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昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

ローズコム七夕フェスタ「備後ばらバラよさこい踊り隊」を見物

2008年07月10日 | 日記
今回は、沖縄旅行の思い出を中断、次回から再開します。

7月5日、福山市霞町に福山市の中央図書館を中心とした施設「まなびの館ローズコム」が開館しました。

約38万冊の本が備えられているそうですが、2フロアー全体に本棚が並んでいました。

7月5~6日は、開館の記念イベント「ローズコム七夕フェスタ」が開催されました。



7月5日の夜、久松通商店街の土曜夜店の見物を兼ねて最初にローズコムへ行きました。
上の看板の写真に2日間のイベント予定が案内されていました。



ローズコムの敷地に野外ステージがあり、座席エリアは一面芝生です。

バラ祭りのパレードで何度か見た「備後新選組」の踊りが終わり、「備後ばらバラよさこい踊り隊」の登場です。
「備後ばらバラよさこい踊り隊」は、通称「ビンバラ」と言うようです。
写真は、最初の挨拶が始まった場面です。

妻の知り合いの人が踊るので、一番前に座り、デジカメで何枚も撮りましたが、ブレや、ボケの写真が多くなってしまいました。

踊りは、20:15から約10分間でしたが、とても楽しい気持ちになる踊りでした。



踊りが始まり、しばらくすると揃いの黒い衣装に変化があり、ピンクと、緑の袖が現われました。
バラ祭りのパレードでも見ましたが、夜のステージで見ると新鮮な感じがします。



踊りも佳境に入り、赤い縁のメガネをかけた女性が、ステージの前に出てきて後ろの踊りとは違う動きで、右から左に踊りながら歩いて行きました。

とても楽しそうです。



「備後ばらバラよさこい踊り隊」にはかわいい小学生から元気な年配の方までいて、とても親しみのあるチームです。

踊りは激しい動きも多く、この踊りはスポーツ系のようです。



⑥今年の5月18日、「福山ばら祭」のパレードで見た「備後ばらバラよさこい踊り隊」です。
楽しく元気で踊っていました。



踊りはいよいよ最後に近づき、盛り上がっています。

「備後ばらバラよさこい踊り隊」は、「高知よさこい祭全国大会」へ出場し、4回連続で受賞しているそうです。
「福山ばら祭」のパレードで、チームの紹介があり、初めて知りました。

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「高知よさこい祭全国大会」のサイトに昨年までの受賞チームが掲載されていましたので転記します。

なんと2006年には「備後新選組」も受賞し、福山から2チームが受賞していました。

2007年
武政英策賞 京町・新京橋 ゑびすしばてん連 高知県
最優秀賞「輝」 六陸~RIKU~ 東北地区合同
 優秀賞「彩」 備後ばらバラよさこい踊り隊 広島県★
 優秀賞「粋」 ぞっこん町田'98 東京都
 優秀賞「睦」 早稲田大学“踊り侍” 東京都
 優秀賞「艶」 甲斐◇風林火山 山梨県
 優秀賞「豪」 伊予からの風 純信連 愛媛県
ぺギー葉山賞 させぼ飛躍年隊2007 長崎県

2006年
武政英策賞 とらっく((社)高知県トラック協会)
最優秀賞「輝」 ぞっこん町田'98 東京都
 優秀賞「彩」 琉楽座 沖縄県
 優秀賞「粋」 鳥取県よさこい踊り子隊 鳥取県
 優秀賞「睦」 備後新選組 広島県●
 優秀賞「艶」 原宿よさこい連 東京都
 優秀賞「豪」 備後ばらバラよさこい踊り隊 広島県★
ぺギー葉山賞 梼原 高知県

2005年
武政英策賞 上町よさこい鳴子連
優秀賞「粋」 六陸〜RIKU〜
優秀賞「睦」 KAKOGAWA踊っこ祭り 加古乃花舞
優秀賞「艶」 ALL☆STAR
優秀賞「豪」 早稲田よさこいプロジェクト×踊り侍
優秀賞「夢」 武州よさこい上總組
ぺギー葉山賞 備後ばらバラよさこい踊り隊★

