たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

国造神社

2016-06-21 10:55:13 | 西日本の神社

<国造神社 こくぞうじんじゃ>

 

阿蘇神社の北に「国造神社(こくぞうじんじゃ)」

という古社があります。こちらの神社は、

阿蘇神社の北宮とも呼ばれ、境内にある鯰宮には、

阿蘇神社の神である健磐龍命によって退治された、

阿蘇谷の大ナマズの御霊が祀られているそうです。

 

一般的な知名度は低い国造神社ですが、

地元の人たちの間では、

「ここが本当の阿蘇神社」といわれるほど、

古くから崇敬されている神社でして、

以前、ナマズの研究者としても知られる、

秋篠宮殿下も参拝に訪れたのだとか。

 

阿蘇神社という結界を通じて封印されていたのは、

国造神社のナマズの御霊であり土着の火山の神でした。

鹿島神宮で起こった鳥居や本殿の異変と同様、

阿蘇神社の建物が倒壊したことにより、

全国各地で眠っていた「ナマズたち」が、

その封印を解かれたのかもしれません。


阿蘇の主

2016-06-19 10:48:12 | 西日本の神社

<阿蘇神社 あそじんじゃ>

 

鹿島神宮の「ナマズ」を調べていて思い出したのは、

熊本大地震で甚大な被害に見舞われた阿蘇のことでした。

実は熊本県内にはナマズに関する伝説がたくさんあり、

「ナマズ神社」と呼ばれるお社も数多く存在するのだとか。

先の地震で楼門や拝殿が倒壊した阿蘇神社も、

ナマズに関する伝承が残る場所のひとつで、

阿蘇神社の宮司家である阿蘇氏のトーテム

(シンボル的な動物)は「ナマズ」です。

 

伝説によりますと、阿蘇神社のご祭神である

健磐龍命(たけいわたつのみこと)が、

農地開拓のために阿蘇の外輪山を蹴破ったところ、

阿蘇谷の湖水から湖の主である大ナマズが飛び出し、

流れをせき止めて邪魔をしたため、退治したのだそうです。

大ナマズはそのまま川を下り、上益城の村に流れ着きました。

「益城」といえば、先日発生した巨大地震の震源地ですね。

益城町の隣の嘉島町には、今も鯰という地名が残っています。


海の神社

2016-04-23 10:32:32 | 西日本の神社

<青島神社 あおしまじんじゃ>

 

宮崎市の南に位置する青島という小さな島に、

青島神社という神社があります。

ご祭神は彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)と、

その妃神である豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、

そして塩筒大神(しおづつのおおかみ)という、

いずれも山幸海幸神話に登場する神様で、

この島は江戸時代まで一般人が立ち入ることが許されない霊域でした。

 

日本の海際に点在する神社というのは、

「海の災害」から国土を守るために、

日々神事を執り行わなければいけない大切な場所です。

これから懸念される南海トラフ大地震や、

未だ継続中の東北から千葉沖の地震等を防ぐためにも、

山の神と同様、全国の海の神社の役目が大きくなっているのでしょう。


阿蘇山

2016-04-19 14:11:41 | 西日本の神社

<阿蘇山 あそさん>

 

数年前、阿蘇山の周りを車で一周したことがあります。

もともと阿蘇山に立ち寄る予定はなかったのですが、

都合で大分~熊本~宮崎を何度も往復することになり、

連日阿蘇山周辺を行ったり来たりしながら、

最終的に山頂の火口まで登りました。

阿蘇山の火口では、ガスの濃度が高まると、

すぐさま退避命令が出され、

火口付近から離れなければなりません。

その際感じた、強烈な息苦しさは、

今でも「火山の脅威」として記憶に染みついています。

 

実は阿蘇山という山は、富士山を凌ぐ力を秘めた場所で、

富士山のパワーを1とすると、阿蘇山はその数百倍だとか。

過去には、噴火に伴う火砕流の発生により、

九州から山口県にかけてのエリアが、

ほとんど壊滅した事例もあるそうです。

古来より続く山への信仰、そして神を祀る神社の存在は、

こうした災害を起こさないための布石でして、

決して人間が我欲を願う場所ではありません。

阿蘇神社の縛りが外れた今、

私たちはこれまで以上に、

自然への畏怖を忘れてはいけないのでしょう。


四つの祓い

2016-04-18 15:13:15 | 西日本の神社

<阿蘇神社 あそじんじゃ>

 

阿蘇山の「アソ」という単語は、

アイヌ語で火山を意味する言葉といわれ、

浅間山の「アサ」と同じ語源を持つそうです。

富士山の近くには、多くの「浅間」神社があり、

また伊勢市内にも「朝熊(あさま)山」という

伊勢神宮とも縁の深い場所があります。

熊本の「クマ」は「神」を示す言葉ですから、

これらの意味を重ね合わせると、

まさに「火山の神様がいる場所」が、

熊本県の阿蘇だといえるのですね。

 

