たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

出雲と東北

2020-06-30 09:01:44 | 古代の出雲

<湯野神社 ゆのじんじゃ>

 

一説に、ズーズー弁と呼ばれる北東北の言葉と、

出雲の人々が日常会話で使う方言とが、

非常に良く似ているという噂があります。

これらの話は、松本清張の小説の中でも、

物語を解くカギとして取り上げられるなど、

マニアの間では周知された事実ではありますが、

出雲の縄文遺跡から東北地方の土器が発掘されたり、

東北地方の一部にワラヘビ文化が伝わっていたり……

等の事例を踏まえれば、両地域の間に古くから

交流があったことは明らかなのでしょう。

 

もしかすると、両地域の人々は「交流」という

レベルを越えて、「同じ血筋」をも

共有する間柄だったのかもしれません。

 

実は、近年のDND鑑定技術の進展により、

日本人の詳しいDNA分析が

行われるようになった結果、

「東北人と出雲人とが遺伝的に

似た傾向を示す」ことがわかったそうです。

立地条件や渡来人との接触の痕跡などから、

「大陸由来のDNA型」が多数派になると

予想された出雲人が、ほんのわずかではあるものの、

縄文人のDNAを多く保有する「東北人」に

近い位置にあるということが判明したのでした。


蛇とタケミナカタ 

2020-06-29 09:59:14 | 古代の出雲

<諏訪湖>

 

縄文中期前半、「稲作文化」とともに

やってきた「龍蛇族」の人々が、

信州や関東一円に「蛇」への信仰を

広めたと仮定するなら、

なぜ「龍蛇神信仰」の聖地である出雲地方で、

「蛇」をモチーフとした土製品が

見つからないのかが不思議と言えば不思議です。

普通に考えれば、縄文時代の

中国地方の人口密度の低さが、

土製品のバリエーションの

少なさに関係すると思われますが、

それにしても縄文時代の「蛇」

の分布が偏りすぎている裏には、

表に出ない何らかの理由があったのではないかと、

個人的には怪しんでしまうのですね。

 

そんなことをつらつらと妄想しながら、

出雲神話の本を読んでいる最中、

ふいに頭に浮かんだのが、

「タケミナカタ」に関する物語でした。

もし仮に、タケミナカタの

出雲から信濃地方への逃亡劇が、

「龍蛇族」の移動と関係しているとすれば、

諏訪近辺に広がる「蛇文様」の土製品の

謎を解くカギになるかもしれません。

果たして、「龍蛇族」の人々と出雲、

そして諏訪とのつながりはいかなるものか、

これらについては改めて考察することにしましょう。


勝坂式土器

2020-06-28 09:56:20 | 古代の出雲

<国立歴史民俗博物館>

 

縄文時代について調べている最中、

信州や武蔵を中心に発掘された、

奇抜なフォルムの土器群が目が留まりました。

「勝坂式土器」と呼ばれるそれらの作品には、

人体や動物を象った奇妙なモチーフが数多く見られ、

以前ご紹介した「顔面把手付土器」などは、

勝坂式を代表する土器のひとつです。

 

そして、顔面把手付土器とともに

勝坂式のシンボルとしてあげられるのが、

「蛇」を施した土器、および土偶でして、

これらの作品は「邪身装飾」と名がつけられ、

他の地域には見られない独自の造形美を

伴う縄文遺物として高い評価を得ています。

 

一説によりますと、この「勝坂式」

の作品に影響を与えたのが、

中国の揚子江近辺にいた

「龍蛇」の信仰を持つ民族だったのだとか……。

 

以前、「縄文」をテーマにした記事内で、

「少なくとも縄文晩期には稲作が始まっていた」

と書きましたが、これらの説を踏まえれば、

「勝坂式」が制作された縄文中期前半

(約5,000年前~約4,500年前)にはすでに、

「龍蛇」を信奉する「海人系」の人々の手によって、

「稲作」が日本へと到達していた可能性もあるのでしょう。


龍蛇族

2020-06-27 09:53:19 | 古代の出雲

<国立民族学博物館>

 

ヘビ・ハブ・ウミヘビ・ウツボ

・ウナギ・ハモ・アナゴなど

「蛇型の生物」はもちろん、

ワニ・サメ、はたまた雷・虹・龍に至るまで、

すべて「同一の神」を示すという

話があることをご存知でしょうか……?

