たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

供養の旅

2018-05-14 09:08:34 | 阿波・忌部氏1

<八倉比売神社 やくらひめじんじゃ>

 

忌部氏という古代ユダヤ氏族を、

日本そして阿波へと導いたのは、

彼らの絶対神であるヤハウェであり、

スサノオだったのかもしれません。

忌部氏が立ち寄った場所は、

恐らく「スサノオ」と深く縁する地で、

その地にいたスサノオの子孫たちと、

「国譲り」の交渉を重ねる中で、

少なからず不協和音も生まれたのでしょう。

 

それまでスサノオが支配していた日本という国を、

ユダヤ由来の「天照太御神」の国に変えることは、

もともと同じ民族である双方の人々にとって、

どうしても避けられない未来への布石でした。

ただし、その過程においてたくさんの

「争いの火種」を作ってしまった結果、

残された因果も多かったのだと思われます。

 

神武一行と激しく争った長髄彦や、

名草戸畔と同じような立場の人物が、

全国各地の「国」に存在したのは確かです。

神社参拝や聖地巡礼というのは、

今なお無念を抱えた「神(祖先)」を思い出し、

静かに心を寄り添わせる供養の旅でもあるのですね。


天皇を守る氏族

2018-05-13 09:05:21 | 阿波・忌部氏1

<木屋平・三木家>

 

古代ユダヤの民である忌部氏という一族が、

阿波の地の一大勢力となるまでの軌跡を、

ひと言で説明するのは非常に困難です。

恐らく忌部氏と呼ばれる人々は、

数百年~千年以上の長い期間にわたり、

日本に上陸したイスラエル氏族のうち、

ごく初期に到来したグループだったのでしょう。

 

あるときは、北回りの大陸ルートを通り、

あるときは、南回りの海ルートを巡り、

その時折で立ち寄るコースを調整しつつ、

粟国の大宜都比売命や、長国の事代主命など、

多くの「国」との交渉を持ちながら、

全国各地に様々な文化・作物を

伝えて行ったのだと思います。

 

恐らく、その大きな目的のひとつは、

スサノオの国であった当時の日本を、

天照太御神の国へと変えることであり、

のちに日本の初代天皇となる神武天皇を、

ヤマトまで導くことだったのかもしれません。

神武東征の過程で登場する水先案内人は、

すべて忌部氏と呼ばれた人たちの末裔であり、

今なお天皇を陰でお守りしているようです。


複雑な立ち位置

2018-05-12 09:02:29 | 阿波・忌部氏1

<八桙神社 やほこじんじゃ>

 

阿波国から長国へと歩みを進める中で感じたのは、

忌部氏という一族の複雑な立ち位置でした。

恐らく忌部氏は、「かなり早い時期に、

日本へとやってきた古代イスラエル部族」

を示す集団名であり、海人族などの原日本人と、

後から到着した天孫系の渡来人などとの、

橋渡し役を担っていたのだと思われます。

ゆえに、忌部氏の中にはすでに、海人族など融合し、

先住民となっていた人々も多かったはずです。

 

また、海人族と括られる人々に関しても、

広大な海を生活の場として駆け回るうちに、

渡来人と姻戚関係を結んだ

「天津神系」のグループが派生し、

土着化した「国津神系」の海人族との間で、

軋轢が発生したこともあったのでしょう。

ゆえに、忌部氏という一族が、

「山の神」を奉斎すると当時に、

「海の神」を崇めていた形跡を残すのは、

決して矛盾した話ではないのかもしれません。


各地のスサノオ

2018-05-11 09:01:00 | 阿波・忌部氏1

<阿南市・長生町>

 

古代、大宜都比売命が治める粟国と、

大国主命(事代主命)が治める長国は、

「スサノオ」を共通の神として祀る

同族的な間柄だったと思われます。

その後、同じ「ユダヤのスサノオ」

を信奉する渡来系の忌部氏が、

この地にやってきたことにより、

粟国の大宜都比売命が排除され、

長国の事代主命に関しては、

忌部氏に恭順する道を選びました。

 

