瀬崎祐の本棚

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詩誌「詩素」 13号 (2022/11) 神奈川

2022-11-15 22:33:37 | 「さ行」で始まる詩誌
今年7月に亡くなられた小柳玲子氏を追悼して、吉田義昭、坂多瑩子、野田新五の3氏が文章を寄せている。どれも、現実と非現実の境界を自在に往来し、時間軸をひとつの風景として捉えて作品を書かれた小柳氏の作品、人柄がよく伝わってくるものだった。
私(瀬崎)は小柳氏からきれいな手作り封筒での手紙をいただいたりもしていたのだが(この貴重な封筒については坂多氏の文章が触れている)、実際にお会いしたのは2度である。夢人館シリーズの画集で欲しいのがあったらあげるわよとの言葉にあまえて、精密な水彩画を描いたリチャード・ダッドの画集をいただいたのだった。また、亡くなられた友人の蔵書から希少な詩集を分けてもらったこともあった。
小柳氏の作品には、柔らかく包みこまれるようでいて、それなのに背中の方が薄ら寒くなってくるような、不思議な感触があった。詩誌「きょうは詩人」に連載されていた愛憎入り混じった友人詩人についての連載エッセイには、そうか、エッセイというのはこういう風に書くものかと感じ入ったものだった。合掌。

「暗渠通信」海埜今日子。
幾度となく会っているのに連絡する手段を知らない彼。暗渠となった川の両岸にわたしたちは暮らしていたようなのだ。そして、わたしが育ってきた風景にはいつも川が流れていたのだ。川が隔てていたものは何だったのか。暗渠によって「ふさがれた、さけび」があり、最終部分、

   この日、彼を見つけたのは小さな一軒家の二階。窓辺から、わかれのように手を振ってい
   る。つかのまだったか、永遠だったか。今住んでいる家の近くには、小さな川があるの。
   遊びに来てね、またね。

最後の「遊びに来てね、またね。」の言葉は、もう決して実現されないことを知っているかのようで、切ない。

「詩集をよむ」のコーナーで、小島きみ子氏が拙詩集「水分れ、そして水隠れ」について四章立て、2頁半にわたって評を書いてくれている。詩集のあちらこちらに出没する”小さい人”や”眼球”が担っているものを的確に捉え、<光を失うところへ出かけた女将>から<庭をおおう大いなる翅>へとつづく大円団を分析してくれていた。感謝。
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