火山の神様を祀る阿蘇神社が崩壊したのは、

私たちが想像する以上に深刻な状況です。

昨日は朝から強風が吹き荒れ、

全国的に「風の祓い」が起きましたが、

今回クマのアソの地で発生した「地の祓い」が、

「火の祓い」へとつながる可能性もあり、

また、これから雨の季節が近づくにつれ、

例年以上の「水の祓い」も起こるでしょう。

 

現代人や現実主義者たちが、

どんな屁理屈を言おうとも、

自然や地域の神社を守ることが、

私たちの守護につながります。

地震の連鎖と全国の火山の神を鎮めるためにも、

日本人ひとりひとりの自然への敬意が必要です。


自然の意思

2016-04-17 15:11:36 | 西日本の神社

<阿蘇神社 あそじんじゃ>

 

数年前、阿蘇神社を訪れた際に感じたのは、

境内を取り巻く圧倒的な「大きさ」でした。

重厚な造りの楼門や太い注連縄、

絶え間なく吹き出る手水舎の水など、

境内には気の勢いがみなぎっており、

旅の間に何度も訪れた覚えがあります。

とにかくすべてが骨太の力を感じさせる、

一の宮らしい雰囲気の神社であったがゆえに、

今回の被害にはたいへん衝撃を受けました。

 

ちなみに、阿蘇神社に祀られているのは、

阿蘇大神と呼ばれる阿蘇山の神様で、

古くから阿蘇地方の大自然を支配する

「山の神」「火の神」をお祀りした場所です。

少々オカルト的な見方をするなら、今回の地震により、

阿蘇山を鎮めるための結界が崩れたともいえるわけで、

今後は火山噴火への警戒は避けられないでしょう。

 

東日本大震災が発生してからこの5年間、

日本人の姿を見続けてきた結果、

神々はひとつの結論を出したのだと思います。

これからは誰の目にもはっきりとわかるように、

自然の意思があらわれるのかもしれません。


神様の答え

2016-04-16 20:40:40 | 西日本の神社

<阿蘇神社 あそじんじゃ>

 

昨日の夜中に発生したM7.3の大地震により、

阿蘇神社の楼門や拝殿が倒壊したそうです。

 

阿蘇神社といえば、肥後国の一の宮として、

全国的にも知られる大きな神社ですが、

今朝のニュース映像を見たときは、

あの威風堂々とした佇まいの社殿群が、

これほどまでに激しく崩壊するものなのかと、

自分自身の目を疑いました。

 

ただ、きっとこれが今の人間に対する、

「神様の答え」なのかもしれません。

阿蘇神社という、全国でも指折りの

古い歴史を持つ神社が倒壊した意味を、

自然への畏怖とともに考えてみるつもりです。


紀氏

2016-03-27 10:33:11 | 西日本の神社

<國懸神宮 くにかかすじんぐう>

 

日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう) という、

二つのお宮の総称である日前宮(にちぜんぐう)は、

代々天道根命の末裔である紀氏(きうじ・きし)により奉祀されてきました。

紀氏は畿内全域のみならず、西日本一帯に勢力を持っていた豪族で、

神話の世界にまで歴史を遡れる家系は、全国的にも数えるほどです。

 

紀氏には二つの系統があり、 ひとつは大和朝廷成立後、

公家として活躍した紀氏。 「土佐日記」の著者・紀貫之をはじめ、

古くは武内宿禰(たけのうちのすくね)なども、

母親が公家紀氏の出身であったといわれています。

 

もうひとつは、神武天皇の時代から

紀伊国造を務めていた在地豪族の紀氏。

名草を本拠地とし、日前・国懸神宮 の神官を務めている由緒ある家系で、

豊鍬入姫命も紀伊国造家の血筋を引いているそうです。


石凝姥命

2016-03-26 10:29:23 | 西日本の神社

<日前神宮 ひのくまじんぐう>

 

記紀の天岩戸隠れの話の中で、

天照太御神を岩戸から誘い出すための鏡を鋳造したのは、

石凝姥命(いしこりどめのみこと)という神様です。

天児屋命(あめのこやね)、太玉命(ふとだま)、

天鈿女命(あめのうずめ)、玉祖命(たまのおや)と共に、

ニニギの天孫降臨につき従い、日本の国土に降り立った神様で、

日前宮のご神体の鏡は、そのとき石凝姥命が作製したものだそう。

 

石凝姥命という神様の名前を聞いて浮かぶのが、

戸畔の語源のひとつとされる 「姥(とめ)」という言葉なのですが、

日本書記の一書で石凝姥命は、

石凝戸辺(いしこり「とべ」) とも表記されています。

もしかすると石凝姥命は、 名草戸畔や丹敷戸畔などと同様、

海人族と深い関わりを持つ存在だったのかもしれません。


ふたつの鏡

2016-03-25 10:22:32 | 西日本の神社

<日前宮 にちぜんぐう>

 

紀氏の祖神とされる

天道根命(あめのみちねのみこと)は、

ニニギ一行の天孫降臨に先立ち、

饒速日尊(にぎはやひのみこと)とともに、

地上(日本の国土)に降り立ちました。

この手にしていたのが、

毛見の濱宮から日前宮へと遷座された

日像鏡、日矛鏡だったといわれています。

 

