瀬崎祐の本棚

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詩集「その言葉はゴーヤのように」 佐川亜紀 (2024/09) 土曜美術社出版販売

2024-09-26 12:11:42 | 詩集
第6詩集。110頁に25編を収める。
巻頭に故・高良留美子氏へ捧げる追悼詩2編が載っている。

佐川亜紀の前詩集の感想で私は「社会への洞察を抜きにしては佐川亜紀の作品を読むことはできない」と書いた。この詩集でも作者の視線は沖縄、アイヌ、アフガニスタン、香港、ミャンマーなどに向けられている。

「アンネとアマル」。日本で生理用品として知られるアンネ・ナプキンは、アウシュヴィッツに送られる前のアンネ・フランクが「アンネの日記」に記した生理の記述からその製品名がつけられている。そして今、パレスチナのガザでは妊婦も爆破された病院の瓦礫に埋まるのだ。

   命を守る家もない
   流産した妊婦 殺された妊婦
   がりがりにやせた新生児
   生理用品もなく全身の傷から出血するパレスチナの少女
   吹き飛ばされた乳房から流れ出す赤い血

尊厳の命が生まれるべき場で繰り広げられる殺傷ほど惨いものはない。そしてその命を育む基本となる月経の処置にも事欠いている。柔らかいナプキンの肌触りが彼の地では失われている。

「雨傘と心臓」は、香港での弾圧に抵抗した人たちを描いている。かつて香港では普通選挙をもとめての雨傘革命があった。しかし民主主義は失われ、政治犯の弾圧がつづいた。

   わたしは
   左手も右手も
   骨の折れた雨傘を
   差し出すふりをする
   かつて心臓を突き刺した
   銃剣に似た傘を

土砂降りのような激しい政治的弾圧の中で、ゆがんだ傘で抵抗する心を失わない人がいる。作者のどの作品にも硬い意志があり、それを支える堅い言葉がある。問題意識が言葉の源泉となっている。

最後に置かれた「対話」。様々なものを背負ったそれぞれの人が発するのは必然的に異なる言葉となる。それでも、

   その深い谷を
   渡る
   言葉ではない言葉
   言葉である言葉

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詩集「行方しらず」 春木節子 (2024/09) 砂子屋書房

2024-09-20 16:51:34 | 詩集
第5詩集。112頁に24編を収める。

「おがみ愛玩動物雑貨店」。その店には小動物を入れたケージが重なっていて、背中のこどもをあやす割烹着姿のおかみさんがいる。おじさんは屋上で伝書鳩をたくさん飼っている。おばさんとおじさんは忙しそうに日々を送っているようなのだが、最終部分は、

   おじさんと
   おばさんが話しているところは
   見たことなく

   店の奥の住まいにつづく硝子戸のなかには
   何にんのこどもがいるのだろう

親しげによく知っていると思っているのは外から見える部分だけで、本当は、怖ろしい事柄が隠されているのかも知れない。日常生活で接する他人など、そんなものなのかも知れない。

「行方しらず」。どこかに向かっている人たちがいる。恐怖から逃げているようでもあり、理想を追い求めているようでもある。とにかくここではないどこかへ行こうとしているのだろう。すると潜水橋に出会う。水の流れに隠されていても、そこには辿ることのできる道があるわけだ。しかし、

   潜水橋は
   ゆだんならず
   深いようで あさくあり

りょうてをふり、なにかを叫びながらむこう岸に辿りついた人もいる。その人たちが渡ったものは何だったのだろうか。そんなところを渡ってしまったら、どこへ辿りつくのだろうか。

この作品の次に置かれた「行方しらず そして」では、潜水橋をわたりおえた人たちが次第にいなくなってしまうようだ。わたしたちはアセチレンランプを灯して歩いていくのだが、

   ひとつひとつ 離れて
   ランプの灯りが
   連なって
   はるかむこうの なだらかな稜線をうごいていくのが
   みえる

   わたしも
   あそこに行くのだろうか

最後に置かれた「行方しらず やがて」では、「やっと辿りついた砂の上」なのだが、「まだまだ さきだと/くぐもった声で」おとこがいうのだ。そして本当に行方しらずになっていくのだ。

「後記」には、「暢気者として過ごしているように見えているだろう自分」も「人の生の陰翳」や「逃れようのない困難」から「言葉に縋るように、書き続けて」きたとあった。たしかにそれだけの重みを感じさせる詩集だった。
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詩集「家の顛末」 石田諒 (2024/09) 思潮社

2024-09-16 20:27:44 | 詩集
第1詩集。92頁に18編を収める。

書かれた言葉はくっきりと輪郭をあらわしていて、迷いもなくそれぞれの事象を指し示している。それなのに示されたものたちは奇妙な位置関係で置かれている。全体を捉えようとすると歪んでいるのだ。その歪みが素晴らしく魅力的である。

「伝言」では、目的地ではない海で貝がらの亡霊たちが唸っているのだ。それは何も奇妙な光景ではなく、亡霊たちの静かな、けれど切実な感情なのだ。かすかな望みがあり、微かなあきらめがあるのだ。最終2連は、

   遠くで 待っています
   嫌いな服を着て
   みんなそろって
   蓋も閉めず 不機嫌な顔で
   巻いていることでしょう

   そう 聞いています

意図しないで(または意図的に)歪んだ(歪まされた?)風景は奥行きの感覚も狂わせる。ここは奥に続いているはずだと思ったところが行き止まりであったり、終わるかと思わされた先に曲がりくねった道が続いていたりしている。

