たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

呪詛返し

2018-12-31 09:09:25 |  能登の神社

<国立民族学博物館>

 

記紀を改めて読み直してみますと、

「スサノオの狼藉」や「因幡の白兎」

などの物語の中で、爪を剥いだり、

馬の皮を剥いだり、兎の皮を剥いだり……等々、

何かを「剥ぐ」という痛々しい話が

あちこちに記載されていることに気づきます。

また、八束脛や長脛彦など

「はぎ(すね)」がつく名前は、

先住民族を蔑視した呼称だと

言われていることを考えても、

古くから「剥ぐ」という行為、

あるいは「はぎ」という言葉に、

特別な意味を持たせていたことは事実でしょう。

 

一説に、動物の皮を剥ぐという行為は、

「縄文人特有の野蛮な行動」として、

弥生人から毛嫌いされていたと聞きますが、

古い文献には「天照大御神に猪の皮を献じた」

とも書かれていますし、事実、

生き物の皮を剥いで神に捧げる、

あるいは人間の再生のために

生き物の皮を用いるといった儀式は、

今なお多くの神社の祭祀の中に受け継がれています。

恐らく、アマメハギは「剥ぐ儀式」の代替行事であり、

大切な子供を「鬼」から守るための

「呪詛返し」だったのかもしれません。


真逆の価値観

2018-12-30 09:04:07 |  能登の神社

<国立歴史民俗博物館>

 

真脇遺跡のシンボルである環状木柱列は、

「成人儀礼」を行うための建物跡だ、

という説が有力視されています。

台湾などでは、同型の円形建物の柱穴を要する

古代の集会所跡が見つかっており、

日本でもごく近年まで、集落の人々が集まり

結束を固めるような風習が残っていたそうです。

真脇の木柱列の付近からは、火を熾した炉の跡や

埋葬した人骨などが発見されていないため、

恐らく住居ではなく、祭祀などの「特別な日」

に使用する場所であったことは確かなのでしょう。

 

ちなみに、真脇遺跡から出土した

「大量のイルカの骨」から、この近辺では

イルカ漁が盛んに行われていたことがわかっています。

ただし、真脇遺跡の近隣にある高倉神社では、

イルカを奉納して豊漁を祈願した痕跡が残る一方、

須須神社ではイルカを神を使いとして捉え、

食用にすることを禁じていたのだとか……。

真脇と須須に伝えられた相反する二つの伝承は、

能登の人々の「贄」に対する真逆の価値観を、

如実に表しているような気がしてなりません。


蘇りの儀式

2018-12-29 09:41:37 |  能登の神社

<国立民族学博物館>

 

世界各地に残る先住民神話の中に、

仮面をつけた神々は「子どもを食べて、

新たに生まれ変わらせる先祖霊だ」

という考え方があるのだそうです。

これを「アマメハギ」など「ハギ」

と名の付く鬼たちの行動に当てはめれば、

子供のアマメ(皮)を剥ぐのは、

良い子に生まれ変わらせるための戒めであると同時に、

子供の生命力を奪い取る儀式だという風にも受け取れます。

どちらの意味合いが強いのかはわかりませんが、

ある時期「剥ぐ習俗」を有する人々が、

能登半島や東北沿岸に押し寄せ、

子供たちを連れ去った歴史があるのかもしれません。

 

真脇遺跡の木柱や土製仮面から想像できるのは、

古代執り行われていた「蘇りの儀式」の様子です。

じりじりと押し寄せる新時代の波の中で、

能登の縄文人たちは、「剥ぐ文化」を拒否して、

古代の神事を継承しようとしていたのでしょうか……。

それとも、大きな霊的効果をもたらす

「剥ぐ文化」を受け入れ、少なくない犠牲とともに、

生き残るための道を模索していたのでしょうか……。

いずれにせよ古代の能登人が、決して「やさしい」

だけの人々ではなかったことは確かだと思われます。


剥ぐ習俗

2018-12-28 09:36:46 |  能登の神社

<国立民族学博物館>

 

