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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

事実の封印

2016-01-20 11:22:00 | 奈良・京都の神社

<天橋立 あまのはしだて>

 

豊鍬入姫命は、最初の巡幸地である

籠神社での慰霊の旅を終えたあと、

すぐには次の目的地に向かわず、

一度大和の国へと戻られました。

もしかすると、豊受大御神のご分霊を、

なるべく早く皇居の近くに、

お連れする必要があったからなのでしょう。

 

豊鍬入姫命から倭姫命へと引き継がれた

「草薙神剣(豊受大御神)」の御魂は、

巡幸の旅に最後に伊勢の地へ導かれ、

のちに雄略天皇の計らいにより、

正式に外宮に鎮座することになりました。

 

ある説によりますと、籠神社の一帯は、

古代文明の中心地でもあったそうです。

豊受大御神が、丹後の国から

伊勢の国へとお移りになられた今、

籠神社という国津神と海人族の聖域は、

古代の事実を封印したまま、

次の文明の始まりを、

静かに見守っているのかもしれません。


天橋立

2016-01-19 11:14:43 | 奈良・京都の神社

<天橋立 あまのはしだて>

 

豊鍬入姫命が真っ先に旅の目的地に選んだ籠神社には、

他の場所に先んじて「慰霊」しなければならない、

古い古い国津神の御魂が鎮まっていました。

これから始まる果てしない道中を考えると、

どうしてもその神様の許しを得て、

さらにその神様の力を借りなければ、

目的は達成できなかったのでしょう。

 

実は、豊鍬入姫命と倭姫命の巡幸の旅には、

天照太御神の御魂を宿す八咫の鏡だけではなく、

倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)が宿る、

草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)も同行していました。

最初に草薙神剣を任された渟名城入姫命が、

そのご神気にあたり体が弱ってしまったため、

豊鍬入姫命がご神剣を引き取ったのだそうです。

 

倭大国魂神は、国常立太神(くにとこたちおおかみ) とも呼ばれ、

皇祖が天孫降臨をする以前から、

この国に鎮まっていた日本国土の神様(国津神)。

籠神社では、豊受大御神という名でお祀りされています。

海人族(先住民族)の血を引く皇女に託されたのは、

ただ単に、天照太御神の鎮座地を探すお役目ではなく、

天津神と国津神との橋渡し役(天橋立)だったのですね。


豊受大御神

2016-01-18 11:16:38 | 奈良・京都の神社

<真名井神社 まないじんじゃ>

 

伊勢や皇室とのつながりが強調される籠神社ですが、

その昔は海人族が信仰していた氏神神社であり、

さらに古くは国津神をお祀りする場所だったともいわれています。

つまり、持統天皇により伊勢神宮が整備される前から、

籠神社の原型は存在し、そこでは彦火明命ではなく、

豊受大御神と呼ばれる国津神(元初の神)を、

お祀りしていた可能性が高いのですね。

 

豊受大御神(とようけのおおみかみ)というご神名は、

神様を丹後から伊勢にお招きする際に、

諸々の理由で便宜的に付けられた名称です。

天照太御神(内宮)の力を維持するために、

どうしてもこの「豊受大御神」を

伊勢の地にお連れしなければならないということが、

外宮を創祀した雄略天皇にはわかっていたのでしょう。


龍宮伝説

2016-01-14 11:13:22 | 奈良・京都の神社

<真名井神社 まないじんじゃ>

 

社伝によりますと、籠神社という名前は、

ご祭神である彦火明命が籠船に乗って、

龍宮に行かれた故事にちなむ名称であり、

「籠」を「コ」と発音した事から、

「コノジンジャ」と読むようになったそうです。

籠目紋の六角形は、亀の甲羅の形ともいわれ、

丹後半島一帯には浦島太郎の伝説も残っています。

 

今でこそ、彦火明命という天孫系の神様を、

主祭神と定めているこちらの神社ですが、

その境内には、海人族が信仰していた

蛇神(海蛇・龍)をお祀りしていた形跡もあり、

籠神社の奥宮・真名井神社の入り口では、

豊受大御神のお使い(眷属神)である

狛犬ならぬ狛龍が参拝者を出迎えてくれます。


元初の神

2016-01-12 11:55:53 | 奈良・京都の神社

<真名井神社 まないじんじゃ>

 