2004年
武政英策賞 とらっく((社)高知県トラック協会)
優秀賞「粋」 備後ばらバラよさこい踊り隊★
優秀賞「睦」 六陸〜RIKU〜
優秀賞「艶」 夢遊人
優秀賞「豪」 伊予からの風 純信連
優秀賞「夢」 武州よさこい上總組
ぺギー葉山賞 上町よさこい鳴子連
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「うちわサボテン」の黄色い花

2008年06月27日 | 日記

テラスの「うちわサボテン」に5日前から花が咲きはじめました。
緑の茎に鮮やかで、透明感のある黄色い花が、小さな感動を与えてくれました。



2年前、知り合いからサボテンの1枚を頂き、鉢に植ていました。
写真には写っていませんが、最も伸びた節は5段になります。
又、向って左上の一枚には5個の花がついています。

「うちわサボテン」と呼んでいますが、その中にもいろいろ品種があるようですがよくわかりません。
昨年の元旦に掲載した「室戸サボテンから昇る初日の出」も「うちわサボテン」ですが、茎の厚さは、これよりだいぶ薄く、トゲもたくさん付いています。



1つの花は、2~3日間咲き、その後はしおれていくようです。
全部で、8個の花が次々と咲いて行くようで、まだ数日間楽しめそうです。

「福山市 中央図書館」が完成間近

2008年06月04日 | 日記
「福山市 中央図書館」の建設がほぼ終わり、現在は敷地内の整備を行なっています。
7月からの図書館のオープンが予定されていますが、既に駐車場や、会議室などの利用は始まっているようです。



東南から見た建物です。
レンガ風の茶色のタイルが貼られて落ち着いた外観になっています。



東側に池が造られています。
とても広く、非常に浅い池で、風のない時は、広い鏡のようにも見えます。



南西から見た建物です。
この黒い建物は、自走式の立体駐車場です。

近所の住民からこの巨大な黒い壁に威圧感を感じ、苦情が出ているようです
巨大な黒い壁を目の前にして生活する人の身になって考えて欲しいと思います。



南側の様子です。
道三川の水辺に下りて行く階段が、くつろぎのある雰囲気です。

道三川には小さな魚や、ザリガニも住んでいます。



手前は、駐車場の屋上です。
黒い壁に金を掛けなかった(?)反動か、駐車場の屋上に芝生の庭が造られています。
これまでの図書館は、駐車場が無料でしたが、今度は有料になっています。

とは言いながら、図書館の開館を待ち望んでいます。

広島県立歴史博物館の特別展「姫谷焼」

2008年05月27日 | 日記
福山市西町にある「広島県立歴史博物館」の特別展「姫谷焼-備後に花開いた初期色絵磁器-」を見に行きました。

「姫谷焼」は、江戸時代の初め20年間、広島県福山市加茂町姫谷で作られた焼きものです。
日本の色絵磁器の産地には有田・九谷が知られていますが、この姫谷は第3の産地だったようです。

地元でも15年ぶりの展示だそうで、残存する約100点の内、約50点が揃った展示で、めったにないチャンスです。

最近、「広島県立歴史博物館」の入館料は、大幅に値下げされ、一般で290円になっていました。
高校生まで無料なので、もっと利用者が増えるといいですね。



広島県立歴史博物館の玄関に「姫谷焼」の大きな看板がありました。

看板の向って右に、皿へ絵を描いているマンガのキャラ「イチエモン」があります。
姫谷焼の伝説の陶工「市右衛門」から考えたようです。
館内に「市右衛門」の墓の写真パネルがあり、姫谷焼窯跡の近くにあると紹介されていました。

