第1詩集。107頁に19編を載せる。森本孝徳、小林レントの栞が付く。
はじめの数編を読んで、ああ、これは”真面目に”読んではいけない種類の詩集だと感じた。私の癖として”真面目に読もうとする”と、どうしても意味に流されてしまいがちになるのだ。言葉が抱えている意味は一度捨てて、この詩集の作品では言葉そのものの感触や音色、楽しさや寂しさを楽しまなければならないのだろう。
たとえば「届け物」では、非実在のみちるちゃんにこねこカレンダーが届かない、「どうしよう」が届かないのだ。非実在みちるちゃんはショックで分水嶺めがけて吐いて魚がかわいそうなのだ。とりとめがないようで、そのうちにちゃんと求心性のものが生じてきている。最終連は、
色とりどりの花を食べていると
牛乳屋さんが牛乳を届けてくれた
途方もなくぴかぴかの瓶に
「吉」と書いてある気がした
届けられた物があらかじめ吉のはずはなく、書くことによってそれを吉にしなければ生きてはいけないのだ。
饒舌に語る話者は外部のなにごとにも気づこうとはしない。おのれの言葉が描くものだけが存在するのであり、それ以外のものが意味を持ってしまったら、話者の世界は跡形もなく灰燼に帰してしまう。そんな危機感に追われて言葉は休むことなく吐き出され続ける。この緊張感に息を止めてしまう。
牛の豚の 牛の糞を見たか
おまえおまえまみれて
前列で
呑まされて肩を脱臼 ああ奥様
桃源郷が見えてきました
畜生が上昇していきます マゾ畜生が
(「豚ジャンキー」より)
小林レントの栞によれば、水城は「ぼくは、ダダ詩の先にいきたい」と言ったとのこと。なるほど、もっと先へ、もっと先へ。
はじめの数編を読んで、ああ、これは”真面目に”読んではいけない種類の詩集だと感じた。私の癖として”真面目に読もうとする”と、どうしても意味に流されてしまいがちになるのだ。言葉が抱えている意味は一度捨てて、この詩集の作品では言葉そのものの感触や音色、楽しさや寂しさを楽しまなければならないのだろう。
たとえば「届け物」では、非実在のみちるちゃんにこねこカレンダーが届かない、「どうしよう」が届かないのだ。非実在みちるちゃんはショックで分水嶺めがけて吐いて魚がかわいそうなのだ。とりとめがないようで、そのうちにちゃんと求心性のものが生じてきている。最終連は、
色とりどりの花を食べていると
牛乳屋さんが牛乳を届けてくれた
途方もなくぴかぴかの瓶に
「吉」と書いてある気がした
届けられた物があらかじめ吉のはずはなく、書くことによってそれを吉にしなければ生きてはいけないのだ。
饒舌に語る話者は外部のなにごとにも気づこうとはしない。おのれの言葉が描くものだけが存在するのであり、それ以外のものが意味を持ってしまったら、話者の世界は跡形もなく灰燼に帰してしまう。そんな危機感に追われて言葉は休むことなく吐き出され続ける。この緊張感に息を止めてしまう。
牛の豚の 牛の糞を見たか
おまえおまえまみれて
前列で
呑まされて肩を脱臼 ああ奥様
桃源郷が見えてきました
畜生が上昇していきます マゾ畜生が
(「豚ジャンキー」より)
小林レントの栞によれば、水城は「ぼくは、ダダ詩の先にいきたい」と言ったとのこと。なるほど、もっと先へ、もっと先へ。