瀬崎祐の本棚

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評論集「詩の顔、詩のからだ」 阿部嘉昭 (2018/03) 思潮社

2018-04-10 17:57:18 | 詩集
 365頁で三章からなる。
 「Ⅰ詩書月評2016」は、「現代詩手帖」で詩書月評を担当したときの記録。もちろん当時に毎月読んでいた内容だが、あらためて読み返してみると、単に詩集を網羅したのではなく、毎月のテーマに添ってのふさわしい詩集が選択されていることに感心する。しかしそこにあるのは、作者の思惑に添って選択された詩集の評ではなく、その月の詩集たちと向きあっての評から起ちあがってきた思考をまとめているわけだ。そのようにして、作者にとっても意味を持つ詩集と出会う楽しみがあったものと思われる。
「アレゴリー、あつめること」、「詩の「たりなさ」、詩の「生き物」化」などは特に考えさせられることが多い章だった。

「Ⅱ詩の顔、詩のからだ」は、フェイスブックに書いたエッセイ「詩を書くことについて」とのこと。
「承認願望」の章に書かれているこの気持ちは、なぜ自分は詩を書くのかということにもつながる。この思いは詩を書く者のほとんどが無意識のうちに抱いているだろう。私の中でもやもやとしていたものだったが、それがきちんと分析されていた。

「ライト・ヴァース」の章には大きな示唆を受けた。「すぐれたライト・ヴァースにあるのは(略)語調の柔らかさではなく、あくまでも構造の明視性だ」という論点には大いにうなずかされた。そして「可読性/難読性の弁別そのものを無効にしてしまう」という変形ライト・ヴァースの存在は魅力的だ。私(瀬崎)は(自分ではなかなか書けないでいる)ライト・ヴァースが好きなのだということをあらためて思った。

 「Ⅲ補遺と2017年詩集」は、歌集評、詩集評を中心としているのだが、「Ⅰ」と異なるのは、詩集に自分を寄り添わせていくのではなく、自分に対象詩集を寄り添わせているところ。そのために作者の言いたい内容がより端的に書かれている。
「端折るひと、神尾和寿」では、詩集「アキオ」にそって単なるライト・ヴァースを越える作品について詳述されていた。
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別冊 詩の発見  17号  (2018/03)  大阪

2018-04-07 16:58:51 | 「は行」で始まる詩誌
「フレアスカート」林芙美子。
女は冷たい風にふるえている男を「長くたっぷりとした/フレアスカートの中へ」導き入れる。女はいつも男を受け入れるのだ。男はいつもそれに甘えてしまう。すると、

   そろそろ帰らなければなどと
   おっしゃるのですね
   難しいでしょうね
   お入りいただいたまま
   フレアスカートのすそを
   縫い合わせましたので

男は弱いものだから、ついつい甘えてしまい、いつも、いつまでも女の中に閉じこめられるのだ。

「渇きという地理の密度」松尾真由美。
乾いた花と葉はかたくなり、擦れあう痛みはにぶくひびく。張りつめたこの世界には、もはや安らぎもどこにも残っていないような気配がしている。その部屋からはもう出ることも出来ないような予感が満ちてきている。

   おだやかな温もりを感じていて
   あれはもう手に入らない
   ほらごらん
   握りしめれば
   くずれる葉

「フタ」高階杞一。
容器のフタは中のものがむやみにこぼれないように防いでくれるのだが、人間にはフタがないので「体から/激しくあふれてくるものがあっても/とめられない」。

   醤油の瓶のように
   傾けたときだけ
   思いを
   出せるようになっていればいいんだけれど

     ごめんね ごめんね

軽妙な比喩と語り口で素直に受けとれて、しかも深い所に余韻を残す作品。阿部嘉昭が近著で考察していたライト・ヴァースのお手本のような作品である。


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詩集「アジュモニの家」 細田傳造 (2018/03) 思潮社

2018-04-04 23:15:34 | 詩集
 第5詩集。93頁に22編を収める。
 冒頭の「三軒家」でその強い視線に引きこまれてしまう。戦後間もない頃の情景で、お妾さんの家や”パンパン”と言われていた人の家と並んで我が家はあったのだ。男の人がばらばらに切断されていたり、おふくろがどぶろく密造で捕まったり。

   六十五年前の「三軒家」は忙しかった
   倒れそうになって今でも建っているけど
   とても静かだ 一一0歳くらいの年寄りが
   ひとりずつ住んでいるけれど
   永遠に死なない人たち(生霊の棲みかになった
   国際興業バスは「三軒家」で停まらない
   降りる人がもういない乗る人がもういない

 作者の出発点になった情景が描かれているわけだが、いろいろなどの人も必死に生活していたのだ。作者の強さはそこから生まれてきたのだろう。

「秋」は桐の木に登った話。すると話者は、欠伸をしながら起きてきた悪阻(つわり)の娘に梯子を外されて降りられなくなったのだ。仕方なく桐のひと葉になって落葉を待っている。どこかとぼけたような達観の味わいの作品。最終部分は、

   息がきれてしまったら
   黄色くなってひらひらと
   愚者の庭に落ちていきましょう
   幸吉は今、
   高い所にいます

 詩集タイトルにもなっている「アジュメニの家」では、何か悲劇が起きたようなのだ。死んでしまっている話者は、やはり死者であるアジュモニと再会している。自分の出自を問いなおしているような作品であった。

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詩集「花まんだら」 佐伯多美子 (2018/01) 砂子屋書房

2018-04-01 17:41:59 | 詩集
 第6詩集。118頁に30編を収める。
 この1冊の詩集に収められた作品の間での、話者の感情の振幅はとても大きい。ある作品ではぶっきらぼうな口調であり、ある作品では跳びはねるように浮き立っている。かと思えばある作品では陰鬱な独白になっていたりする。そのどれもが作者であるのだろう。

 「美(うる)わしの日々」
 婆が、相棒だった八ちゃんと、その友だちだった一ちゃんのことを回想している。ホームレスのような3人は、桜の咲く公園の外れで缶チューハイを飲みながらの花見。亡くなるときに八ちゃんの魂は身体から抜けだし一ちゃんを捜しに行ったのだ。

   婆は動けない
   足が一歩も動かない
   体が硬直したように動かない

   桜がはらはらと散る。花筏がすこしずつ形を変えながら緩やかに流れる

 現を離れた純粋な情だけが舞っているような作品。今から思えばあれが”美わしの日々”だったのだということがあらためてわかって、切なくもなるのだ。

 ”ねこすけちゃん”と呼ばれている黒毛のとらねこは、いくつもの作品にあらわれる。作者は他愛もなく”ねこすけちゃん”に話しかけ、それを他の作品と同じ位相のものとして差しだしてくる。作者のそのバランス感覚にはなにか不気味なものも感じてしまうのだが、しかし、これらすべてがひとつとなって作者を形づくっているのだろう。

 「氷点」では、話者は「ことばを拾いに部屋をで」て、冬の桜並木を行く。饒舌だった彼の人がいて、ことばが凍る。ことばは拾えず、こぼれてもこない。凍ったことばは夏がきてもそのまま「灼熱の太陽に張り付いている」のだ。

   黒い灰をかき集めるとその幽かな重みに軽く頷き
   それから

   凍土に埋める

   それから焦点の合わない目が思わず笑いだす
   はははハハ ほとんど意味もなく笑いこけている

 書くことによって何かを求めようとする者の、ことばへの逡巡、畏怖。そのようなものがひしひしと伝わってくる。
 原稿用紙のます目に書かれた「目玉」については発表時に「現代詩手帖」詩誌評で感想を書いている。
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