■看板の内容を転記します。
幻のやきもの
15年ぶりに出会う姫谷焼

平成20年度春の展示
姫谷焼(ひめたにやき)
一備後に花開いた初期色絵磁器-

4月25日(金)→6月8日(日)
広島県立歴史博物館



パンフレットに掲載されていたお皿の絵柄(左)と、お皿の写真です。
赤・黄・緑・青・紺とカラフルですが、素朴さのある美しい絵柄です。

■「姫谷焼」のパンフレットに記載された案内文を転記します。
幻の姫谷焼
 広島県の備後地方には、古くから姫谷焼と呼ばれる色絵磁器の血がいくつか伝えられてきました。これらのやきものは、現在の福山市加茂町百谷にある姫谷という場所で焼かれたものと伝えられていました。しかし、いつ、だれが、何のために製作したのか、どのような作品が製作されたのかなど、その実体は明らかでない点が多く、長らく幻の姫谷焼とも呼ばれていました。

窯跡の発掘調査
 戦前には、当時の深安郡広瀬村大字姫谷(現在の福山市加茂町百谷)に姫谷焼の窯跡が存在することがつきとめられました。そして、戦後の昭和52・53年までに何度かの発掘調査が実施され、姫谷焼の研究は大きく進展しました。
 現在では、姫谷焼は有田焼(佐賀県)・九谷焼(石川県)とともに江戸時代前期に製作された初期色絵磁器の一つであること、色絵のほかに染付・白磁・青磁・陶器なども製作していたこと、17世紀後半の限られた時期に製作されたことなどが明らかになっています。

15年ぶりの展示会
 姫谷焼の作品には個人蔵のものが多く、それらを鑑賞する機会は決して多くありません。そこで、このたび広島県立歴史博物館では福山ロータリークラブとの共催により、地元に伝えられている代表的な姫谷焼の作品に触れるための展示会を介画しました。
 姫谷焼の展展会としては、平成5年に福山城博物館で開催されて以来、15年ぶりの企画です。ぜひこの機会に、江戸時代前期の一時期、備後に花開いたやきもの文化の精華をお発しみください。



パンフレットに掲載されていたお絵皿の写真です。
古さを感じさせない落ち着いた親しみの持てる絵柄です。

展示品の中には同じ絵柄の皿が数枚並んでいるものがありました。
よく見ると少しづつ絵の違いがあるものの、それぞれが美しく、熟練した職人の手書きの技能を感じさせられます。

地元の江戸時代の文献「西備名区」(馬屋原呂平)では、福山藩主となった水野勝成が若い頃、親から勘当されて諸国を徘徊していた頃、姫谷焼の窯に滞在し、作業を手伝ったことや、後に福山藩主として赴任した後、窯の主人を援助して苦労の多い焼き物作りから引退させたことが書かれています。

しかし、陶器の生産開始年代と、水野勝成が諸国を徘徊していた時代に明らかなズレがあるそうです。
4代藩主の水野勝種が関っていた説もあり、姫谷焼にはまだ多くの謎に包まれているようです。

初代福山藩主水野勝成は、徳川家康の従兄で、福山駅近くにある「天下橋」も家康(天下様)との縁で造られたと言われています。
バラ祭りの5月18日、福山市船町商店街の景品付きクイズで「天下橋」が問題になっていました。

「福山ばら公園」の散策

2008年05月08日 | 日記
5月6日、近所にある「バラ公園」に行きました。
恒例の「福山バラ祭り」を2週間後に控え、次第に花が開いていました。
ばら公園には280種、5,500本、すぐ近くの緑町公園にも190種類、5,500本が植えられ、二つの公園を会場に5月17・18日「福山バラ祭り」が開かれます。



この花の名は、「ローズ福山」で、やわらかなピンク色の花です。
まだ咲きはじめで、わりと駐車場に近い場所に植えられています。

■花の下にあった小さな案内板の説明文を転記します。
「ローズ福山」
198年4月1日、「ばら」を市の花に制定。
1986年、市制施行70周年を記念し、新品種のばらに「ローズ福山」と命名し、当園に植樹。



ばら公園の入り口には、ばらの像と、公園の案内文が刻まれた石碑があります。


福山市ばら公園
ばら公園の生い立ち

城下町として発展した福山は 戦災により
市街地のほとんどが焦土と化してしまいました

 戦後の復興事業で設けられたこの公園の一角に
「荒廃した街に潤いを与え 人々の心に和らぎを
取りもどそう」を合いことばに付近の人々を中心に
市民有志が ばらの苗木千本を植えたことが契機
となり ばら公園が誕生しました

