狛犬にも使われており、濡れると青緑色になる美しい石材です。



頂いた「旧笹浪家住宅」のパンフレットにあった間取り図です。

一般住宅と比較すると大きな家ですが、小樽市の明治に建てられた豪華な鰊御殿などと比較すると規模が小さく、比較的質素な江戸時代の邸宅といったところでしょうか。

案内の女性から、日本海海岸を北上するに従い、鰊御殿の様式も次第に変化していくと教えて頂きました。

漁業の規模も次第に大規模になり、漁場を求めて次第に北上して行ったのでしょうか。

■パンフレットの説明文です。
******************************************************************************
母屋の北半は明治、南半が江戸!!
 正面玄関を入って通り庭に立つと、左側にミセ、その東隣にザシキと呼ばれる接客空間があります。調査の結果、明治二十六年頃の道路拡張に伴い前面半間が切り縮められ、ザシキ・ミセともに改造されたことが分かりました。ミセの北側には蔀(しとみ)とつたわる戸が落とし込まれ、ザシキの出窓のガラスには気泡が入って歪んでいるのが分かります。
 ミセの奥の板敷きの部屋はイタマと呼ばれ、イロリが切られています。イタマは天井を張らず梁組(はりぐみ)を見せています。南側背面の高窓からの採光を考え、軒先を高くし、段違いに入る大きな梁を途中で止めたのでしょう。イタマの東隣にヘヤ二室が作られ、寝室として利用されたといい、二階は小屋裏部屋です。
 町屋建築の特長といわれる通り庭を通って大戸をくぐると、井戸とカマドを配した土間が眼に入ります。通り庭の西側には板敷きのシテンドコがあります。
 イタマとシテンドコの床高を比べると、イタマの床の方が約6cmほど高いのが分かります。イタマ側が家族の居室部、シテンドコ側は使用人が住む空間上下の格付けを床高で表現しているかのようです。
 シテンドコ北室の上には小屋裏部屋が作られ、若い衆(漁夫)たちが寝泊まりしていたと伝えられています。北海道の日本海沿岸にいまも残るニシン番屋建築の原型とも言われています。
******************************************************************************



間取り図に「イタマ」とある部屋から「ミセ」「ザシキ」方向を見た風景です。

奥の「ザシキ」の「トコ」には家系図の掛け軸があり、その右には赤い布に包まれた「円空仏」が安置されています。



古びた掛軸に笹浪家初代久右衛門から12代目までの家系図がありました。

「旧笹浪家住宅」が1990年(平成2)に町に寄贈されたのは、11代目夫人とされます。

掛軸の前に置かれた刀掛けは、江戸時代の名主で、帯刀が許されていた頃のものでしょうか。

案内の女性のお話では、笹浪家初代の出身地、能登半島の笹浪の地名は、半島西(羽咋郡端志賀町)と、東の二ヶ所あり、東の珠洲市と考えられているそうです。

■パンフレットの説明文です。
******************************************************************************
能登国笹浪家の系譜
 初代久右衛門は能登国笹浪村の出身で、享保年中に松前福山に渡り、のちに上ノ国に転住。爾来笹浪家の当主は代々久右衛門を襲名、家印は仝(ほしやまに)、屋号は能登屋と称しました。
 五代目久右衛門は越後椎谷村の室谷忠右衛門の次男で、文政年中に四代目の女婿となり、「頗[すこぷ]る丹精を抽[ぬき]んで財産を分かつこと数軒」と言われました。
 八代目久右衛門は家業の刺網漁に加え、荒物・小間物を販売するほか、海産業も営み、文久年間には村名主も勤め、家産は次第に豊かになり、慶応二年初めて建網漁を営みました。当時の松前藩主に金員[きんいん]を献じて名字帯刀、式日登城御目見得も免され、明治初期には「全道中の漁家の旧家」と許されました。
******************************************************************************



奥尻島へ渡る海峡で拾われたとされる円空仏が安置されていました。

明治初期の神仏分離令によって各地で仏教施設の破壊活動が発生、この仏像も海に捨てられたようです。

■横にあった説明文です。
******************************************************************************
円空仏(上ノ国町指定有形丈化財)
 円空は美濃の国(岐阜県)の人で生涯十二万体の造像を発願して諸国を巡った。北海道には寛文六年(一六六六)三十六歳の時に渡り、日本海、噴火湾沿岸各地で仏像を刻み四十数体が現存する。
 本像は全体の造形バランスが大変良く、彫りは細部に至るまで端正で整っており、顔立ちが非常に良く、保存状態もほぼ完全であり、北海道に現存する初期の円空仏の中で優品である。
 町内にはこのほかに五体の円空仏があり、北海道及び上ノ国町指定の丈化財に指定されている。
******************************************************************************
円空仏受難
明治政府は江戸時代の仏教中心政策をやめて、神道中心政策に変え、神社から仏教的なものを排除しようとしました。神と仏を分ける神仏分離がエスカレートし、それまで神社にあった仏像などを捨てることにつながりました(廃仏毀釈)
上ノ国町内の円空仏はそれぞれに村人たちの機転で難を逃れ今日まで篤く信仰されてきました。
ここにある円空仏は明治時代の初め頃、久遠(現大成町-せたな町)と奥尻島の間の海中で拾われたものと言われています。受難の歴史を語り伝えているようです。
(字石崎西村初男・ミエ氏旧蔵)
******************************************************************************



