中村半次郎
幕末の京都で『人斬り半次郎』と呼ばれた薩摩の中村半次郎。この写真の半次郎は、椅子に腰掛け傍に立つ和服の子供の肩を右手で抱いている。子供は半次郎が馴染みの四条小橋の煙管店「村田屋」の忠次郎(大正六年没)である。
半次郎の服装は、黒の羽織に黒ズボン、皮手袋に先の尖った革靴姿。腰に帯びている大刀は、刀身二尺五寸(約75.8㎝)の関和泉守兼定(之定)。拵えは、黒鞘に赤銅の鍔で茶糸の柄巻、刀身は大乱れの刃紋に大切先で身幅広く、相州伝風の姿の大業物である。
同月三日 晴
一、小野清右エ門、田代五郎左エ門、中島建彦、片岡矢之助、僕より同行、東山辺散歩、夫より四条ヲ烏丸通迄帰り掛候処、幕逆賊信州上田藩赤松小三郎、此者洋学ヲ得候者ニて、去春より御屋敷へ御頼に相成り、今出川、烏丸通西へ入町へ旅宿致し、諸生も肥後、大垣、会津、壬生浪士内より壱人居弟子、其外ニも諸藩より入込も多し。然処、此度帰国之暇申出候ニ付、段々探索方ニ及候処、弥幕奸之由分明にて、尤当春も新将軍へ拝謁等も致し、此此も同断之由、慥ニ相分、折柄今日東洞院四条通西へ入町ニて出合候ニ付、不可捨置之者ニて、夫より小野、中島、片岡の三士は、烏丸四条南角ニまんぢう屋在り。此の処ニ為待置、田代と僕右赤松の跡ヲ追ひ附候処、四条より東洞院ヲ伏見之様下り候ニ付、追ひ候処、仏光寺通ニて屋敷者野津七次外ニ弐人在、赤松と相角致し、おひてを通り、我々は五条下る迄越し、跡へ引返し候処、魚棚上ル所ニて出合、我前に立ちふさかい、刀を抜候処、短筒に手ヲ掛候得共、左のかたより右のはらへ打通候処、直ニたおるる所ヲ、田代士後よりはろふ、壱余り歩ミたおる也。直ニ留ヲ打ツ、合て弐ツ刀、田代も合て弐ツ刀にておわる。打果置者也、夫より直ニ引返し、右の三士の居る処まで来る、五士同行ニて帰邸営也。 (桐野利秋『京在日記』)
慶応三年(1867)九月三日 晴れ
一、小野清右衛門、田代五郎左衛門、中島健彦、片岡矢之助と一緒に東山辺りを散歩して、四条を烏丸通りまで帰ってきたところ、幕府の逆賊である信州上田藩の赤松小三郎と出会う。この者は洋学を学んだ者で、去年の春より薩摩藩屋敷に招聘され、今出川通り烏丸を西に入った所に旅宿していたが、その書生には、肥後藩や大垣藩、会津藩、新撰組などから一人ずつ弟子が居り、その他にも諸藩士の出入りも多くあった。このような状態の中、赤松から帰国したいとの暇乞いの申し出があったので、色々と探索したところ、やはり幕府に肩入れする奸佞の者であることが明らかになった。また、今年の春には新将軍の徳川慶喜にも拝謁していたので、その疑いはますます確かとなったのである。
丁度今日、四条通り東洞院を西に入ったところで、その赤松と遭遇した。赤松はそのまま放っては置けない存在であるので、それより小野、中島、片岡君の三人を四条烏丸南角に饅頭屋があったので、そこで待たせて置き、田代君と僕が赤松の後を追った。四条から東洞院通りを伏見の方向に下って追っていくと、仏光寺通りにて、同藩の野津七次ら他二名と会った。二人は赤松とそこの角で会ったと言ったので、自分達は追って通りを五条まで下って先回りし、赤松が歩いている道を後へと戻って引き返した。すると、魚棚通りを上がった所で赤松と出会った。僕は赤松の前に立ちふさがり、刀を抜いたところ、赤松は短筒(短銃)に手をかけようとしたが、左の肩から右の腹にかけて斬りつけたところ、すぐに赤松は倒れかかった。そこを田代君が背後から横に斬り払ったので、赤松は一歩ほど歩こうとしたがそのまま倒れた。僕は直に留めを刺すこと二太刀、田代君も留めを二太刀浴びせて、討ち果たしたのである。そこから僕らはすぐに引返し、三人の居る饅頭屋まで戻り、五人で藩邸に戻った。
明治10年(1877)、中村半次郎(桐野利秋)は西南戦争で討死した。享年40歳。