【真名井神社】

彦火明命が丹後の地に降臨され、

真名井神社に元初の神・豊受大御神をお祀りされた。

天のヨサヅラ(ひょうたん)に、

天の真名井の水を入れてお供えされたので、

この宮をヨサの宮(吉佐宮)という。

 

【豊受大御神】

天御中主神・国常立尊とも呼ばれ、

その御顕現の神を倉稲魂命(稲荷大神)という。

天御中主神は宇宙根源の大元霊神であり、

五穀農耕の祖神、開運厄除、

衣食住守護、 諸業繁栄を司どられ、

水の徳顕著で生命を守られる。

 

籠神社のホームページでは、

真名井神社の縁起をこのように説明しています。

* 加筆・修正あり

 

今でこそ外宮の豊受大御神は

「天照太御神の食事を司るお食事係」

のような立場になっていますが、

籠神社の縁起の中で豊受大御神は、

「元初の神」と明言されています。

 

宇宙を創造したとされる元初の神が、

なぜ伊勢の地では御饌津神(みけつかみ)

として扱われているのか…。

豊受大御神を伊勢に招き、外宮を創祀した経緯には、

史実には載らない大きな謎が隠されているようです。


真名井神社

2016-01-11 11:11:31 | 奈良・京都の神社

<真名井神社 まないじんじゃ>

 

籠神社にお祀りされている主祭神は、

彦火明命(ひこほあかりのみこと)、

別名・天火明命(あめのほあかり)と呼ばれる神様です。

 

天照太御神の孫神である天火明命は

尾張氏、津守氏、海部氏など、

主に海人族系氏族の先祖神で、

その子孫は「天孫族」と呼ばれます。

 

また、天火明命は、上賀茂神社のご祭神、

賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)と同神であるとか、

別の古伝では、神武東征の際に活躍した、

饒速日命(にぎはやひのみこと)だと噂されるなど、

様々な形で天津神(皇室)との縁が伝えられています。

 

倭姫命(やまとひめのみこと)に先立ち巡幸を開始した、

豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が、

まず最初に訪れたのは、籠神社の奥宮・真名井神社でした。

 

天照太御神のご鎮座地を探す上で、

最も重要視しなければならなかったのが、

こちらの籠神社(真名井神社)だったというわけですね。


海部氏

2016-01-10 11:43:24 | 奈良・京都の神社

<籠神社 このじんじゃ>

 

代々籠神社の神官の家系を務めるのは、

海人族として知られる海部氏(あまべうじ)です。

伊勢を本拠地とした磯部氏に対し、

海部氏は西日本の広範囲に勢力を広げていました。

国宝にも指定された海部氏系図(あまべしけいず)は、

海部氏が彦火明命(ひこほあかりのみこと)

の子孫であることを示す古文献で、

神武東征の件で天皇を助けた、

天香山命(あめのかぐやまのみこと)や、

ヤマト朝廷時代の豪族、物部氏や尾張氏

などとの関連を示唆しています。

 

また、籠神社本殿の高欄上には、

五色の座玉(すえたま)という、

青・黄・赤・白・黒の丸い飾りが

据え付けられているのですが、

こちらは伊勢神宮の御正殿と、

籠神社でしか見られない珍しいものなのだとか。

かの有名な「天の羽衣伝説」の伝承地でもあり、

天に帰れなくなった天女はその後、

船木の里と呼ばれる場所に留まり、

豊受大御神として祀られるようになったともいわれています。


籠神社

2016-01-09 11:30:41 | 奈良・京都の神社

<籠神社 このじんじゃ>

 

度会氏が代々神官を務めた外宮は、

同じ海人族出身の海部氏の氏神、

籠神社(このじんじゃ)からお連れした

「豊受大御神 (とようけのおおみかみ)」

という神様が祀られています。

籠神社といえば、 元伊勢と呼ばれる神社の中でも、

特に知られている神社のひとつですが、

元伊勢マニア?の人たちだけでなく、

スピリチュアル好きな人たちが、

こぞって集まる場所としても有名です。

 

