たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

大沢の賀茂神社

2016-10-31 10:13:24 | 東日本・三陸の神社

<気仙沼・賀茂神社 かもじんじゃ>

 

宮城県と岩手県の県境付近に、

気仙沼市唐桑町大沢という地域があります。

お隣の気仙沼市と合併するまでは、

唐桑町と呼ばれていた一帯ですが、

ここは古くから何度も津波に襲われた場所で、

今回の東日本大震災でも、180軒あったうちの

140軒の民家が被災し、犠牲者も多数出たそうです。

 

国道沿いに修復中の神社があるのを見つけたので、

車を止めてお参りしてみると、

そこは大沢地区の産土神である賀茂神社でした。

この神社は、今回巡ってきた神社の中でも、

特に海に近い低地に建てられていたため、

当然ながら社殿は流されてしまっただろうと思いきや、

何とか全壊は免れていたということを後で知りました。

 

ただ、巨大津波は神社の鳥居を押し流し、

社殿へと続く頑丈な階段や手すりは、

波の力で大きくへし折れてしまったそうです。

津波襲来の後に撮影された写真には、

瓦礫で埋め尽くされた境内と、

社殿の脇に車が突っ込んでいる様子が映っており、

この地区の被害状況を如実に物語っていました。


さらわれた町

2016-10-30 10:42:21 | 東日本・三陸の神社

<南三陸・歌津地区>

 

海のそばまで山が迫る南三陸の一帯では、

かなり標高のある場所にも、 人家が建てられているのですが、

巨大津波はそんな高所にある家々にまで 悠々と到達したそうです。

平野と異なり、水が「横」へと広がらない分、

大量の水は川などを遡上し、 「縦」の方向へと勢いを向けたのでしょう。

 

随所にう回路が続くアップダウンの激しい道を

山に向かって上り、一気に低地のほうへと下ると、

当たり前のように津波でさらわれた町があらわれます。

歌津の町(と思われる場所)に出た際も、

ふいに飛び込んできた景色を目にし、

この土地で起きた津波被害の大きさを一瞬で悟りました。

 

現在、歌津の市街地には、

プレハブの復興商店街が立ち並んでいます。

かつての繁栄を取り戻すべく立ち上がった人々を、

三嶋神社の神様が見守っているのかもしれません。


歌津の三嶋神社

2016-10-29 10:40:36 | 東日本・三陸の神社

<南三陸・三嶋神社 みしまじんじゃ>

 

南三陸町戸倉地区の氏神・五十鈴神社と同じように、

鳥居のあたりで奇跡的に津波の遡上が止まった神社が、

同じ南三陸町の北東「歌津」という地区にありました。

ちなみに南三陸町は、歌津町と志津川町が合併をして

出来上がった町で、現在の中心部である志津川地区からは、

いくつかの峠と集落を越えて歌津地区に向かいます。

 

歌津の町外れの高台には、三嶋神社という氏神があり、

東日本大震災の当日は多くの住民が避難してきました。

この地区を襲った津波の高さは約15m。

神社の山裾にあった社務所などは全滅し、

付近の建物や橋はすべて押し流され、

道路も遮断されてしまったと聞きます。


参拝という避難訓練

2016-10-28 10:38:00 | 東日本・三陸の神社

<南三陸・五十鈴神社 いすずじんじゃ>

 

三陸地方沿岸の山を眺めていますと、

木々の根元に近い部分の枝葉が、

ことごとく削ぎ取られていることに気づきます。

東日本大震災から5年以上の月日が経ち、

以前に比べれば、森の緑も増えているとはいえ、

幹の下半分が裸になった木々の姿は、

当時の記憶を忘れかけている私たちに、

津波の威力を無言で訴えているかのようです。

 

三陸地方の神社を巡っている最中、

「ほんのちょっとの高さの違い」が、

生死を分けたという話をよく耳にしました。

山頂にある神社の境内にいた人は助かり、

数m下の駐車場にいた人は犠牲になる…。

また、神社の参道を駆け上がった人は救われ、

数m隣の階段に向かった人は津波に流される…。

 