「アマメハギ」「なまはげ」「アメハゲ」

「ナモミハギ」「シカタハギ」……等々、

主に北陸から東北にかけての地域に残る

「来訪神」の名称に共通するのは、

「ハギ」や「はげ」などの言葉です

(恐らく、なま「はげ」も「はぎ」が転訛したもの)。

なぜ、人々に福をもたらす神々が「ハギ(はげ)」、

つまり「剥ぐ者」と呼ばれるようになったのか、

その理由を調べて行きますと、

背景には少々生々しい歴史が見え隠れしておりました。

 

実は、「剥ぐ」という行為は

「再生の儀式」を執り行うためのもので、

古くから日本だけでなく世界中で、

動物の皮を剥ぎ死者にかぶせて、

魂の復活を願う秘儀が行われていたと聞きます。

以前、淡路島について書いた記事の中で、

鹿の皮を献上する部族の話を書きましたが、

「皮を剥ぐ」ということはつまり、

その対象の生命力をもらい受けることなのだと。

おそらく「ハギ」と名の付く鬼たちは、

「剥ぐ習俗」を有する人々でもあったのでしょう。


異形のモノ

2018-12-27 09:22:21 |  能登の神社

<国立民族学博物館>

 

アマメハギが他地域の「鬼」たちと違うのは、

使用するお面が「鬼」「天狗」「猿」「鼻ぺちゃ面」

「男面」「女面」……など多岐に渡ることです。

聞くところによりますとこれらのお面は、

神々に扮する氏子が自ら手作りするそうですが、

言うなればそれだけ能登の地には、

「鬼の種類」が豊富だった証拠なのでしょう。

日本のほぼ中央部にあたる能登半島が、

四方八方より「人」が集まる場所であったことから、

多種多様な人種(および精霊)が、入れ代わり

立ち代わり「来訪」してきたとも考えられます。

 

恐らく、能登に住む人々は古より、

「異形のモノ」への対応を迫られ続けたことで、

「見えない神」を可視化する能力、

「見えない神」を融合させる柔軟性、

そして「見えない神」に役目を持たせる

想像力が秀でていたのかもしれません。

と同時に、他の地域以上に「異形のモノ」

を発端とする災いにも遭いやすく、

災難を防ぐための祭事が欠かせなかったのだと。

そう考えると、能登という土地が、

「日本一祭りが多い」と言われる所以も、

十分に納得できるような気がいたします。


仮面の祭り

2018-12-26 09:15:31 |  能登の神社

<国立民族学博物館>

 

様々な形象のお面を使用する「仮面の祭り」は、

日本のみならず世界各地で見られる「伝統行事」です。

近年日本でも、アニメキャラのコスプレや

ハロウィン仮装のように、奇妙な仮面や衣装を

身にまとうイベントがブームになっておりますが、

本来の姿を隠すことで「別人格」に変わるという行為は、

縄文由来の人間の本能がなせる業なのかもしれません。

実際に「いわくつき」の仮面をかぶると、

ある種憑依のような現象が発生し、

その人の肉体が乗っ取られるという話も聞きます。

 

例えば「能」などは、面の持つ効果を逆手に取った

舞台芸術とも言えますし、縄文時代の人々は、

仮面が「神」「精霊」「鬼」などの

依り代となることを知っていたのでしょう。

南西諸島のように、「奇妙な精霊」が多く住む地域では、

ポリネシアや東南アジアの神々のような仮面が、

東北や北陸など「異形の渡来人」が来訪した地域では、

鬼や天狗、猿の造形を象ったような仮面が、

土地ごとに伝えられてきたのだと思います。

恐らく、アマメハギのモデルとなった対象も、

現代人が考えるような空想の産物などではなく、

ごく身近にいた「何か」だったのかもしれません。


西の縄文

2018-12-25 09:08:42 |  能登の神社

<阿波史跡公園>

 