 

これらの生き物や自然現象は、

「長物」というキーワードでくくられ、

「海人族」などともつながる

霊的なシンボルだとされております。

恐らく、「海人族」の中でも特に

「蛇」への強い信仰を持つ人々が、

俗にいう「龍蛇族」と呼ばれるようになり、

これら「龍蛇」への信仰を持つ人々が数多く

集まっていたことから、出雲一帯には

濃厚な「龍蛇神信仰」が残ったのでしょう。

 

一説に「龍蛇族」とは、揚子江(長江)

の近辺にいた呉越の人々を指し、

彼らの手によって「龍蛇」だけでなく、

稲作文化までもが日本に持ち込まれたと聞きます。

 

となると、彼らが来日した時期は、

稲作文化が到来した弥生時代初期

ということになりますが、

調べてみますとどうも「龍蛇族」の人々は、

それよりはるか以前に日本へと

到達していた可能性が伺えるのですね。


龍蛇神信仰

2020-06-26 09:50:56 | 古代の出雲

<五十猛町大浦>

 

出雲地方には古くから、龍蛇神信仰

(りゅうじゃしんしんこう)とでも言うべき、

特徴的な信仰が根付いております。

「神有祭」が行われる11月ごろ、

近隣の浜辺に打ち上げられる「セグロウミヘビ」を、

地元の人は龍蛇(りゅうじゃ・りゅうだ)神と呼び、

全国から出雲へとやってくる

八百万の神々の先導役と捉えているのだとか……。

出雲の主要神社で見かける亀甲紋という神紋も、

実はウミヘビのウロコの六角形を模した型で、

別名として「竜鱗紋」との名を持つと聞きました。

 

また、神有祭の中心地である出雲大社だけでなく、

佐太神社・美保神社・日御碕神社など、

出雲地方では「龍蛇」をご神体

とする神社があちこちに散らばり、

また、西隣の石見国大田のあたりには、

「龍蛇神」を奉納する風習や、

「龍蛇と朝鮮半島」とのつながりを示す

言い伝えが残されているのだそうです。

いずれにせよ、「龍蛇神」への信仰が、

出雲周辺の広い範囲に伝播した、

「特殊祭祀」であることは間違いないのでしょう。


セグロウミヘビ

2020-06-25 09:48:21 | 古代の出雲

<稲佐の浜>

 

旧暦10月10日から17日までの期間、

出雲大社および近隣の神社では、

全国から神々をお迎えする

「神在祭」という神事が執り行われます。

このため出雲地方では、神有祭が行われる

11月を「神有月」と呼んで特別視し、

地域全体で早くから準備に取り掛かるのだそうです。

 

ちなみに、このお祭りの主役となるのが、

「セグロウミヘビ」という種類のウミヘビでして、

何でもその昔は、「ウミヘビの漂着」

を合図に神在祭が始まったのだとか……。

現在も、ウミヘビが浜に打ち上げられると、

近隣の神社に奉納するという慣わしがあり、

打ち上げられたセグロウミヘビは、

丁重に保管してミイラ状態にしたのちに、

玉藻(ほんだわら)を敷いた三方の上に

トグロを巻いた状態で乗せ、

神様の依り代として神社に納められると言います。

 

普段は沖縄近海に生息するこのウミヘビは、

寒くなると対馬暖流に乗って

山陰地方に流れ着くとのことですが、

夜中の海でこのウミヘビに遭遇すると、

まるで「金色の火の玉」が

近づいてくるように見えるとも聞きました。


蛇とアラハバキ

2020-06-24 09:46:03 | 古代の出雲

<温泉神社 おんせんじんじゃ>

 

