瀬崎祐の本棚

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詩集「ジャキジャキ」 水城鉄茶 (2024/09) 思潮社

2024-10-29 21:44:40 | 詩集
第1詩集。107頁に19編を載せる。森本孝徳、小林レントの栞が付く。

はじめの数編を読んで、ああ、これは”真面目に”読んではいけない種類の詩集だと感じた。私の癖として”真面目に読もうとする”と、どうしても意味に流されてしまいがちになるのだ。言葉が抱えている意味は一度捨てて、この詩集の作品では言葉そのものの感触や音色、楽しさや寂しさを楽しまなければならないのだろう。

たとえば「届け物」では、非実在のみちるちゃんにこねこカレンダーが届かない、「どうしよう」が届かないのだ。非実在みちるちゃんはショックで分水嶺めがけて吐いて魚がかわいそうなのだ。とりとめがないようで、そのうちにちゃんと求心性のものが生じてきている。最終連は、

   色とりどりの花を食べていると
   牛乳屋さんが牛乳を届けてくれた
   途方もなくぴかぴかの瓶に
   「吉」と書いてある気がした

届けられた物があらかじめ吉のはずはなく、書くことによってそれを吉にしなければ生きてはいけないのだ。

饒舌に語る話者は外部のなにごとにも気づこうとはしない。おのれの言葉が描くものだけが存在するのであり、それ以外のものが意味を持ってしまったら、話者の世界は跡形もなく灰燼に帰してしまう。そんな危機感に追われて言葉は休むことなく吐き出され続ける。この緊張感に息を止めてしまう。

   牛の豚の 牛の糞を見たか
   おまえおまえまみれて
   前列で
   呑まされて肩を脱臼 ああ奥様
   桃源郷が見えてきました
   畜生が上昇していきます マゾ畜生が
                    (「豚ジャンキー」より)

小林レントの栞によれば、水城は「ぼくは、ダダ詩の先にいきたい」と言ったとのこと。なるほど、もっと先へ、もっと先へ。
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詩集「ハルシネーション」 草間小鳥子 (2024/10) 七月堂

2024-10-26 11:17:34 | 詩集
第3詩集。164頁に41編を収める。

巻頭に置かれた「圧倒的に弱く多数の、そして無価値な」からその言葉のやわらかいうねりに惹き込まれる。最初の2行は次のようだ(少し長いが美しいので書き写しておく)。「ゆび先を傷つけることしかできない言葉のかわりに/腕のやわらかいところへ互いの名まえを書き合う」書きとめられた言葉はわたしたちの身体をなぞりながら、川のように休むこともなく流れていくようなのだ。作品は次のように終わっていく。

   いつだって嘘をつく
   いつだって間違える
   それだけがわたしたちの正しさ
   あやまちをなぞるあたたかなゆび
   紙背に眠る言葉を口ずさむ
   いくつものあたらしい唇
   圧倒的に弱く多数の、そして無価値な

「最後の砂丘で」「いまはもうない海のことを話した」という作品「さよなら海」は13行の短い作品。「埠頭を出たまま戻らない」舟があり、「行き場をなくした水平線」と「凍りついた波頭」があるのだ。一つの情景、一つの思いだけが簡潔に書き留められている。しかしそこにはかぎりないほどの情感があった。

このように言葉は詩集タイトルの”ハルシネーション(幻覚)”のようにあらわれてくるのだが、「ⅳ Phygital Hallucination」の作品になると、生成AIが事実と異なる内容や文脈と無関係な内容を生成する意を重ね合わせてもいるようだった。表れてくる言葉そのものの存在を信じ切れない不安もまたそこには在るのだろう。

「サマータイム」。木の葉をひろいそれを「ぼくの舟」にしてきみは流れに浮かばせる。「流されるのではなく/流れそのものになるということ」抗うこともできずに落ち続ける砂時計の砂を見つめるのではなく、その砂になってしまおうという意思がここには在る。
   
   生涯ひとつの歌しか歌えないことは
   かなしいことではない
   ひぐらしの声を浴びながら
   汚れた靴を持ちあげる
   暗い靴音が渓声にけむる
   堆積をくり返しなぞることでしか
   立ち現れない像があるなら
   何度でもなぞってみせよう

そしてはかない秋が来てまばゆい冬となる。わたしは歯を食いしばるのだ。

前詩集ではどの作品ででも根底もうるおすように水が流れていたのだが、この詩集の作品でも言葉は川となって流れ、海となってひろがっていた。

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詩集「てのひらのつづき」 阿部嘉昭 (2024/09) フラジャイル

2024-10-20 00:52:39 | 詩集
詩誌「フラジャイル」の別冊として発行された詩集。

65頁に120編が載っているのだが、その作品タイトルはすべて漢字2文字のものとなっている。各作品は4連15行からなる行分け詩で、それが2段組で載っている。
この4連15行という詩型は作者が自らに課した縛りのようなものだろう。一種の定型であり、この枠組みを課することによって発語がかえって自由になる部分があるのだろう。