長国が治めていた勢力範囲内に、

忌部氏の痕跡がほぼ見当たらないのは、

忌部氏に実権を奪われたあとも、

事代主命に対し、ある程度の政治的関与を

認めていたからなのでしょう。

もしかすると、長国の長が

「男性」であったがゆえに、

殺されずに済んだのかもしれません。

 

恐らく、忌部氏が成し遂げたかったのは、

日本と言う国をひとつにまとめるための

基盤づくりだったと思われます。

そのためにまずは「各地のスサノオ」を、

ひとつの場所に隔離する必要があったのですね。


複雑な事情

2018-05-10 09:55:15 | 阿波・忌部氏1

<八桙神社 やほこじんじゃ>

 

古事記の一節によりますと、

粟国の神・大宜都比売命は、

スサノオへの無礼をとがめられ、

身体を切り刻まれ殺されてしまいます。

もし仮に、その神話が実話だったとすれば、

「スサノオ」が比喩する人物とは、

いったい誰のことを指し示しているのでしょうか……。

 

スサノオの子孫でもある長国の事代主命なのか、

それとも海の彼方からやってきた、

ヤハウェ(スサノオ)を奉斎する忌部氏なのか、

いずれにせよ、剣山の神(スサノオ)

に仕えていた大宜都比売命は、同じ神を

崇めていた人々により殺されてしまうのです。

 

阿波の一帯の歴史を突き詰めていくと、

否が応でも「スサノオ」という存在に行き当たります。

本来なら、スサノオを祀る「同士」であるはずの人々が、

ときには敵になり、ときには味方になりながら、

様々な歴史を積み重ねてきた背景には、

この時代ならではの複雑な事情

があったのかもしれません。


系譜の変更

2018-05-09 09:47:29 | 阿波・忌部氏1

<八桙神社 やほこじんじゃ>

 

事代主命(が比喩する長国の首長)は、

もともと忌部氏が上陸する以前、

四国の海岸沿いに居住していた

海人族系の民だった可能性があります。

「粟国」「長国」という二つの国が、

「粟国」へと統一される経緯の中で、

長国の神であった事代主命も、

忌部氏の系譜に加わったのでしょう。

そして、粟国の神・大宜都比売命と、

長国の神・事代主命(スサノオ)という、

土着の夫婦神の名に「八」の文字を加え、

渡来系の神である証にしたのかもしれません。

 

ちなみに、「矢」を掌る阿波忌部氏は、

自らが管轄する神社の名称に、

「矢」の文字を当てていた形跡が見られます。

その後、忌部氏が表舞台から消えるに従い、

「矢」が「八」へと変わって行ったようです。

神社の名称を「八」に変更した背景には、

恐らく政治的な思惑があったのでしょう。

もともと、八幡神社には応神天皇ではなく、

「比売神」が祀られていたと言われるように、

古い日本の神々をご祭神とする神社が、

「渡来系の神々」に入れ替わった経緯が、

この「八」の字から伝わって来るのですね。


忌部と長国

2018-05-08 09:26:21 | 阿波・忌部氏1

<八桙神社 やほこじんじゃ>

 

出雲の神とも大和の神とも言われる事代主命は、

長国造の祖神・観松比古命の父とされますが、

一部では阿波忌部氏の祖神・天日鷲命

の兄弟神という話も出ています。

また、八桙神社の境内社である

奥山神社のご祭神・少名彦命に関しても、

天日鷲命と同一視する向きがあるそうです。

 

つまり、それらの説を総合しますと、

大国主命の系譜につながる長国と、

天日鷲命の系譜につながる粟国とが、

「ごく近しい関係」にあり、お互いの神を

自らの家系図に加えていたことがわかります。

恐らく、隣国同士というだけでなく、

実際に親族関係を築いていたのかもしれません。


「八」の意図

2018-05-07 09:23:40 | 阿波・忌部氏1

<八桙神社 やほこじんじゃ>

 

八桙神社に祀られる八千矛神(やちほこのかみ)は、

「多くの武器を持つ神」という意味だそうです。

剣山周辺で嫌というほど目にした「八」の文字ですが、

こちらも八を「矢」あるいは「ヤ(ユダヤの神)」

として置き換えても、不自然ではないような気がします。

 