一説に、アラハバキの「ハハ」は古語で蛇を指し、

「ハハキ」とは「蛇木」あるいは

「龍木」を意味するそうです。

また、アラハバキとも同一視される、

アシナヅチ・テナヅチの「ツチ」も、

「蛇」を表す言葉だという話がありますから、

アラハバキという土着の神が、

多分に「蛇」のニュアンスを纏った

存在であることは明らかでしょう。

さらに、アラハバキの「アラ」を

大陸由来の言葉だと考えれば、

アラハバキとは「蛇の信仰を持つ

渡来系の人々」とも言い換えられますね。

 

ちなみに、古名を「波波岐(はばき)国」

と記す伯耆国(現在の鳥取県)は、

出雲地方と同様にワラヘビ祭祀が

盛んな土地のひとつです。

伯耆地方には、特出したアラハバキ信仰

の形跡は見られないものの、

ワラヘビという民間信仰の中に

アラハバキが同化している可能性も高いのだと……。

いずせにせよ、石見・出雲・伯耆の一帯には、

何らかの形で「蛇」もしくは「蛇を崇める集団」

が関わっているのかもしれません。


蛇の多様性

2020-06-23 09:43:34 | 古代の出雲

<阿須伎神社 あすきじんじゃ>

 

石見地方の神楽において、

神様のご神体として登場するワラヘビは、

石見以外の地域では「荒神様」への供物として

扱われることがあるそうです。

以前、「ヤマタノオロチ」について考察した際、

「オロチ」を何に見立てるかで、物語の様相が

ガラッと変わってしまうと書きましたが、

長い時代に渡る信仰の多様化や、

渡来人などとの接触の中で、

「蛇」という生き物は様々な

ポジションを与えられて行ったのでしょう。

 

時には神そのものとして、

時には神の依り代として、

また時には神に歯向かう敵として、

その折々で変幻自裁に立場を変化させながら、

日本人の生活に息づいてきたのだと思います。

 

恐らく、「蛇」への信仰が持ち込まれた当初は、

「大元神楽」に登場するワラヘビのように、

「神」の化身として手厚く扱われていたはずです。

それがいつの間にか「オロチ」という悪者へと転化し、

「神に成敗される対象」として

言い伝えられるようになりました。

果たして、その過程においては

どんな出来事が起こっていたのか、

出雲一帯に残る「蛇の痕跡」を

さらに追いかけてみたいと思います。


大元神

2020-06-22 09:40:02 | 古代の出雲

<苅田神社 かりたじんじゃ>

 

昨日ご紹介した、石見神楽の

源流とされる「大元神楽」の中で、

神がかりした神職に託宣を下ろすのが

「大元神」です。島根県やその周辺には、

この神を祀ったとされる

「大元神社」が点在しますが、

その多くが「祭神不明」だと言われており、

大元神のはっきりした素性はわかっておりません。

 

ただし、「大元神社」の別称に

「大歳神社」の名前が冠せられることや、

他地域の大元神社で祀られる

ご祭神のラインナップなどから想像すると、

「スサノオ」もしくは「国之常立神」

の系統である可能性が高いのでしょう。

 

島根県大田市にある苅田神社を訪ねた際、

ご祭神の中に「国之常立神」が合祀されていたため、

興味深く思い調べてみたところ、

その場所はもともと大元神社のあった土地でした。

 

実はこの苅田神社は、2018年の4月に

発生した島根県西部地震で鳥居が倒壊し、

全国ニュースでも大きく取り上げられた場所でして、

以前からブログ内でも指摘していた、

「国之常立神」と自然災害との

深いつながりを改めて実感し、

改めてこの神への畏怖を感じた次第です。


大元神楽

2020-06-21 09:37:36 | 古代の出雲

<静間神社 しずまじんじゃ>

 

昨日、西伯耆~東出雲にかけての一帯に

「ワラヘビ文化」とでも呼ぶべき、

独自の民間信仰が伝わって

いることをご紹介しました。

 