「角屋」は次の一連で始まる。

   いくたびも角屋がとおりすぎて
   くうきはあかるくゆらめいた
   まがりながらカドをつくる者であり
   ツノを笛にして鳴らす者だった

「角」という文字に”カド”と”ツノ”の二つの意味を重ねあわせ、その重なりから生じる影を楽しんでいる。”カド屋”なのか、それとも”ツノ屋”なのか。最終行が好い。「成仏とはそれよと悉皆屋も追った」作品は見事に角を曲がって見えなくなっていった。

「後姿」では、話者は「詩のうしろ姿がみたかった」という。そのためにかたりあったのだと。

   こころふかくで二頭が洗われ
   沢音があたりにせせらいていた
   しぎ、さわ、そこからの秋
   しぐれのうしろすがたもみえた

”しぎ”、”さわ”、”そこから”、そして”しぐれ”とサ行の音が重なる。これが沢音のように心地よく響いてくる。それにしても、詩はどんなうしろ姿で作者から去って(成仏して)行くのだろうか。

収められた120編は2年半の間に書かれたようだ。おそらく実際にはこれ以外の作品も書かれていたであろうから、文字通りに言葉とともにある日々だったわけだ。万華鏡のように言葉が日々その装いを変えて(喩となって)乱舞している様を空想してしまった。
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詩誌「妃」 26号 (2024/10) 東京

2024-10-16 18:02:07 | 「は行」で始まる詩誌
B5判、120頁に16人が作品を載せている。ほかに書評など。

「婚姻」塩谷結。
かつてある詩誌の投稿欄で注目していた彼女の作品を久しぶりに読んだ。この作品は”婚姻”に続く出来事としての妊娠・出産にこだわっている。こどもができること、こどもができなくすること、その狭間で作者は”ユ”と”イ”に分裂しているようだ。

   「夜中に爪を切ったんだ」
   ってかつてユ/が言っていたとき
   /イは嬉しかった、切られていたのが/イだってことを知ってることを、ユ/も
   知っていることが

最終近くについに話者は叫ぶ、「あの火事の中から/男児でも女児でも/救い出してみろ」。作者の中で燃えているものは何を焼こうとしているのだろうか。

「村を歩く」渡辺めぐみ。
被災から13年目の福島の村を詩っている。木々には緑があり、人々の上には快晴の空が広がっている。しかしここには「すべてを受け止める地の深さ」があるのだ。故郷はどこまでいっても故郷であるわけだし、この地での戦いがあるわけだ。訪れる者もその記憶なしではこの村を歩むことはできないのだろう。その厳粛な思いが読む者にも伝わってくる作品だった。

   地の記憶よ
   眠れない地の記憶よ

   ここは福島
   死んだものたちと
   生きているものたちのための村

「三つの日記」細田傳造。
小学生日記、中学生日記、老人日記からなる。中学生日記の副題は「あくがれ」。からかったよし子には英語の教科書でぶたれ、はいびょうの英語教師は休んだままなのだ。

   あくがれは藤野節子先生
   国語の時間 せせらぎのような声で
   西洋の詩をよんでくれた

でもすぐに「聖女のおなかが膨らんできて」さよならになったのだ。坊主頭の(おそらく・・・)細田少年の姿が浮かんでくるようだ。3編はどれも飄々と居直っているようで、それでいてどこか哀愁感が漂っていた。
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詩集「薔薇とひかがみ」 海東セラ (2024/09) 思潮社

2024-10-13 23:13:37 | 詩集
107頁に22編を収める。

「半音」。音楽の練習が終わったのだろうか、まだ音階がまとわりついているようだ。

   あの子が捨てた1音もポケットでうたう
   ルビー色をしてまだ温かい
   総ガラスの窓を秋は暮れて
   夕陽のいろに溶かしてしまえば
   波が奏で去ってくれるだろう

この細やかな感覚の捉え方はどうだ。迂闊に触れればすぐに失われてしまいそうな、そんな繊細さである。書きとめられた言葉を追う心地よさがここにはある。最終部分は、「いつも導かれる高ぶりに/わからない構造のまま/ガラスをくぐって/響きの方へ」

「海側いりぐち」。「たとえば剥きだしの螺旋階段をくだる」と始まるこの作品にはリルケの詩からの引用が3カ所にある。それは挟み込まれたといった詩行で、試みにその行をとばして読んでみたが、前後の意味は支障なく続いていく。しかしたしかに、傍らから話者に話しかけてきたようなその詩行は作品に深みを与えている。例えば次のような具合だ。

   このさきをたずさえてくる うやうやしいシーンに
   (わたしはとても悲しかった)
   薔薇をのせると 暮れてゆく秋はとけて
   ことばを あまく すこしにがい ふりむいて
   ふたたびのひそやかな いりぐちを探しはじめ

作者の発話が、内に貯めていたものに触発されてさらに深いところに潜り込んでいく。それこそ眩暈に似た螺旋階段である。

「ギャラリー」。ドアを開けて踏み込めば、そこは外部とは異なる時間が流れているようなのだ。鳥のあそぶ影はひかりのうらがわへいくし、肉桂のきついかおりはたらした舌でなぞられる。ここにいると、次第に身体が透きとおっていく気配も感じられるようだ。最終部分は、

   だいじょうぶ
   すでにとおざかった指のさきはともだちの空にとどいている
   呼んでくれているのだとおもう
   笑顔がきざして
   呼びかえす

うっとりと揺籃のなかにいるようなひとときを味わった詩集だった。
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