ちなみに、阿南市の八桙神社をはじめ、

国府町の八倉比売神社や神山町の上一宮大粟神社など、

主に剣山東側に鎮座する神社を参拝した際、

「櫓型」の石垣を多く見かけました。

もしかすると、「矢」や「八」のつく神社というのは、

古代イスラエル文化の影響が強いのかもしれません。

 

一説によれば、長国に縁ある事代主命という神様には、

積羽「八」重事代主神という別名があり、

粟国の神・大宜都比売命と夫婦でもあると言われています。

大宜都比売命の別名も、天石門別「八」倉比売命ですし、

事代主命と大宜都比売命に「八」を加えた経緯には、

何らかの深い意図が秘められているのでしょうか……。


長の首長

2018-05-06 09:22:10 | 阿波・忌部氏1

<八桙神社 やほこじんじゃ>

 

「長(ナガ/ナカ)」という言葉で思い出すのは、

神武一行と最後まで争った長髄彦という存在です。

一説によれば、長国造の祖神・観松比古命は、

事代主神(父は大国主命/大己貴命)の子とされ、

また、長髄彦(ナガスネヒコ)も、

同じく事代主神の子と伝えられています。

「●●神の子」「●●神の兄弟」という伝承を、

そのまま鵜呑みにはできませんが、

長髄彦が長国を率いた首長(観松比古命)

だった可能性も否定できないのでしょう。

 

長髄彦は海人族との縁が深い人物ゆえ、

粟国系(忌部氏)の海人族と、

長国系(長髄彦とその祖先)の海人族が、

この地の海の覇権を巡って、

対峙していた歴史があるのかもしれません。

ちなみにですが、以前皇太子殿下が

この八桙神社を訪れたという話を聞きました。

奈良の大神神社をはじめ、大己貴命を

お祀りする神社は多々あるにも関わらず、

なぜこのような四国の小さな神社に

立ち寄ったのか非常に意味深です。


海と鉱山

2018-05-05 09:14:09 | 阿波・忌部氏1

<阿南市・長生町>

 

長国という国が存在していた時代、

八鉾山の一帯は海に通じる河口に当たり、

見渡す限り広大な水辺だったと聞きます。

現在の海岸線よりさらに奥のほうまで、

湾が入り込んでいたそうですから、

内陸部の佐那河内村のあたりにまで、

長国の勢力が及んでいたという話も、

あながち不可解な話ではないかもしれません。

 

大物主神、大国主神、八千矛神、大黒様……など、

様々な名称を持つ八桙神社のご祭神・大己貴命は、

「鉄」や「武器」を司る神と言われていますが、

八桙神社の鎮座する場所が、

もともと海に突き出した岬だったことを考えると、

「海神」としての側面も持っていたのでしょう。

 

ちなみに、長国の「長」は、

龍や蛇などの水神を表す

「ナーガ」が語源だとされています。

名方郡(「なか」たぐん)

長生町(「なが」いけちょう)

といった近隣の地名も、恐らくは

「ナガ」が転訛した名称なのかもしれません。


朝廷との距離

2018-05-04 09:11:33 | 阿波・忌部氏1

<八桙神社 やほこじんじゃ>

 

古代、吉野川沿いに広がる「阿波国」とともに、

一大勢力を誇っていた「長国」の本拠地は、

現在の阿南市のあたりだったと言われています

(名東郡・佐那河内村など諸説あり)。

阿南市の北部を流れる那賀川は、

長国という名の由来にもなった川でして、

那賀川の中流域および下流域では、

忌部氏と関わる文化や言い伝えが

あまり見当たらないことを考えると、

那賀川の流域のほとんどは、

長国の勢力範囲に入っていたのでしょう。

 

上一宮大粟神社からおよそ一時間弱。

阿南市長生町宮内という場所に、

大己貴命をご祭神とする八桙神社がありました。

八桙神社のご神体山である八鉾山周辺には、

日本で唯一の3世紀中ごろ(卑弥呼の時代)