特に、籠神社の奥宮にあたる

真名井神社(まないじんじゃ)は、

日本最古のパワースポットなどと謳われ、

ここ近年参拝者が急増しているよう。

ただ中には、ご神体の磐座によじ登ったり、

不敬な行為をしたりする参拝者もいるため、

最近社殿の周りには玉垣が張られてしまったのだとか。

こういった参拝者の無知(あるいは意図的)な行いは、

巡り巡って日本の運気を弱め、大きな災難を呼びます。

神様への敬意を忘れた国や国民は、

決して幸せにはなれないのですね。


元伊勢

2015-12-20 12:30:00 | 奈良・京都の神社

<檜原神社 ひばらじんじゃ>

 

伊勢神宮を創祀した倭姫命(やまとひめのみこと)、

および、倭姫命に先立ち巡幸の旅を開始した

豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が、

天照太御神の宿る鏡とともに三輪山の麓を出発し、

伊勢の地にたどり着くまでに立ち寄った神社を

「元伊勢(もといせ)」と呼びます。

 

最近、それらの神社を回る「元伊勢巡り」が、

一般の人たちの間でも知られるようになり、

巡幸の出発点でもある奈良の檜原神社や、

外宮のご祭神とも縁深い丹波の籠神社などは、

ここ数年で参拝者が急増しているのだとか。

 

伊勢神宮で出会った人と話をしていると、

「今ちょうど元伊勢巡りをしている」

あるいは「先日丹波まで行ってきた」

などという話題を頻繁に耳にします。

私自身、元伊勢と呼ばれる神社を、

意識的に参拝したことはないのですが、

今回のお伊勢参りでは図らずも、

元伊勢にスポットが当たる旅になりました。


土・金の火種

2015-11-29 11:55:39 | 奈良・京都の神社

<貴船神社周辺>

 

「水」「木」そして「火」の

三要素が整った貴船の地というのは、

陰陽五行(木火土金水)の面から考えても、

非常に稀有な聖地だといえます。

奥宮の龍穴を水源とする貴船川の「水」、

天へとまっすぐ伸びる北山杉の森の「木」、

そして高龗神(たかおかのかみ)を生んだ、

火の神・迦具土神の「火」…。

 

水を栄養として木々が育ち、

その木が燃えて火が生じるという循環が、

この狭い貴船の地の中で生まれているのですね。

賀茂氏をはじめ、多くの貴族や要人がこの地を訪れ、

貴船の大神に祈りを捧げたのも、

「土から金」へとつながる火種を、

この地で得たかったからなのでしょう。


「き」の神様

2015-11-28 19:35:55 | 奈良・京都の神社

<貴船神社周辺>

 

貴船神社の「き」の漢字は、

現在は「貴」と書き表しますが、

一説によれば、玉依姫命が乗られた

「黄」船の「き」であるとも、

また船の材質を意味する

「木」船の「き」であるともいわれています。

 

貴船神社へと向かう道すがら、

ふと周囲を見渡すと、

そこには朝日を浴びて神々しく輝く

見事な北山杉の森が広がっていました。

 

玉依姫命をはじめとする古代の霊人たちが、

この貴船の地にたどりついたとき、

清らかな水神の息吹とともに、

生命力あふれる「き」の神様の

エネルギーに触れたのでしょう。

 

本宮から奥宮へと続く山道の途中にも、

歴史と風格と感じさせるご神木が、

丁寧にお祀りされていました。


船形石

2015-11-27 11:33:28 | 奈良・京都の神社

<貴船神社・奥宮 きふねじんじゃ・おくのみや>

 

貴船神社の伝説では、およそ1,600年前、

神武天皇の母である玉依姫命が、

神を祀る場所を探すべく、黄船に乗って、

浪速の津(大阪湾)から淀川、賀茂川、

そして貴船川を遡り、辿り着いたところが、

この貴船神社・奥宮の地だったそうです。

 