幕末の京都で『人斬り半次郎』と呼ばれた薩摩の中村半次郎。この写真の半次郎は、椅子に腰掛け傍に立つ和服の子供の肩を右手で抱いている。子供は半次郎が馴染みの四条小橋の煙管店「村田屋」の忠次郎(大正六年没)である。
半次郎の服装は、黒の羽織に黒ズボン、皮手袋に先の尖った革靴姿。腰に帯びている大刀は、刀身二尺五寸(約75.8㎝)の関和泉守兼定(之定)。拵えは、黒鞘に赤銅の鍔で茶糸の柄巻、刀身は大乱れの刃紋に大切先で身幅広く、相州伝風の姿の大業物である。
同月三日 晴
一、小野清右エ門、田代五郎左エ門、中島建彦、片岡矢之助、僕より同行、東山辺散歩、夫より四条ヲ烏丸通迄帰り掛候処、幕逆賊信州上田藩赤松小三郎、此者洋学ヲ得候者ニて、去春より御屋敷へ御頼に相成り、今出川、烏丸通西へ入町へ旅宿致し、諸生も肥後、大垣、会津、壬生浪士内より壱人居弟子、其外ニも諸藩より入込も多し。然処、此度帰国之暇申出候ニ付、段々探索方ニ及候処、弥幕奸之由分明にて、尤当春も新将軍へ拝謁等も致し、此此も同断之由、慥ニ相分、折柄今日東洞院四条通西へ入町ニて出合候ニ付、不可捨置之者ニて、夫より小野、中島、片岡の三士は、烏丸四条南角ニまんぢう屋在り。此の処ニ為待置、田代と僕右赤松の跡ヲ追ひ附候処、四条より東洞院ヲ伏見之様下り候ニ付、追ひ候処、仏光寺通ニて屋敷者野津七次外ニ弐人在、赤松と相角致し、おひてを通り、我々は五条下る迄越し、跡へ引返し候処、魚棚上ル所ニて出合、我前に立ちふさかい、刀を抜候処、短筒に手ヲ掛候得共、左のかたより右のはらへ打通候処、直ニたおるる所ヲ、田代士後よりはろふ、壱余り歩ミたおる也。直ニ留ヲ打ツ、合て弐ツ刀、田代も合て弐ツ刀にておわる。打果置者也、夫より直ニ引返し、右の三士の居る処まで来る、五士同行ニて帰邸営也。 (桐野利秋『京在日記』)
慶応三年(1867)九月三日 晴れ
一、小野清右衛門、田代五郎左衛門、中島健彦、片岡矢之助と一緒に東山辺りを散歩して、四条を烏丸通りまで帰ってきたところ、幕府の逆賊である信州上田藩の赤松小三郎と出会う。この者は洋学を学んだ者で、去年の春より薩摩藩屋敷に招聘され、今出川通り烏丸を西に入った所に旅宿していたが、その書生には、肥後藩や大垣藩、会津藩、新撰組などから一人ずつ弟子が居り、その他にも諸藩士の出入りも多くあった。このような状態の中、赤松から帰国したいとの暇乞いの申し出があったので、色々と探索したところ、やはり幕府に肩入れする奸佞の者であることが明らかになった。また、今年の春には新将軍の徳川慶喜にも拝謁していたので、その疑いはますます確かとなったのである。
丁度今日、四条通り東洞院を西に入ったところで、その赤松と遭遇した。赤松はそのまま放っては置けない存在であるので、それより小野、中島、片岡君の三人を四条烏丸南角に饅頭屋があったので、そこで待たせて置き、田代君と僕が赤松の後を追った。四条から東洞院通りを伏見の方向に下って追っていくと、仏光寺通りにて、同藩の野津七次ら他二名と会った。二人は赤松とそこの角で会ったと言ったので、自分達は追って通りを五条まで下って先回りし、赤松が歩いている道を後へと戻って引き返した。すると、魚棚通りを上がった所で赤松と出会った。僕は赤松の前に立ちふさがり、刀を抜いたところ、赤松は短筒(短銃)に手をかけようとしたが、左の肩から右の腹にかけて斬りつけたところ、すぐに赤松は倒れかかった。そこを田代君が背後から横に斬り払ったので、赤松は一歩ほど歩こうとしたがそのまま倒れた。僕は直に留めを刺すこと二太刀、田代君も留めを二太刀浴びせて、討ち果たしたのである。そこから僕らはすぐに引返し、三人の居る饅頭屋まで戻り、五人で藩邸に戻った。
明治10年(1877)、中村半次郎(桐野利秋)は西南戦争で討死した。享年40歳。