目次で3つに分けられた最後の章には平仮名4文字タイトルの作品4編が並んでいる。どれも100~130行程度の比較的長い作品である。
「あまどい」。長い年月の間に雨は家を湿らせ、いろいろな陰の部分に何かを堆積させたような気配がするのだ。細かい具体的なことがていねいに積み上げられていき、ついには家が話者に倒れ込んでくるようだ。

   庭で水遊びをして濡れた あの日
   ぶら下がって、あまどいを壊したのは彼で
   (どうしようもねえ、どうしようもねえ)
   と、線香を立てつづける祖母の 色のない瞳
   の、娘役から提案があり それは
   濡れた服をまず 洗濯することだった
    落雷

短い作品では味わうことのできないうねりを楽しむことができる。荒れて、読む者を揺さぶり続ける時間がそこには流れる。この作品では血脈にまつわりつく苛立ちや怨念が流れている。「皮膚に残った血液が地図となるまで/往来しつづける物故者たち」がいるのだ。

詩集の帯文には杉本真維子の「詩のねばりづよい息継ぎが、生の足場を大きく広げる」という一文があった。新しい、鋭い感覚を持った書き手がここにあらわれた気がする。
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詩集「さまようひ」 橋場仁奈 (2024/09) 荊冠社

2024-09-10 18:09:38 | 詩集
第10詩集。88頁に21編を載せる。

以前に橋場の作品について「誰のせいによるのか判らない喧噪と、何のためなのか判らない混乱」があって作品世界を縺れさせている、と書いた。本詩集にもその喧噪と混乱は溢れている。
「有刺鉄線」では、崖っぷちのフェンスに白い花として「兄や姉たちが咲く 父も咲く母も咲く」のである。ニワトリはバタバタと走り回り、まるでたがが外れたお祭りさわぎのようなのだ。明るい生命感に溢れているようでいて、どことなく不穏な空気感をも漂わせている。

   声もなく崖っぷちのフェンスを這う季節はずれの朝顔
   どろどろと血まみれの昨日も今日ものみこんで
   姉や兄たち父や母に混じって咲く遠い銃声を耳の奥にしずめ
   有刺鉄線が足裏を突き刺し眼玉を食いやぶるぎりぎりとぎりりりり
   歯軋りして食いこんでくる夢の中でも突き刺さってくるから
   もう少し風にゆれていようよ 半日 また半日

最終部分は「ニワトリが/羽根をバタバタする夜明け前/もうすぐ母の命日」。狂乱の中に在る話者が母の命日を一つの軸として生活もしているようで、人間の感性の奥深さを思ってしまう。

「水色のサロペット」は冒頭の情景描写から気持ちをわしづかみにされる。崖っぷちの花畑には雪をのせたビニールのクマが立っているのだ。寒さがしみるなかを話者は「ねむい足 濡れた足 とろける足」で浅瀬をわたりかえってきたのだ。姉さんがいつまでも立っている玄関へ、

   山道を走った走った その姉も父も母も兄ももういない
   けれどいつだって声がする ときどき迷子になったりするが
   夜明けにはきっと帰ってくるよ

崖っぷちに立っているのは人なのか、それともビニールのクマなのか。水色のサロペットの胸元では星たちがひかったりかげったりしている。そしてたどりつこうとしている場所にはそれが「雪に埋もれ立っている」のだ。「足踏みして足元をかきわけ/朝も昼も夜も立っている立っている」のだ。たどり着こうとしている直向きさ、焦りが言葉を反復させている。言葉はこれほど必死に発せられるものなのだと思い知らされる。

作品「ヒヤシンス」は拙個人誌「風都市」に寄稿してもらった作品である。

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詩集「誰のでもない/レリギオ」 高野堯 (2024/07) 思潮社

2024-09-06 20:41:13 | 詩集
第3詩集。138頁に23編を収める。

表記には漢字の割合いが多く、視覚的にも紙面は硬く尖っている。また片仮名によるルビが一層刺々しい印象を与えている。いたるところで言葉は牙を剥いていて、安易に近づくと皮膚が切り裂かれてしまうような感覚がある。

「じいじの眦(マナジリ)」は11頁に及ぶ長い作品で、散文詩型の部分と行分け詩の部分が混在している。「このボク」がじいじについて語っているという体裁を取っているのだが、その視線は内省に満ちている。ボクはどうやらじいじに連れられた犬のようなのだ。犬なので人間界の約束事からは離れた地点で人間界を捉え直そうとしている。

   (避難所はまだだろうか、近づいているのか遠ざかっているのかわからないまま 
   じいじの視界(エイゾウ)が先(ミライ)を鼻で追った、すると辺りは冬になっている、鼻先に纏いつ
   く粉雪の清冽さにますますセカイ(ソウゾウ)へのめり奔らせるのか//燦燦(サンサン)と落ちてくる
   白い光の粒子に囲まれ・・・・・・

時折り話者は「ボク」からも遊離していき、ボクをも包括した掟を造り上げていく。

「レリギオ」では、外出禁止令が出され、木偶人形(デクニンギョウ)が死魂の不日(フジツ)を語っている。どこにつながりを求めればよいのか、

   朝焼けの跫音が消えいっていく//どうやら
   埠頭の暁闇(ギョウアン)をコツコツと響き渉り/どこかで
   蟲の死魂も目覚めたのか、この記憶だけかが
   地勢学に気遣われ、しらむまに領土を換える

高野の作品を読んで、作者と”共感する”読み手はおそらく少ないだろうと思う。詩としては当然なこととして作者も共感など求めてはいないだろうし、理解されることを期待もしていないだろう。まるで、自分勝手に書いたから、どうぞ読み手も勝手にこれらの作品を手がかりにして自分の作品を創り上げてほしい、と言っているようだ。そういった覚悟が伝わってくる作品である。
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