その際使用された船の痕跡とされているのが、

奥宮本殿の向かって左手にある

船形石(ふながたいし)という大きな石組み。

玉依姫命の乗った聖なる船が人目に触れないよう、

小石を積み上げて周囲を囲み、船体を隠しました。

 

現在は上部を雑草で覆われているため、

さらに目立ちにくい姿になっておりますが、

遠くから見ると、船のような小判型の

形状をしているのがわかりました。

この船形石だけでなく、貴船神社の周囲には、

船の形に似た様々な自然物が残っています。


龍穴

2015-11-26 11:30:24 | 奈良・京都の神社

<貴船神社・奥宮 きふねじんじゃ・おくのみや>

 

貴船神社のそばを流れる貴船川は、

いくつかの川筋を経て鴨川水系に入り、

上賀茂神社の明神川(御手洗川)や、

下鴨神社の糺の森へと注ぎこみます。

賀茂氏が大切にした清らかな水は、

貴船の地から供給されていたのですね。

 

聖地・京都を潤す水源地のひとつが、

貴船神社の本宮から、さらに奥へと

歩いたところにある貴船・奥宮です。

 

平成23年から24年にかけて行われた、

奥宮本殿の改修事業の際に、

古来より神社の謎とされていた

伝説の「龍穴(りゅうけつ)」が見つかるなど、

京都に都が移るはるか昔から、

聖地として崇められていた場所でした。

 

奥宮の龍穴からあふれ出した水の流れは、

貴船川を下り、京都の街を潤すとともに、

天皇をお守りする大きな力となったのでしょう。


異境の入り口

2015-11-23 11:21:53 | 奈良・京都の神社

<貴船神社 きふねじんじゃ>

 

もともと貴船神社にご奉仕していたのは、

「舌(ぜつ)」と呼ばれる土着の一族でした。

しかし、平安時代に上賀茂神社の摂社となってからは、

賀茂一族が貴船神社の神官の任命権を握り、

舌一族はその下で雑役をさせられていたのだとか。

江戸時代に「舌」の一族が上賀茂神社と論争し、

その後貴船神社の独立を果たした経緯は、

言いかえるなら「天皇系一族」と「鬼系一族」

とのせめぎ合いでもあったのですね。

 

今でこそ貴船という土地は、

雅な空気が漂う都の避暑地的な場所ですが、

本来は奈良の吉野などと同じように、

「鬼」の支配する異境の入口でした。

神武天皇一行がヤマトに向かう途中、

熊野から吉野にかけての鬼の聖域を、

次々と支配下に置いたように、

同じ渡来の血を引く賀茂氏も自らの勢力を、

京都の「鬼」の拠点へと広げていったのでしょう。

 

* 参考文献 貴船神社ホームページ *


貴船と五鬼

2015-11-22 11:21:30 | 奈良・京都の神社

<貴船神社 きふねじんじゃ>

 

貴船大神とともに、

貴船の地に降り立った仏国童子(牛鬼)は、

神界の秘め事を他言した罪により、

貴船神社を追放され吉野の山へと逃げました。

吉野の地では、「五鬼」という役行者所縁の鬼

を従えて力を蓄えていたものの、

ほどなくして、貴船恋しさのあまり、

吉野から逃げ帰ってきたのだとか。

 

そののち、大神の許しを得た

仏国童子の後を継いだのは、

吉野の丹生大明神(貴船大神と同神)に

ご奉仕していた仏国童子の子・僧国童子。

僧国童子は、吉野の五鬼を従えて貴船に戻り、

二代目の童子として貴船の大神に仕えました。

 

ちなみに、童子の子孫が人間の容姿になり、

「舌(ぜつ)」を名乗ったのは5代目からだそう。

貴船の地に最初に住んだ「舌家」の人間は、

吉野の鬼とも深く関わっているのですね。

 

【五鬼とは】

役行者の弟子となった鬼の夫婦、

前鬼(赤鬼)・後鬼(青鬼)の五人の子どもを指し、

今でも吉野には五鬼の名を持つ家系が存在する。