365頁で三章からなる。
「Ⅰ詩書月評2016」は、「現代詩手帖」で詩書月評を担当したときの記録。もちろん当時に毎月読んでいた内容だが、あらためて読み返してみると、単に詩集を網羅したのではなく、毎月のテーマに添ってのふさわしい詩集が選択されていることに感心する。しかしそこにあるのは、作者の思惑に添って選択された詩集の評ではなく、その月の詩集たちと向きあっての評から起ちあがってきた思考をまとめているわけだ。そのようにして、作者にとっても意味を持つ詩集と出会う楽しみがあったものと思われる。
「アレゴリー、あつめること」、「詩の「たりなさ」、詩の「生き物」化」などは特に考えさせられることが多い章だった。
「Ⅱ詩の顔、詩のからだ」は、フェイスブックに書いたエッセイ「詩を書くことについて」とのこと。
「承認願望」の章に書かれているこの気持ちは、なぜ自分は詩を書くのかということにもつながる。この思いは詩を書く者のほとんどが無意識のうちに抱いているだろう。私の中でもやもやとしていたものだったが、それがきちんと分析されていた。
「ライト・ヴァース」の章には大きな示唆を受けた。「すぐれたライト・ヴァースにあるのは(略)語調の柔らかさではなく、あくまでも構造の明視性だ」という論点には大いにうなずかされた。そして「可読性/難読性の弁別そのものを無効にしてしまう」という変形ライト・ヴァースの存在は魅力的だ。私(瀬崎)は(自分ではなかなか書けないでいる)ライト・ヴァースが好きなのだということをあらためて思った。
「Ⅲ補遺と2017年詩集」は、歌集評、詩集評を中心としているのだが、「Ⅰ」と異なるのは、詩集に自分を寄り添わせていくのではなく、自分に対象詩集を寄り添わせているところ。そのために作者の言いたい内容がより端的に書かれている。
「端折るひと、神尾和寿」では、詩集「アキオ」にそって単なるライト・ヴァースを越える作品について詳述されていた。
「Ⅰ詩書月評2016」は、「現代詩手帖」で詩書月評を担当したときの記録。もちろん当時に毎月読んでいた内容だが、あらためて読み返してみると、単に詩集を網羅したのではなく、毎月のテーマに添ってのふさわしい詩集が選択されていることに感心する。しかしそこにあるのは、作者の思惑に添って選択された詩集の評ではなく、その月の詩集たちと向きあっての評から起ちあがってきた思考をまとめているわけだ。そのようにして、作者にとっても意味を持つ詩集と出会う楽しみがあったものと思われる。
「アレゴリー、あつめること」、「詩の「たりなさ」、詩の「生き物」化」などは特に考えさせられることが多い章だった。
「Ⅱ詩の顔、詩のからだ」は、フェイスブックに書いたエッセイ「詩を書くことについて」とのこと。
「承認願望」の章に書かれているこの気持ちは、なぜ自分は詩を書くのかということにもつながる。この思いは詩を書く者のほとんどが無意識のうちに抱いているだろう。私の中でもやもやとしていたものだったが、それがきちんと分析されていた。
「ライト・ヴァース」の章には大きな示唆を受けた。「すぐれたライト・ヴァースにあるのは(略)語調の柔らかさではなく、あくまでも構造の明視性だ」という論点には大いにうなずかされた。そして「可読性/難読性の弁別そのものを無効にしてしまう」という変形ライト・ヴァースの存在は魅力的だ。私(瀬崎)は(自分ではなかなか書けないでいる)ライト・ヴァースが好きなのだということをあらためて思った。
「Ⅲ補遺と2017年詩集」は、歌集評、詩集評を中心としているのだが、「Ⅰ」と異なるのは、詩集に自分を寄り添わせていくのではなく、自分に対象詩集を寄り添わせているところ。そのために作者の言いたい内容がより端的に書かれている。
「端折るひと、神尾和寿」では、詩集「アキオ」にそって単なるライト・ヴァースを越える作品について詳述されていた。