「上ノ国八幡宮」の参道横に並ぶ旧笹浪家の蔵へ案内されました。

中に入ると、江戸時代後期の旅行家「菅江真澄」のDVDの放映や、焼き菓子の道具、郷土菓子「かたこもち」の木製型数点が展示されていました。

かつて笹浪家では菓子を作っていたそうですが、自家用だったのでしょうか。



「旧笹浪家住宅」のパンフレットにあった蔵の写真です。

1885(明治18)年の建物とされ、1875年(明治8)に「上ノ国八幡宮」が「上之国 勝山館跡」から移設され、10年後の1885(明治18)年に建てられたようです。

上の写真が「米・文庫蔵」、下が「サヤが覆う屋根のない土蔵」で、概要は下記の説明文をご覧下さい。

説明文を見ると、珍しい建物のようでしたが、認識なく見過ごしていました。

■「旧笹浪家住宅」のパンフレットにあった説明文です。
******************************************************************************
栄華をしのばせる土蔵建築群
 能登屋笹浪家の繁栄は、「宮の沢の川の水が干ることがあっても能登屋のかまどは干ることがあるまい。七つの倉にないものは馬の角ばかり。」と伝えられていますが、土蔵も往時の栄華を物語る貴重な文化財建造物です。
******************************************************************************
嘉永元年築造米・文庫蔵
 平成四年に行った解体調査の結果、二重に仕切られた北室が文庫蔵、南室が米蔵と呼ばれ、北室の裏白戸に刻まれたヘラ書跡により建造年代が嘉永元年九月六日(1848)と判明、主屋に続いて建てられた一連の建造物群の一棟として重要なものです。
 この土蔵の屋根の下地にも樺が使われていますが、その上を漆喰塗で仕上げ、その上に登梁(のぼりばり)を載せて小屋を組み、桟瓦(さんかわら)を葺いた置屋根方式です。
******************************************************************************
サヤが覆う屋根のない土蔵
 上ノ国人幡宮の参道をはさんで石垣の上に建つ、サヤで覆われた漆喰壁(しっくいかべ)の附属土蔵(重要文化財指定)は扉内側の漆喰壁のヘラ書きから、明治十八年に新築落成したことを知ることができます。
 土蔵は屋根を葺かず、表面を漆喰塗で仕上げているだけです。サヤと呼ばれる覆屋の中にありますので、雨漏りの心配はありません。
屋根の下地や土台の周りには白樺等の樹皮が使われていました。
******************************************************************************
息づく樹皮の伝統文化
解体調査で発見された土蔵の樺葺下地。樺皮は油分が多く含まれているため、防水・防腐効果があると言われています。
******************************************************************************



旧笹浪家の土蔵で見せて頂いたDVD「菅江真澄と上ノ国」の画面にあった「菅江真澄」の肖像画です。

柳田國男が「遊歴文人」と称した「菅江真澄」は、1789年(天明9)、蝦夷地の最西端に近い「大田権現(せつか町の神社)」参拝へ旅立ち、その様子を日記「蝦夷喧辞辯[えみしのさえき]」に残しています。

上ノ国には旅の往復で立ち寄り、上国寺へ滞在、夷王山にも登っている縁からこのDVDが製作されたようです。

三河の人「菅江真澄」が蝦夷地の霊場「大田権現」へ旅立ったとする話は、とても興味深いものでした。

その旅の年は、道東アイヌの蜂起事件「クナシリ・メナシの戦い」が発生した年でもありました。

「菅江真澄」は、帰路に上ノ国の天の川付近にさしかかり、早馬の役人が100人のシャモ(和人)が殺されたことを告げ廻っているのを目撃、事件を知ったことを記しています。

■DVD「菅江真澄と上ノ国」の案内画面より
******************************************************************************
菅江真澄翁自画像
いまから200年も前、真澄は蝦夷地の領主・松前氏の祖が築いた勝山の旧跡をたずね、夷王山(医王山)の頂に立っています。真澄にならい仰ぎ見る勝山館跡と、背後にそびえる夷王山(標高159メートル)までの散策を試してみてはいかがでしょうか。
******************************************************************************



蔵に「菅江真澄」が歩いた旅のルート地図が展示されていました。

霊場「大田権現」は、地図左上にあり、日本海側の赤いルートが旅日記「蝦夷喧辞辯[えみしのさえき]」に記されています。

東北地方から蝦夷までの旅の記録が多く残されているようで、とても興味深い人物になりました。

上ノ国では「上国寺」や、「洲崎館跡」などへ立ち寄ることが出来ず、心残りでしたが、史跡の案内では地元の方々の熱意を感じました。


参考文献:「人物叢書 菅江真澄」 菊池勇夫著 吉川弘文館発行


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
懐かしい! (きぃ)
2014-04-24 21:21:11
ここはすごく懐かしいです^^

小さい頃「イタマ」と呼ばれる所に
部屋一杯の大きい蚊帳を張り寝ました。

冬は「ミセ」の囲炉裏で
獲って来た肉の鍋を作ってましたよ^^

お正月前は土間でもち米を蒸して餅つき。

夜はトイレが離れてて川のそばにあったし
便器に柄がついてて、薄暗くてすごく怖かったです^^;

朝は隣の川で洗顔(笑)

幼少の頃の思い出です。
貴重な生活のコメントに感謝 (tako_888k)
2014-04-25 21:20:14
きぃ様

笹浪家にちなむ方とお見受けしました。
重要文化財となった建物での生活の想い出をコメントで頂戴したこと、光栄です。
頂いたコメントに「朝は隣の川で洗顔」とある川は、「上ノ国八幡宮」参道側に見える川でしょうか。現在、コンクリートと、柵に囲まれた小川が、かつて水辺にアプローチできる自然の地形で、生活の大切な場でもあったようですね。
昔の生活の風景を垣間見させて頂いたようです。感謝

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。