能登町の真脇遺跡で発見された「土製仮面」ですが、

全国的に見ても出土例は少なく、

縄文時代後期~晩期の北日本・東日本の遺跡にしか

見られないものなのだそうです。

また、土製仮面が発掘された場所の近辺には、

アマメハギやなまはげなど、「仮面を使用する行事」

が伝承されているという不思議な一致があり、

一説には日本各地に伝わる「仮面の祭り」は、

土製仮面が元となったのではないかとも言われています。

 

恐らく、鬼や精霊のような異質な形象を模した面は、

後の時代の影響を受けたもので、もともとはもっと

シンプルな形象だったのかもしれません。

ちなみに、現在全国で発見された土製仮面のうち、

最も西に位置するのが徳島県の矢野遺跡なのだとか。

矢野遺跡と言えば、五芒星の石積みがあることで

知られる「八倉比売神社」を思い出しますが、

仮に古代阿波国と仮面とのつながりが強いとすれば、

「来訪神」の起源にますます興味がわきますね。

東日本や東北の一帯で数多く残る土製仮面が、

西日本一帯ではほとんど見つかっていないという事実は、

「縄文人」と「祭り」を考える上で、

決して無視できない現象なのでしょう。


真脇遺跡

2018-12-24 09:02:40 |  能登の神社

<国立歴史民俗博物館>

* 画像は他の遺跡から発掘されたもの *

 

「アマメハギ」という行事を考える上で外せないのが、

能登町にある「真脇遺跡」です。

「環状木柱列」という円状の十本の柱を

シンボルとするこの場所には、

縄文時代前期から晩期までの約4000年、

人々が移動せずに定住していた痕跡が残されており、

他にはない特殊な遺構や遺物が

たくさん見つかっているのだとか。

残念ながら、真脇遺跡には立ち寄れなかったため、

詳しい考察(および写真の掲載)はできませんが、

とにもかくにもこの場所で発見された「あるもの」が、

「アマメハギ」に影響を与えた可能性が高いのですね。

 

それはズバリ「土製仮面」と呼ばれる、

名前の通り土でできたお面です。

出土時に欠けていた顔の右側と顎の部分を復元すると、

長さ16㎝、幅13㎝程度の大きさになるその面は、

目はつりあがり、眉と鼻が高く、顔面にイレズミ、

または魔よけの化粧と思える沈線文が

施されているのだそう(真脇遺跡縄文館HPより)。

また、耳の近くに紐通しがあることから、

実際に儀式で使用された可能性が高いと言います。

縄文時代「仮面」は重要な祭祀具のひとつで、

人間が面を被ることで「神」として

生まれ変わる意味合いもあったのでしょう。


祭りの主

2018-12-23 09:55:23 |  能登の神社

<輪島市白米町>

 

主に輪島市と能登町の一帯に伝えられるアマメハギは、

冬の夕暮れ時に鬼や猿などの面をつけた氏子(神々)が、

集落の家々を回りもてなしを受け、

人々の無病息災を約束して去って行くという、

いわゆる「来訪神」のカテゴリーに属するお祭りです。

先日、ユネスコの無形文化遺産に登録されたことで、

一気に知名度が高まったこの行事、

表向きはユニークな面をかぶった「鬼」たちが、

子供たちの生活態度を戒めるという、

何とも牧歌的な印象が先立ちますが、

じっくりと調べてみますと、

意味深な背景が浮かび上がってまいりました。

 

ちなみに、「来訪神」は季節の変わり目や、

暦の区切りにやってくることが多く、

これは神様が「境」に祀られることと同意義なのでしょう。

つまり、冬と春、昼と夜、山と里、空と海など、

二つのモノのが切り替わる「間」には「魔」が生じやすいため、

異質なモノたちが入り込みやすくなっているのだと思われます。

アマメハギをはじめ、全国各地には

多種多様な容姿の「神々」が存在しますが、

もともとは一人芝居を演じる「あえのこと」のように、

面も衣装もつけない「見えない神」「単なる空間」が、

祭りの主だったのかもしれません。


アマメハギ

2018-12-22 09:49:12 |  能登の神社

<珠洲市真浦町>

 