「神社が命を守ってくれた」かどうかはわかりませんが、

実際に「津波の浸水域の際に沿うように、

神社が建てられていた」という調査結果もありますし、

今後の災害への対応や、避難ルートを決める上で、

神社の存在はあながち無視できないのでしょう。

もしかすると「氏神への参拝」という行為そのものが、

イザというときの避難訓練へとつながるのかもしれませんね。


複雑な地形

2016-10-27 10:35:29 | 東日本・三陸の神社

<南三陸・五十鈴神社 いすずじんじゃ>

 

南三陸町戸倉地区にある五十鈴神社は、

東日本大震災による津波の被害から、

近隣の人々の命を救った場所のひとつです。

実際にその場に立ってみますと、

「本当にここまで津波が来たのだろうか…」

と疑問を感じるほど標高のある場所で、

同時にこの急な参道を、学校の児童や住民が、

必死に駆け上がってきた姿が思い浮かび、

何とも言えない気持ちが湧いてまいりました。

 

地元の人の話によりますと、津波が遡上してきたのは、

山の中腹にある鳥居のあたりまでだったそうですが、

すぐ下にある高台の住宅地では、

たくさんの犠牲者が出たと聞きます。

三陸地方特有の複雑な海岸線や、

海と川に挟まれるような地形が災いし、

神社の山をぐるっと取り囲むかのように、

四方八方から津波が押し寄せたようです。


浮き船の森

2016-10-26 10:32:43 | 東日本・三陸の神社

<南三陸・五十鈴神社 いすずじんじゃ>

 

東日本大震災による巨大津波が発生した際、

高台にあったたくさんの神社が、

住民や居合わせた人々の命を守りました。

もちろん、神社周辺の土地の状況によっては、

消失や損壊の被害を受けた場所もあるでしょう。

ただ、三陸の小さな神社を巡っている最中、

「津波から逃れたであろう神社」を、

想像以上にたくさん見かけたのも事実です。

 

南三陸町戸倉地区の氏神である、

五十鈴神社の森を目にしたとき、

まるでその一帯だけが、「浮き船」のごとく

周囲から浮かび上がっているように見えました。

森の中からかすかにのぞく神社の赤い鳥居は、

人々の行く先を示す救助船の舳のようでした。

神社に避難した方の話では、 津波の後に周囲を見回すと、

鎮守の森を残して、 あたり一面が大海原と化していたそうです。


ルールの変更

2016-10-25 10:26:59 | 自然災害・参拝マナー

<南三陸・戸倉小学校跡>

 

南三陸町にある戸倉小学校の児童たちは、

東日本大震災当日、近くにある神社の山に避難し、

その日学校にいた全員が命を取り留めました。

ただし直前まで、小学校のマニュアルでは、

「津波警報が出たら屋上に避難」

というルールが決められていたのだそうです。

 

実は、数日前から続く強い群発地震に、

危機感を抱いた戸倉小学校の教職員は、

地震発生の前日まで、最善の避難ルートを

繰り返し議論していたと聞きます。

 

校長先生自身、津波到達までの時間を考慮して、

屋上への避難を優先的に考えていたそうですが、

過去の巨大津波の言い伝えを叩き込まれてきた

地元出身のひとりの先生が

「山に逃げるべき」と主張したことにより、

屋上ではなく神社の高台への避難も、

選択肢のひとつとして考慮したのだとか。

 

そして巨大津波が襲来したそのとき、

想像をはるかに超える現実に直面した校長先生は、

とっさに「高台(山)への避難」を命じたのだそうです。


ある神社の一日

2016-10-24 11:00:04 | 東日本・三陸の神社

<南三陸・五十鈴神社 いすずじんじゃ>

 

東日本大震災の発生当日、大津波警報を聞いた

南三陸町の戸倉小学校の児童と職員たちは、

校長先生の指示に従い、小学校の裏手にある

五十鈴神社ふもとの高台へと避難しました。

高学年の子どもが低学年の子どもの手を取り、

先生方の鬼気迫る誘導の声に従って、

一目散に山を駆け上がったそうです。

 