こちらの神鏡は、

記紀の天岩戸隠れの場面で造られた、

3つの鏡のうちのふたつ。*諸説あり

最後に完成した鏡(のちの八咫鏡)に比べて、

少々出来が悪かったなどの理由から、

伊勢神宮のご神体にはなりませんでしたが、

日の神(アマテラス)の前霊(さきみたま) として、

日前宮で手厚くお祀りされています。


名草との因縁

2016-03-24 11:20:45 | 西日本の神社

<濱宮 はまのみや>

 

戸畔の血筋の女性である豊鍬入姫命は、

名草戸畔と同じように、神の声を聞き伝える

卑弥呼・シャーマンとしての力が優れた人物でした。

天皇や天皇家が積極的に、

戸畔の家系の子女と婚姻関係を結んだのも、

戸畔、つまり海人族の巫女としての能力が、

国家平定のために必要不可欠だったからなのでしょう。

 

紀伊国の前に訪れた丹波国しかり、

紀伊国の後に訪れた吉備国しかり、

豊鍬入姫命が選んだ地はすべて、

海人族と所縁のある土地ばかりです。

豊鍬入姫命が紀伊国を目的地に選んだ理由には、

名草戸畔との因縁を解消し、

名草の神と和解する狙いもあったのかもしれません。


心安らぐ場所

2016-03-23 12:51:44 | 西日本の神社

<濱宮 はまのみや>

 

濱宮で天照太御神とともにお祀りされていたのが、

天道根命(あまのみちねのみこと)により奉安された、

日像鏡(ひがたのかがみ)と日矛鏡(ひぼこのかがみ)でした。

しかし、豊鍬入姫命が次の目的地である吉備に向かったのち、

二柱の神は日前宮(日前神社・国懸神社)へと遷座されます。

 

戸畔の血を引く豊鍬入姫命にとって、

紀伊国は自分の故郷ともいえる場所でした。

大海原を明るく照らす太陽や

懐かしい先祖の眠る山々を遥拝しながら過ごす日々は、

まるで産土神の懐に抱かれたような、

心安らぐ時間だったのでしょう。

 

【天道根命とは】

紀伊国造家を始めとする紀氏の祖神


濱宮

2016-03-22 11:15:41 | 西日本の神社

<濱宮 はまのみや>

 

戸畔と称される女性首長の中には、

荒河戸畔(あらかわとべ)のように、

天皇家と姻戚関係を結ぶケースも少なくなかったようです。

荒河戸畔の子女は崇神天皇の妃となり、

のちに上毛野氏・下毛野氏の祖となる豊城入彦命や、

倭姫に先駆けて巡幸の旅に出た豊鍬入姫命を生みました。

 

毛見の海岸沿いにある濱宮(はまのみや)は、

「奈久佐浜宮(なぐさのはまのみや)」とも呼ばれ、

豊鍬入姫命が天照太御神の御霊を納める土地として選んだ

元伊勢のひとつでもあります。

濱宮は日前宮(日前神社・国懸神社)の

元宮だったともいわれる場所でして、

主祭神として祀られているのは天照太御神です。


国津神への畏れ

2016-03-07 10:51:20 | 西日本の神社

<竈山神社 かまやまじんじゃ>

 

もともと竈山神社にお祀りされていたのは、

地元の地主神だったといわれております。

現在その地主神は、竈山神社の境外摂社である

静火神社に祀られているそうです。

先日ご紹介した伊太祁曽神社と同じように、

こちらでも祭神・祭祀場の遷座が行われたのですね。

 

神武東征というのは、聖地を支配下に置くことで、

その土地の神の力を味方につける過程でもあり、

先住民の抵抗が大きければ大きいほど、

本来祀られていた神(地主神・国津神)の存在を、

畏れ隠さなければならなかったのでしょう。

 

名草周辺の歴史に触れていますと、

国津神(先住民・縄文人・海人族)の力が、

いかに侮れないものだったのか…、

海の向こうからやってきた天孫族や天津神が、

いかに国津神を畏れたのか…がわかります。


相反する物語

2016-03-06 10:47:59 | 西日本の神社

<竈山神社 かまやまじんじゃ>

 

長髄彦(ながすねひこ)と争う中で、

大きな傷を負った五瀬命(いつせのみこと)は、

「私は、日神の子孫であるにも拘わらず、

太陽(東)を向いて敵と戦ってしまった。

これは天道に逆らう行為である。

今度は敵の背後から西に向かって攻めよう」と決断し、

神武軍は紀伊半島をぐるっと回りこんで、

熊野からヤマトに乗り込むことを決めたのだとか。

 

一方、名草では「神武軍は戦いに敗れたため、

仕方なく熊野ルートに変更した」という話が伝わります。

どちらが正しい説かはわかりませんが、

「6月23日、軍、名草邑(むら)に至る。

則ち名草戸畔という者を誅す」

という史書の短い一節だけ取り上げても、

これだけの相反する背景が隠されているのですね。