 その後もばらは福山を愛する市民と共に増え
続け ばらの街 福山を代表する美しい公園
になりました

 春と秋には いろとりどりのばらが香り豊かに
咲きほこり広く市民に親しまれています

 毎年五月にはこの公園を中心に市民の花の
祭典 福山ばら祭が華やかに開かれます

昭和五十九年

 ばらは 昭和六十年四月一日福山市の花に
制定されました



公園の木がとてもさわやかな緑になってきました。



ピンクの花「シルビア」が広く植えられていますが、開花はまばらです。



まばらに咲く園内では唯一、満開状態の「ベイシルドボンド」という品種です。



一見、牡丹にもにている「クライスラーインペリアル」という品種です。



「熱情」という品種です。
素敵な赤色が印象的です。



「ヒーパネス」という品種です。
今年は、枝の張りが少ないようです。



「ザフェアリー」という品種です。
背の低い茎に小ぶりの花が咲いています。
個性的な色なので、多くある品種の中では記憶に残る花です。



「天津乙女(あまつおとめ)」という品種です。
やさしくて気品のある感じの花です。

「天津」を「てんしん」と読むと中国の品種かと思いますが、日本で作られた品種だそうです。
「天津」を「あまつ」と読むと、「古事記」「日本書紀」に登場する古代のお姫様のイメージになりますね。



駐車場に近い場所に小さな石碑と、それを紹介するカンバンができていることに気付きました。
これまで読んだことのない石碑です。

■看板と、石碑の案内文を転記します。
福山ばらのまちの原点
~1000本のばらから始まった~
ぜひご一読ください

<石碑>
ここに善意の花ひらく
美しい町づくり賞 受賞記念

バラ公園の建設 それは私たち町民の夢であり努力の目標でした
尊い胞子の汗を流して新しい希望のバラ苗1000本を植えつけたのは昭和31年の春でした。
以来徳永市長の熱意によって市と地元の力が強く結びつき、緊密な協力のもとに建設が進められ10年の星霜をかさねて、ついに天下に誇るバラ公園が完成しました。
この地元住民の積極的な市民活動の実績が高く評価され、昭和42年度の「全国美しい町づくり賞」を受賞しましたのでその名誉を記念し市民の将来へのともしびとするため、ここに記念碑を建てます、
昭和43年5月
 花園町々内会

備後穴海があった頃の「蛙岩の伝説」

2008年02月18日 | 日記

病院への見舞いの帰り、福山市港町1丁目付近の公園で、岩と、小さな祠と、案内板があり、立ち寄ってみました。
案内板によるとこの岩は、「蛙岩(かえるいわ)」だそうです。
写真は、南から撮ったものです。

■写真に見える案内板の説明書きを転記します。
「蛙岩の伝説」
西浜の沖の蛙岩というは、この処に年経たる大蛙ありしが、或時大蛇来りて呑まんとす。
蛙逃げ廻り詮方なく恐ろしさの一念こって岩となる。大蛇は喰はんと見れども岩となりければ呑むこと出来ず大いに気を落とし一念こって、島となり、現在の深津高地となれり。
(江戸時代の作、西備名区より)
深津史跡顕彰会

福山市にこのような伝説があることを初めて知りました。
大蛇に襲われ石になった大蛙がこの岩のようです。
又、大蛙を喰えず気を落して石になった大蛇が「深津高地」と書かれています。



地図の上部は、福山市王子町周辺で、下部は港町1丁目周辺です。
地図の下部にある赤丸が、「港町児童公園」です。

江戸時代に干拓が行われる前、この辺り一帯は海だったようです。
「深津高地」は、この地図上部にある緑部分の暁の星周辺で、王子神社辺りまでが万葉集にも詠われた「深津島」だったようです。