実は、出雲の西隣・石見地方の

民俗芸能である「石見神楽」も、

ワラヘビと深い縁を持つとされるお祭りでして、

現在のような娯楽性の強い演目に変わるまでは、

「ワラヘビ」が祭りの主役を努めていたと聞きます。

 

島根県西部の山間地・邑智(おおち)郡一帯には、

このような石見神楽の古式を受け継ぐ

「大元(おおもと)神楽」が伝わり、

神の依り代となった長さ七尋半

(13.5メートル)のワラヘビが、

激しく体をくねらせながら

舞殿を踊りまわるのだとか……。

 

ちなみに、こちらの「大元神楽」は、

神職が神がかりを起こしてお告げを聞く

「託宣(たくせん)」を伝承する

数少ない神楽のひとつで、地域の祖先神である

「大元神」への信仰が元にあるのだそうです。

 

石見神楽の代名詞でもある

「ヤマタノオロチ」の物語では、

最後に大蛇はスサノオによって

切り殺されて終わりますが、

大元神楽の中心となる神事においては、

大蛇は最後まで厳粛に扱われ、

お祭りが終わると神社の境内にある

ご神木に丁寧に巻き付けられると聞きました。


荒神祭

2020-06-20 09:35:21 | 古代の出雲

<揖夜神社 いやじんじゃ>

 

実は、出雲地方を旅するにあたり、

隠れたテーマとして位置付けていたのが、

一帯の神社に祀られる

「ワラヘビ」の調査をすることでした。

とはいえ私などの知識と行動力では、

「民間信仰」の原初をひも解けるはずもなく、

ひたすら「ワラヘビコレクション」とでも題するべき、

ニッチな画像を増やすのみだったことを、

最初に断っておきたいと思います。

 

ちなみに、ワラヘビを用いる祭祀は、

出雲地方では「荒神祭」という名で呼ばれており、

この一帯では「ヘビ」のことを

「ジャ」と言うのが一般的なのだとか……。

稲刈り後の11月から12月にかけて、

氏子たちの手作りワラヘビが完成すると、

「祝い唄」を歌いながらご神木にワラヘビを巻きつけ、

大蛇の首の前に御幣を捧げるのだそうです。

 

地区によって、ワラヘビの型も

お祭りの手順も千差万別のようですが、

現在では複雑な「ヘビの頭」を制作できる

ベテランの作り手が少なくなり、

形を簡略化したものや石像で代替したものなど、

様々なワラヘビが存在していると

神社の宮司さんが話してくれました。


ワラヘビ祭礼

2020-06-19 09:31:30 | 古代の出雲

<阿太加夜神社 あだかやじんじゃ>

 

松江市内にあるホーランエンヤゆかりの場所、

阿太加夜神社の境内を探索している最中、

突如として謎のオブジェが

目に飛び込んでまいりました。

太いご神木(スダジイ)の根元に巻き付いた

ワラ製の大蛇が、通りすがる参拝者に

向かって「鎌首」をもたげるという、

何ともシュールな構図を取るその物体は、

隙間なく並び立つ無数の御幣によって取り囲まれ、

一見しただけで「タダ事ではない」と思わせる

異次元の存在感を放っております。

 

ちなみに、「ワラヘビ祭礼」

とでも呼ぶべきこれらの信仰は、

形を変えながら全国各地に存在しており、

特に西伯耆~東出雲にかけての一帯は、

「ワラヘビ天国」といっても過言でないほど、

独特のワラ細工信仰が

根付いている土地なのだとか……。

各地方や各地区によって、作り方・祀り方など

独自の決まりがあるといいますが、

こちらの阿太加夜神社のワラヘビは、

その大きさといい完成度といい、

他のワラヘビたちとは

別格の風格を漂わせていたのです。


混とんとした背景

2020-06-18 09:31:50 | 古代の出雲

<阿太加夜神社 あだかやじんじゃ>

 