「あえのこと」が見えない神様をもてなす儀式だとすれば、

その対極にあるのが「見える神」を主役に据えた

「アマメハギ」というお祭りかもしれません。

「アマメ」とはいろりに長く当たるとできる火だこを指し、

アマメがある人間は「怠け者」と揶揄されると聞きます。

働きもせず家の中で遊んでいる人々を戒め、

「アマメを剥ぐぞ」とけしかけることから

「アマメハギ」と呼ばれているのだそうです。

 

ちなみに、「アマメハギ」が行われるのは、

1月から2月にかけての極寒の時期でして、

地区によって多少内容は異なるものの、

猿・天狗・鬼などの面を着けた若者や子供が、

「怠け者はいねえか」「アマメー」

などと雄たけびを上げながら、

家々を回るのが一般的な形なのだとか。

「なまはげ」や「アマハギ」など、

日本海側の東北地方のお祭りとの共通点も多いため、

海の彼方からやってきた「渡来人」が

関与しているとも言われております。


大きな神

2018-12-21 09:41:39 |  能登の神社

<輪島市・白米千枚田>

 

能登半島には、海や山の向こうにある理想郷から、

神々が渡来し福をもたらすという

「来訪神」の伝承が根付いております。

これまでご紹介した「あえのこと」も、

そんな「客人(まれびと)思想」が

元となって発生した行事のひとつですが、

その根幹には「目に見えない神とともに暮らす」という、

日本人特有の生活観が潜んでいるような気がするもの。

恐らく、当初は「田の神」「山の神」「鉄の神」など、

特定の対象を念頭においていたわけではなく、

日々の暮らしに恵みをもたらす「大きな神」に対し、

一年の感謝を伝える行事だったのでしょう。

のちに、様々な文化の流入に伴い、

対象となる神様が遍歴したり重複したりした結果、

現在の「田の神」をもてなす

農耕儀礼の性質が濃くなったのだと思われます。

 

ちなみに「あえのこと」は、

宮中の祭りと民間の祭りが融合した

「民間の新嘗祭」だという話もありますが、

宮中で行われる新嘗祭と決定的に違うのは、

「神と人との距離感」かもしれません。

「神を常世から迎え、もてなし、送る」という流れは、

伊勢神宮の新嘗祭などでは見られない部分ですし、

「あえのこと」の所作を見ておりますと、

神と人とが同じ次元に立ち、互いに協力し合って

いるようなニュアンスすら伺えるのです。

恐らく、「あえのこと」という行事は、

単なる稲作文化の名残ではなく、

「自然の循環」という壮大な視点に基づいた、

極めて縄文的な祭祀の形なのでしょう。


盲目の神

2018-12-20 09:38:00 |  能登の神社

<珠洲市・珠洲焼館>

 

能登半島という場所は古くから

産鉄地として知られ、その昔は鉄の原鉱石を

国司に納める習わしがあったと聞きます。

考えてみますと、珠洲市の「すず」という名称も、

鉱物の「スズ」を思い起こさせますし、

名産品である珠洲焼に使われる土などは

まさに「鉄分」の塊ですね。

また、万葉歌人の大伴家持が

越中国司として能登半島を巡行したのも、

その目的は「鉄生産の視察のため」だったのだとか。

いずれにせよ、能登半島と鉄とのつながりが、

想像以上に深いことは確かなのでしょう。

 

仮に、「あえのこと」の主役である田の神が、

「鉄の神」の性質を帯びていたとするなら、

「あえのこと」を単なる農耕儀礼としてだけではなく、

渡来人や製鉄部族との関連も含めて

考えなければいけないかもしれません。

田の神と製鉄の神とは、意外にも近しい位置にあり、

田んぼに立つ一本足の案山子は、

天目一箇神がモチーフだとも言われています。

もしかすると、稲作が伝来する以前、

「あえのこと」で饗応していたのは田の神ではなく、

目の不自由な鉄の神だったのでしょうか……。


タノカンサマ

2018-12-19 09:33:32 |  能登の神社

<輪島市・三井の里>

 