このブログ 2007-03-08「深津島」を眼下に眺望するで掲載した地図があり、昔の陸地と思われる部分を緑で表示しています。



西から見た「蛙岩」です。

「蛙岩」を調べたらもう一つ「神功皇后」にまつわる伝説がありました。
「神功皇后」は、暗い夜にこの辺りを航海していました。
その時、行く手から大きな蛙の鳴き声が聞こえてきました。
不思議に思い調べてみると暗礁が見つかり、舵を切って難を逃れることが出来たそうです。
その暗礁は、蛙に似た形で、「蛙岩」と名付けられたそうです。
又、昔この港町辺りの地名は、「座床」と呼んでいたようで、船が「座礁」するにも通じるような名前だったようです。

このブログ2007-10-12 下関市長府の「忌宮神社」でも掲載しましたが、「神功皇后」は、第14代仲哀天皇の皇后で、広島県三原市「糸崎神社」の井戸にまつわる伝説や、福山市鞆町に鞆の地名の伝説も残っています。

「神功皇后」の時代は、弥生時代の終わり頃のようです。



北から見た「蛙岩」です。
この岩の下は、土に埋まっていますが、かなり大きな岩だった可能性があります。

向かって右上の岩のふくらみは、カエルがこちらに向いている様にも見えますが、1800年前の話なので、地中に埋もれた部分を掘り出して見ないと分かりませんね。



この岩を挟むように大小二つの祠があります。
祭神は、不明です。



奥にある大きな祠です。
しめ縄が祠を巻くように取り付けられて、夏の日差しを避けるスダレのようにも見える変わったものです。
小さな祠のしめ縄とは様子がまったく違います。



「港町児童公園」を東から撮った景色です。
子供達がボール遊びを楽しんでいました。

消えた古代文明「インカ・マヤ・アステカ展」で感じたこと

2008年01月28日 | 日記

昨日、岡山駅西口前のデジタルミュージアムで開催中の「インカ・マヤ・アステカ展」に行ってきました。

先週19日、入場者が1万人を突破したニュースを聞き、混雑を心配していましたが、約3.5時間ゆっくりと堪能することが出来ました。

会場南隣の駐車場の係りの人が前売り券をローソン(会場ビル1F)で販売していると教えてくれましたが、事前にJR緑の窓口で購入していました。

上の写真は、「インカ・マヤ・アステカ展」のパンフレットです。
裏にも写真が印刷されており、下の記事に使わせて頂きました。


4階の会場入り口です。
展示は、4・5階で、マヤ・アステカが4階、インカが5階に展示されていました。



パンフレットにあった中南米の地図で、アステカ・マヤ・インカの繁栄した地域が示されています。
「マヤ文明」は、密林にそびえる大ピラミッドを上空から迫力のある映像で鑑賞出来、群立する都市国家と、国家間の戦争、敬虔な太陽信仰と、残虐な生贄なども非常に印象的でした。
又、神や王のレリーフに「マヤ文字」が刻まれ、現在解読が進んでいることも初めて知りました。
インカ文明には文字がなかったと言われ、マヤ文明も同様と思っていました。
表音文字と、表意文字の組み合わせであると説明されており、後のインカ文明に影響しなかった理由にも興味が沸きます。

「アステカ文明」は、湖を埋め立て、大都市を建設、現在のメキシコ・シティーとしても使われている点が、オランダとの類似点を感じます。
埋立地の農業は、湖底の肥沃な土をすくい上げて生産性の高い農産物の栽培が行なわれていたことにも関心するばかりでした。
スペインに征服されて出来た現在のメキシコ・シティーは、かっての古代都市の上に造られ、堅牢な基礎の石組みはそのまま利用されているようです。

「インカ帝国」では首都クスコを中心に帝国全土に総延長4万キロの「インカ道」が造られていたそうです。
山岳地帯の絶壁に延々と築かれた「インカ道」は、想像を絶する大事業だったと思われます。
又、インカ王が死んでも領土や、召使は保持され、ミイラとなった王の生活は継続されていたようです。
次の王は、新たな領土を確保する必要があり、それがインカ帝国の急拡大の背景となっていたと考えられているようで、インカ社会のユニークさを感じます。
現在でも集落の道端の小屋に安置されたミイラに日常的な挨拶や、お祈りを行なう習慣が残っているようで、生死の区別が緩やかな文化に驚くばかりでした。