松江市・阿太加夜神社のご祭神である

「阿太加夜奴志多岐喜比賣命

(あだかやぬしたききひめ)」は、

もともと出雲西部で奉斎されていた神であり、

出雲市多伎町に鎮座する多伎神社から

勧請したとの話があります。

 

『出雲国風土記』に登場する神々を、

すべて精査したわけではないのでわかりませんが、

こちらの「阿太加夜奴志多岐喜比賣命」しかり、

「国引き神話」の主人公である

「八束水臣津野命」しかり、

出雲西部(杵築)出身の神様を、

出雲東部(意宇)に引き入れるような

動きが起きていた可能性は否定できず、

古代の出雲国が決して「一枚岩」

ではなかった様子が伺えるのですね。

 

恐らくは、六所神社と朝山神社の

「神有祭」に関する由緒の件、

六所神社と阿太加夜神社の

「二重亀甲に有」の神紋の件など、

隣接する地域や同地域内の神社においても、

諸々の摩擦があったのでしょう。

出雲の混とんとした歴史の背景は読み取るには、

国津神と天津神という視点だけでなく、

杵築と意宇、あるいは同じ郷内の力関係も

同時に俯瞰する必要があるのかもしれません。


混交の名残

2020-06-17 09:28:54 | 古代の出雲

<阿太加夜神社 あだかやじんじゃ>

 

出雲近辺の神社を巡っておりますと、

「大国主神の子供」「大国主神の妻」

などと紹介されるご祭神が、

あちこちにお祀りされていることに気づきます。

 

こちらの阿太加夜神社もしかり、

ご祭神である「阿太加夜奴志多岐喜比賣命

(あだかやぬしたききひめ)」は、

出雲の地を守護する鎮守神であると同時に、

大国主神の御子神でもあったのだとか……。

 

また、阿太加夜神社の「あだかや」とは、

朝鮮半島の安羅伽耶(あらかや)にちなんだ名称であり、

「阿太加夜奴志多岐喜比賣命」は、伽耶国ゆかりの姫

(アメノワカヒコの妻である下照姫命という説も)

という意味を表す……などの話も耳にしました。

 

出雲を中心に活躍する「大国主神」という神は、

先祖であるスサノオの来日譚などから、

「渡来系」という説が有力視されておりますが、

個人的には「渡来人の系譜を持つ国津神」

といった表現が一番近いような気がいたします。

 

もしかすると、出雲の地に祀られる

「大国主神の家族たち」というのは、

スサノオを信仰する神筋の渡来人と、

日本に居住していた国津神家系の

人々との混交の名残なのかもしれません。


もうひとつの意宇の杜

2020-06-16 09:25:52 | 古代の出雲

<阿太加夜神社 あだかやじんじゃ>

 

ホーランエンヤの主催神社のひとつである、

松江市東出雲町出雲郷・阿太加夜神社

(あだかやじんじゃ)の社叢は、

「意宇の杜」の候補地とされる場所です。

 

先日ご紹介した出雲の国府跡(六所神社)は、

阿太加夜神社のそばを流れる意宇川の上流にあり、

こちらにも「意宇の杜」の伝承が伝わりますから、

このあたり一帯が奈良時代の出雲国の

中心地だったとみて間違いないのでしょう。

 

ちなみに、「出雲郷(あだかえ)」という珍しい地名は、

阿太加夜神社の「あだかや」が転訛した名称なのだとか……。

付近には、縄文時代や弥生時代の遺跡があるとのことですし、

古い時代から多くの人が集まる集落だった可能性が大です。

 

またこちらの神紋は、二重亀甲に有の文字が入ったもので、

出雲国造家とのつながりを伺わせる形なのですが、

なぜか六所神社の由緒にはそのことが記させておらず、

どことなく両社の間には微妙な

距離感があったことを匂わせますね。

 

もしかすると、「二重亀甲に有」という紋は、

出雲国造家の隠された謎にもつながる

「特殊な印」だったのかもしれません。