全員が避難をし終え、

ラジオの津波襲来の知らせを聞いて海を見ると、

目に飛び込んできたのは、

校舎の屋上にまで達する巨大な水の塊でした。

そしてその巨大な水の塊は、

徐々に児童や住民らのいた高台へと迫り、

子どもたちはさらに高い場所にある

神社の境内へと移動せざるを得ませんでした。

 

すべての児童と職員の避難を見届けて、

校長先生が最後に移動を始めたときには、

すでに腰の高さにまで津波が達し、

何度も水と泥に足を取られながら、

必死に急斜面を這い上がったと聞きます。

幸い小山の中腹にある鳥居のあたりで、

津波の遡上が止まったため、境内に逃れた児童と、

いっしょに逃げた住民たちは助かりました。


神社が起こした出来事

2016-10-23 10:21:08 | 東日本・三陸の神社

<南三陸・五十鈴神社 いすずじんじゃ>

 

東日本大震災で甚大な被害を出した場所のひとつ、

南三陸町の中でも、特に高い津波に襲われた地域が、

町の南に位置する「戸倉」という地区です。

この地区には、戸倉小学校と戸倉中学校があり、

いずれも波の影響をまともに受けてしまいました。

 

特に、海岸のほど近くにある戸倉小学校は、

津波襲来の知らせとほぼ同時に、

三階建ての校舎が海の中に沈んだと聞きます。

もし子どもたちが校外へ避難せず、

校内や屋上に留まっていたとしたら、

犠牲者の数は計り知れなかったことでしょう。

 

子どもたちの命を救ったのは、

小学校の裏手にある小さな神社の小山でした。

地元の人でなければ知らないであろうその場所は、

赤い鳥居が目印の五十鈴神社という名前の氏神です。

 

あの日この神社には、戸倉小学校にいた児童や職員、

多くの近隣住民などが避難し一夜を明かしました。

今回聞くことができた震災当時の話の中でも、

とりわけ印象的だった内容のひとつが、

この五十鈴神社が「起こした」出来事です。


相反する感情

2016-10-22 10:18:21 | 自然災害・参拝マナー

<南三陸町・戸倉地区>

 

東日本大震災により発生した津波の威力は、

現代人の誰もが想像できないくらい、

すさまじい力を秘めていたようです。

翌日波が引いた後の南三陸町の写真を見ると、

そこに町があったとは思えないほど、

ありとあらゆる建物が破壊し尽くされていました。

 

すでに、壊れた建物のほとんどは取り壊され、

今では数棟の建造物を残すのみとなっていますが、

震災のモニュメント的存在にもなっている

町の防災庁舎に関しては、「保存か取り壊しか」で、

住民の意見が大きく割れているそうです。

 

これは南三陸町に限ったことではなく、

多くの被災地が抱えている問題だと聞きます。

「忘れないで欲しい」「忘れてしまいたい」

という相反するふたつの感情が、

最善の形で折り合うためには、

もう少し時間がかかるのかもしれません。


生と死の交差

2016-10-21 10:15:58 | 自然災害・参拝マナー

<南三陸町・志津川地区>

 

南三陸町の防災庁舎から、

ほど近い場所にある高野会館では、

震災当日、地元の老人クラブが主催する、

歌や踊りの発表会が開かれていたそうです。

大きな揺れが収まった後、

津波の襲来を予感した職員の方々が、

必死でお年寄りたちを説得して、

会館内にとどまらせたと聞きます。

 

一方、多くのお年寄りが命を救われた建物の

すぐ隣にある町立志津川病院では、

多数の患者さんやスタッフが亡くなりました。

ベッドごと波にさらわれる入院中の知人が、

助けを求めるように手を振っていた姿を、

目撃してしまった人もいたようです。

 

つい先ほどまで、当たり前のように言葉を交わし、

生の温もりをしっかりと感じていた相手が、

大きな波に飲まれ海に流されていく姿を、

どんな思いで見つめていたのでしょうか。

生き残った人たちの心を占めていたのは、

助かった安堵感よりも「助けられなかった後悔」

のほうが大きかったと聞きます。


最後の声

2016-10-20 10:10:55 | 自然災害・参拝マナー

<南三陸・防災庁舎 ぼうさいちょうしゃ>

 