パンフレットに印刷されていたマヤ文明古典期後期(AD600-900)の「ヒスイの仮面」です。
カラクムル遺跡最大のピラミッドにある神殿の床下の墓から発見されたそうです。
仮面は、王の顔につけて埋葬されており、光沢のある美しい緑の翡翠(ひすい)のモザイクで全体を覆っていますが、部分的に貝、黒曜石なども使われており、技術の高さに感心します。

紀元前5000年前からの青森県の縄文遺跡「三内丸山遺跡」でも糸魚川産の翡翠(ひすい)の加工品が多く発見されています。
翡翠(ひすい)は、硬石とも言われ、とても硬い石でのようで加工にはかなり高い技術があったようです。



今日の見学で最も印象的だったのがこの「ワシの戦士象」で、アステカ文明 後古典期後期(AD1345-1521)と日本では室町時代にあたります。
人と同じ位の大きさで、両膝の位置に鷲の足ような三本の爪が付けられていました。
神に捧げる生贄(人)を得るために戦いに行く戦士の家に置かれていたそうです。
パンフレットに掲載されていた写真です。



写真は、墓地から発掘された父と、子のミイラで、乾燥したインカでは比較的簡単にミイラができるようです。
同じような帽子をかぶり、親子仲良く墓の中で生活するように埋葬品に乾燥した食糧があったようで、深い家族愛を感じるものです。

インカ文明では、人の生死に対する区別が非常に緩やかだったようです。
人は、死んだ後にミイラにされ、それまでと同じように生活する習慣があったようです。
インカ帝国が、急速に拡大した理由も、先代の王が死後も領地を保有し、新しい王の領地は新たに得る必要があったためとも言われています。



「キープ」が展示されていましたが、まったく写真が撮れなかったので会場外の案内パネルを写しています。

インカには文字がなかったと言われ、ヒモの長さ・色・結び目などで情報を記録し、伝えるこの「キープ」が使われていたようです。
沖縄県でも「キープ」と同様の「藁算」が近年まで使われており、このブログ<2007-04-29 竹富島の「藁算」は、古代インカ帝国にもあった>にも記載しています。


「キープ」の拡大した写真です。
よく見るとかなり複雑なものです。

聖徳太子の時代、中国の「随書倭国伝」の倭人の風俗を「文字が無く、木を刻み縄を結ぶ」と記載されているようです。
古代日本でも「キープ」や、「藁算」があったかも知れませんね。

その他、三文明に共通する彩色土器の芸術的な形状、絵、模様の美しさにも関心させられました。
厚みがとても薄く、焼物や、彩色の技術の高さは、予想外でした。

シャコバサボテンが満開

2008年01月08日 | 日記

我が家のシャコバサボテンがほぼ満開になりました。
とは言え、まだツボミは2割程度残っていますが、最初に開いた花は枯れ始めているので開花数ではピークの状態です。

一昨日天気が良かったので久しぶりに居間からテラスに出して撮影しました。
小さなテラスのテーブルからはみ出して咲き誇っています。



横から見たシャコバサボテンです。
かわいらしい花が次々に開いています。
昨年春、ひと回り大きな鉢に植え替え、芽を摘んだ成果で、今年の花の数は最高です。



花びらが、まるで胸を張って両腕を精いっぱい後ろに反らしたように広がっています。
何本もある白く細いオシベに囲まれた赤いメシベが、ひと際高く伸びて気品さを漂わせています。
花の周りにはツボミがまだ少なからず残っており、1週間以上楽しめそうです。

シャコバサボテンが咲き始めました

2007年12月30日 | 日記

先週からシャコバサボテンが開花を始めました。
今では約30ケが開花していますが、一部咲き程度です。

来週にはどんどん花が開き、お正月のリビングを彩ってくれそうです。


角度を変えて撮ったものです。
株がとても大きく広がっているのが分かります。



花に近づいて撮ったものです。
花びらの先は、真っ赤ですが、中心に向かって白っぽく変化しています。



花を拡大した写真です。
雄しべは、先端に黄色の花粉を付けた部分を「葯(やく)」と言うようです。
「葯」を支える白い柱のような部分を「花糸(かし)」と言うようです。
この「花糸」は、とても細く、白い髪の毛のようです。
又、その横にひと際長く、濃い赤色の雌しべが、貴婦人のように伸びています。
(写真では雌しべの先がピンクに見えますが、実物は濃い赤色です)

