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詩集「百年の鯨の下で」 早矢仕典子 (2021/05) 空とぶキリン社

2021-06-16 11:12:43 | 詩集
 第3詩集。97頁に26編を収める。

 ナカジマミヤのカバー絵は、大きな鯨が悠然と大空を渡って行く図である。そして巻頭には「十月の鯨の下で」が置かれている。十月は「私たちの街の上を/時間がひと跨ぎでわたっていく季節」なのだ。建物には「六十年前に見たはず」だったか「六十年後に見るはず」だったかの影がある。アパートの階段やベランダ、目の前の公園。そこにある光と影は仮初めのもので、大いなるものがゆっくりと通り過ぎていくのだ。最終部分は、

   その頭上には巨大な二頭の鯨
   二頭の 尾で交わる鯨
   ちょうど 赤黒い 鯨の顎の下あたりだ
   私たちの十月
   通過していくのは

印象的なカバーの絵はこの作品にインスパイアされたものだろう。私たちの世界を俯瞰するように、百年という年月でも鯨は悠然と通過していくのだろう。

 「巻き添え」では父が福引きでもらってきた自転車が消えてしまう。その直前には父も亡くなっていたのだ。いろいろなものが私から忽然ときえていく。そして記憶も消えていく。「百年もの歳月がさらさらと過ぎてしまったように」消えてしまったのである。それらは穴に落ちていったのである。

   いくつもの風景。でこぼこの 粗い下地のうえに記された。そこにはいつも穴が
   ある。いくつもの穴。大小はさまざま。小学生のころ友達が住んでいた町外れの
   集合住宅。あのあたりにもたぶん なにかが落ちていった。穴がある。

 話者の中にひろがる風景のあちらこちらに穴が開いていて、そこには見えなくなったものが落ちているというこの感覚の表現は、よく読み手に伝わるものになっている。

またときには今まで隠れていたものがあらわれることもある。「引き返す」では忘れ物を取りに家に引き返すと、そこは「かつての父の生家」で、どの部屋にも見知らぬ泊まり客がいる。

   だがどこまで階段を上って行っても 目当ての部屋にはたどり着かない
   なにかがそもそも 間違っていたらしいのだ

   ひさしく 顔を見せなかったこの家の主が
   あっちだあっち、と呆れたように教えてくれる

 このようにこの詩集の作品世界ではしばしば時が捻れる。あるものは失われ、過ぎ去ったはずの思い出ごとが現在の話者にはね返って来たりもする。それこそが作品を書く意味だったのだろう。
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