瀬崎祐の本棚

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詩集「さまようひ」 橋場仁奈 (2024/09) 荊冠社

2024-09-10 18:09:38 | 詩集
第10詩集。88頁に21編を載せる。

以前に橋場の作品について「誰のせいによるのか判らない喧噪と、何のためなのか判らない混乱」があって作品世界を縺れさせている、と書いた。本詩集にもその喧噪と混乱は溢れている。
「有刺鉄線」では、崖っぷちのフェンスに白い花として「兄や姉たちが咲く 父も咲く母も咲く」のである。ニワトリはバタバタと走り回り、まるでたがが外れたお祭りさわぎのようなのだ。明るい生命感に溢れているようでいて、どことなく不穏な空気感をも漂わせている。

   声もなく崖っぷちのフェンスを這う季節はずれの朝顔
   どろどろと血まみれの昨日も今日ものみこんで
   姉や兄たち父や母に混じって咲く遠い銃声を耳の奥にしずめ
   有刺鉄線が足裏を突き刺し眼玉を食いやぶるぎりぎりとぎりりりり
   歯軋りして食いこんでくる夢の中でも突き刺さってくるから
   もう少し風にゆれていようよ 半日 また半日

最終部分は「ニワトリが/羽根をバタバタする夜明け前/もうすぐ母の命日」。狂乱の中に在る話者が母の命日を一つの軸として生活もしているようで、人間の感性の奥深さを思ってしまう。

「水色のサロペット」は冒頭の情景描写から気持ちをわしづかみにされる。崖っぷちの花畑には雪をのせたビニールのクマが立っているのだ。寒さがしみるなかを話者は「ねむい足 濡れた足 とろける足」で浅瀬をわたりかえってきたのだ。姉さんがいつまでも立っている玄関へ、

   山道を走った走った その姉も父も母も兄ももういない
   けれどいつだって声がする ときどき迷子になったりするが
   夜明けにはきっと帰ってくるよ

崖っぷちに立っているのは人なのか、それともビニールのクマなのか。水色のサロペットの胸元では星たちがひかったりかげったりしている。そしてたどりつこうとしている場所にはそれが「雪に埋もれ立っている」のだ。「足踏みして足元をかきわけ/朝も昼も夜も立っている立っている」のだ。たどり着こうとしている直向きさ、焦りが言葉を反復させている。言葉はこれほど必死に発せられるものなのだと思い知らされる。

作品「ヒヤシンス」は拙個人誌「風都市」に寄稿してもらった作品である。

コメント
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