我が家の「シャコバサボテン」の開花が近づきました

2007年12月06日 | 日記

今年も我が家の「シャコバサボテン」が咲く季節が近づいてきました。
ツボミは、5mm位の小さなものも多くあり、300コ以上はありそうです。

毎年、クリスマスの頃にたくさんの赤い花で楽しませてくれます。
朝日が当る室内の丸い食卓テーブルに載せて撮影しました。



近づいて撮影した「シャコバサボテン」です。
開花が近づいた大きなツボミもありますが、小さなツボミも多く付いています。

「シャコバサボテン」は、今年一段と大きな株になりました。
今年春、育て方の本を読んで、大きめの鉢に植え替えた成果です。
日当たり良いテラスに鉢を置き、時々に鉢をまわして全体に花が咲くように日に当ててやりました。

昨年12-17、このブログ「シャコバサボテンが咲きました」でご紹介しましたが、やはり本格的な開花まで10日以上かかるようです。。

八重山旅行の間に咲いた「君子蘭」

2007年04月27日 | 日記
 
八重山旅行から帰ってみると、鉢植えの「君子蘭」が咲いていました。
「やっと咲いてくれたか」と、うれしくなりました。

テラスに咲く花を見つめると、鮮やかな色にハットさせられます。
朱色の花びらと、その奥にある白い模様、白い雄しべの先などで、気品のあるイメージが創られているようです。

旅行に出発する朝は、ツボミが少し開きかけていましたが、5つの花が開き、ツボミが2つ付いています。
肥料が不足しているためか花の数が少ない感じです。(今年はちゃんとやります)

「君子蘭」は、ヒガンバナ科クンシラン属の植物で、ランの仲間ではないようです。
ヒガンバナ科と聞くとなんとなく「彼岸花」に似ているなと思います。

「君子」と聞くと孔子の言葉で「君子危うきに近寄らず」を想像し、固い男性のイメージを持ちます。
日本名の由来は、イギリスの公爵夫人を讃えた名前「クリビア」にちなんだ「高貴な花」の意味から名付けられたそうです。
イギリス貴族の夫人と、「君子」のイメージはとても結び付くとは思えないのですが個性的な名前には違いありませんね。

南アフリカ原産の多年草で、我家でも育つようにとても育てやすい植物です。
花言葉は、「情け深い」、「誠実」だそうです。

次回は、情け深い、誠実な人々が住む八重山5日間の旅行の想い出を掲載させて頂きます。

梅の開花です。

2007年02月12日 | 日記
今日、福山市園芸センター(金江町)の近くの道路脇に「梅の花」が咲いていました。

十数本ある梅の木で、なぜか4本だけが咲き始めていて、3分咲き程度です。
種類が早咲きなのでしょうか。

暖冬のためか、今年の開花は早いようです。

奇妙な雲

2007年01月02日 | 日記
11月5日16:53に撮影した写真です。
若狭旅行の帰り道、高速道路で岡山県を走行していた時、とんでもない形の雲が見えてきました。(ちょうど夕陽が沈む直前でした)
大地震の前に変なかたちの雲がでるんだと、やけに深刻な不安がよぎり、すぐに撮影しました。
しかし、それ以降何もありません。いったいなんだったのでしょうか???

室戸サボテンから昇る初日の出

2007年01月01日 | 日記
写真はテラスから撮った初日の出です。
サボテンは、一昨年の7月の旅行で行った室戸岬の崖に自生していたものを1枚頂戴してきました。(室戸の皆さんゴメンナサイ)
我家では室戸サボテンと勝手に名付けています。
今朝は雲があり、少し時間が経って見えてきた太陽ですが、まあサボテンが山だと思えば「初日の出」と言うことでいいじゃないかと撮影しました。
初日の出を見ていない人は、お賽銭はいりませんのでぜひご来光を拝んで下さい。
今年もよろしくお願い申し上げます。