今回の旅の中でも、とりわけ南三陸町では、

震災当時の話をたくさん伺うことができました。

ニュースでもたびたび報道されましたが、

津波に襲われる直前まで、防災無線を通じて

住民に避難を呼びかけていた女性は、

南三陸町に住んでおられた方です。

 

現地で聞いたところによりますと、

実際に最後の避難誘導をしたのは、

女性の上司にあたる男性で、

部下や同僚を屋上へと避難させたあとも、

ひとり放送室に残って、

津波襲来まで呼びかけを続けたのだそうです。

 

そしてその鬼気迫る声を、

高台の避難所で聞いていた人たちの中には、

男性のご家族もいらっしゃったと聞きます。

また、その他にも防災庁舎内には、

数十名の役場職員が業務を続けており、

残念ながら男性を含め、

未だに行方不明の方もおられます。


元の姿

2016-10-19 10:07:12 | 自然災害・参拝マナー

<南三陸町>

 

東日本大震災の津波被害により、

東日本の太平洋沿岸の多くの町が、

「元の姿」を失ってしまいました。

震災前の街の様子を知らない人間が、

どんなにイメージを膨らませてみても、

「その姿」を思い浮かべることはできません。

 

きっと、女川湾を抱く女川町も、

志津川湾に囲まれた南三陸町も、

リアス式海岸の美しい風景と、

豊富な海産物に恵まれた、

風光明媚な場所だったのでしょう。

 

残念ながら私のように、震災後に初めて

この地に足を踏み入れた人間にとっては、

目の前に広がる被災地の殺伐とした風景が、

旅の思い出として脳裏に焼き付けられます。

 

自然災害というのは、

その土地に住む人の記憶だけでなく、

訪れる外部の人間の印象までも、

書き換えてしまうのかもしれません。


何もない町

2016-10-18 14:06:50 | 自然災害・参拝マナー

<南三陸町・戸倉地区>

 

南三陸町という名称を聞きますと、

多くの人が思い浮かべるのが、

津波の威力により、骨組みだけを残して倒壊した

町の防災庁舎の姿ではないかと思います。

石巻と気仙沼の間に位置する南三陸町は、

最も大きかった戸倉地区の津波高が約20m、

犠牲者・行方不明者は合わせて800人を超え、

市街地がすべて更地になってしまうほど、

甚大な津波被害を受けた地域のひとつです。

 

石巻から南三陸町へは、国道45号線で一度内陸部に入り、

山を越えて海岸沿いへと向かうルートを取ったのですが、

海に近づき視界が開けると同時に見えてきたのは、

レールのない駅舎と、川にかかる壊れた橋げたでした。

遠くで動く重機の音やプレハブ商店の灯りが、

かろうじて人の気配を伝えており、

震災前の景色を知らないよそ者にとっては、

そこに町があったことすら想像できないほど、

何もない地面だけが延々と続いていました。


最後の拠り所

2016-10-17 10:21:33 | 東日本・三陸の神社

<女川・熊野神社 くまのじんじゃ>

 

女川の市街地が見渡せる女川町地域医療センターの高台には、

東日本大震災の当日、多くの住民が避難してきたと聞きます。

実際にその場に立ってあたりを見回してみると、

ここより高い土地は見当たらず、市街地にいた人たちにとって、

この場所が「最後の拠り所」的な役目を果たしたように感じました。

 

そんな市街地随一ともいえる高さの台地ですが、

巨大津波は海抜16mの高さにあるこの場所にまで迫り、

事の重大さに気づいた人たちは、さらに高い場所を目指して、

裏手にある熊野神社の階段を駆け上がったそうです。

 

残念ながら、地震による諸々の影響で、

住民たちの命を救った熊野神社は取り壊され、

今は一時的に他の場所に移されていると聞きます。

建物の裏手に回って神社の跡地を探してみると、

わずかに見える参道といくつかの灯篭だけが、

白い空に吸い込まれるように伸びていました。