奥能登の農家に伝わる「あえのこと」という行事は、

田の神様に一年の収穫の感謝を捧げ、

来年の豊作を願う「家単位の」農耕儀礼です。

各家庭によって、祭儀の詳細は若干異なりますが、

通常神様をお迎えするのが12月5日、

そして神様をお送りするのが2月9日で、

裃を身にまとい正装をした家長が、

田んぼの神様(タノカンサマ)を

田の畔から家までお連れし、

お風呂や食事で丁重にもてなしながら、

冬から春までの一時期を家で過ごしてもらう

というのが一般的な流れとなります。

 

ちなみに、「あえのこと」とは

饗応の饗(あえ)を意味する言葉、

また秋祭りと正月との合間を意味する

「あいのこと」の転訛だと言われていますが、

以前ご紹介した「あえの風」と同様に、

はっきりした語源はわかっていません。

共通して語られているのは、

田の神様は長年土の中で働いて来た

(もしくは稲穂で目を突いた)がゆえに、

目が不自由であるということです。

目の不自由な神様と言いますと、

製鉄の神・天目一箇神が思い浮かびますが、

果たして「あえのことと」とのつながりはいかに……。


あえのこと

2018-12-18 09:25:25 |  能登の神社

<輪島市・三井の里>

 

「あえのこと」という年中行事を初めて映像で見たとき、

その所作の「異次元さ」に目が釘付けになりました。

何が異次元だったかと申しますと、

「あえのこと」の主役でもある神様は、

まったく目視できない存在であり、

主催する側の人間は、あたかもそこに神様がいるかのように、

延々と一人芝居を続けるからなのです。

まあ、神様が見えないのは当たり前と言えば当たり前ですが、

通常お祭りと言いますと、お神輿や山車、扮装した氏子など、

「神様を感じさせる対象」が用意され、

参加する人々の視線もその一点に注がれます。

 

しかし、この「あえのこと」という行事は、

一家の主が何もない田んぼに話しかけたり、

誰もいない空間に手を差し出したりするなど、

端から見れば「?」と思えるような振る舞いを、

最初から最後まで真剣に執り行う

「真の奇祭」なのですね。全国各地に、

様々なお祭りがありますが、それらはすべて

「見えない神を敬う」という日常的な心掛けを、

「目に見えるイベント」として可視化したものです。

ある意味「あえのこと」という行事は、

日本人特有の「空間に神を観る民族性」を、

見事に体現した稀有な行事なのでしょう。


ワンダーランド

2018-12-17 09:22:32 |  能登の神社

<大地主神社 おおとこぬしじんじゃ>

 

先日、ユネスコ無形文化遺産に

登録された「アマメハギ」に先駆けて、

すでに能登半島では「奥能登のあえのこと」

「青柏祭の曳山行事」という二つのお祭りが、

同じくユネスコの文化遺産に登録されています。

これまで能登半島を巡る記事の中で、

いくつかのお祭りをご紹介してきましたが、

数ある能登の祭りの中でもこれら三つの行事は、

特に興味を惹かれたお祭りたちであり、

それらの成り立ちや背景を想像するにつれ、

古代の能登の姿がリアルに迫ってくるような気がするのです。

 

ちなみに、それらの伝承が残る地域を見てみますと、

アマメハギは輪島市や能登町、

あえのことは奥能登に顕著に分布し、

青柏祭は七尾市が中心となります。

また、輪島市には「面様年頭(めんさまねんとう)」

と呼ばれる、アマメハギとあえのことを

融合させたような行事が伝えられ、

こちらもアマメハギと同時に遺産登録されました。

いずれにせよ、能登半島という土地は、

あまたある日本の祭りの要素をすべて取り込んだ、

「祭りのワンダーランド」であるのは確かでしょう。