の水銀採取鉱山である若杉山遺跡をはじめ、

古代豪族の古墳が複数発掘されております。

この近辺で見つかった古墳の造成年代を見ると、

粟国がヤマト王権と早くから手を結んでいた一方で、

長国が中央への帰順を拒んでいた様子が伺えるのです。


忌部以前の神

2018-05-03 09:10:04 | 阿波・忌部氏1

<阿南市・長生町>

 

古代、徳島は「北の粟国、南の長国」という、

二つの国に分けられていたようですが、

粟国と長国が「粟国」として統一されるまで、

「長国」は独自の経済・文化圏を持つ国でした。

恐らく、忌部氏がこの地に入る以前は、

さらにいくつかの「国」が存在しており、

お互いの文化を尊重し合いながら、

緩やかに共存していたものと思われます。

 

数々の繁栄の歴史を残す「粟国」に比べると、

大麻比古神社のような一の宮も存在せず、

忌部につながる伝承も少ない「長国」には、

どことなく地味な印象が付きまとうもの。

しかし、一説によりますとこの長国は、

粟国よりも古い歴史を持つ国であり、

「忌部以前の神」を祀っていたのだとか。

そんな長国の中心地と言われる場所に、

ある興味深い神社が鎮座していました。


長国

2018-05-02 09:06:11 | 阿波・忌部氏1

<名東郡・佐那河内村>

 

瀬戸内海や紀伊水道をはじめとする、

広大な「海原」を管理した

忌部氏(および安曇氏)ですが、

阿波国や徳島全体を網羅していたかと言えば、

決してそうではなかったようです。

実は、上一宮大粟神社のある神山町の東側、

名東郡・佐那河内村のあたりは、

古代「長国(ながのくに)」と呼ばれ、

粟国とは異なる首長が治めた国でした。

 

「長国」のエリアは想像以上に広大で、

所々で忌部氏との接点は見られるものの、

まるで忌部族の侵入を拒むかのように、

「他系統の神社」が寄り集まっています。

ここまで主に、剣山北側の山間部を巡りながら、

忌部氏や阿波の神々について考察してきましたが、

「剣山の南側」にも足を運んでみることで、

忌部氏の全容がさらに明確になるかもしれません。


海人族の名残

2018-05-01 09:03:00 | 阿波・忌部氏1

<船盡比賣神社 ふなはてひめじんじゃ>

 

旧名方郡のあたりというのは、

忌部氏の本拠地のひとつであると同時に、

忌部氏の海洋民族としての性質を担う、

「阿曇氏」の拠点だったと言われています。

海人族の代表格でもある阿曇氏は、

忌部氏と連携しながら、

その優れた航海術と豊富な情報力を武器に、

勢力を拡大して行ったのでしょう。

 

ちなみに、天鳥船神をご祭神として祀る、

船盡神社(と船盡比賣神社)には、

古代の神代文字が記された

二本の幟が残存するそうです。

また、船盡比賣神社の境内の隅に目をやると、

卵型の丸い石が挟まれた石柱があり、

一見何の変哲もない住宅街の一角で、

奇妙な存在感を醸し出していました。


天翔ける神

2018-04-30 09:53:57 | 阿波・忌部氏1

<船盡神社 ふなはてじんじゃ>

 

神山町阿野字歯ノ辻というユニークな地名の場所に、

船盡神社という氏神が鎮座していました。

鮎喰川を挟んだ対岸には船盡比賣神社が、

そして件の杉尾神社のうちの一社も、

すぐ近くにあると聞きます。

ちなみに、船盡神社および船盡比賣神社の祭神は、

天鳥船神(あめのとりふねのかみ)で、

一説によると大宜都比売命の兄弟神なのだとか。

 

海からだいぶ離れた内陸部の神社に、

「船」の名がつけられているのも、

何とも不思議な気がいたしますが、

昔はこのあたりに、船の終着場があったそうです。

古代、大陸から阿波へとたどり着いた渡来人は、

海から川を遡りこの地を目指したのでしょう。

人々は、木の船を巧みに操る異国の民の姿に、

「天翔ける神」を重ねたのかもしれません。