たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

土偶と埴輪

2019-04-30 09:15:48 | 鉄の神々1

<埴輪資料>

 

近年注目を浴びている「縄文時代」の中でも、

特に若い女子を中心にブームになっているのが「土偶」です。

一般的に土偶は、女性や妊婦の形象が多いことから、

「多産」「豊饒」「命の再生」等を

祈る目的で制作されたといわれますが、

古墳時代に普及した埴輪に関しては、

古墳の副葬品としての意味合いが強く、

その数を増やすことで権力者の力を

誇示しているなどの話を聞きます。

 

ただし、埴輪だけでなく土偶に関しても、

「人間の身代わり」として造られた側面がありますし、

どちらも「死」や「葬送儀礼」と切り離せない

焼き物であることは間違いないのでしょう。

 

もし仮に、野見宿禰が「死と再生の儀式」

に通じた祭祀者であり、大和から出雲へ帰還する途中、

あえてたつの市付近に立ち寄るルートを選んだとすれば、

この地の権力者とつながりがあったか、

この地に縁者が暮らしていた可能性が大です。

もしかすると、それらの人々とは、

たつの市一帯で太陽祭祀や葬祭儀礼を執り行うと同時に、

備前の地に「印部焼」の技術を伝えた

忌部氏(およびその関連氏族)だったのでしょうか……。


古代の葬儀

2019-04-29 09:12:45 | 鉄の神々1

<備前市・忌部神社 いんべじんじゃ>

 

葬儀を行う際、亡くなった方の御遺体を

荼毘にふすための火葬場を、

「斎場(さいじょう)」と呼びますが、

もともと斎場とは祭祀を行う場を指し、

神聖な場所を意味する言葉でした。

 

忌部氏がのちに「斎部」と改姓したのも、

「斎」という文字を使うことにより、

自らの氏族の属性を強調したとも想像できます。

中臣氏(藤原氏)との主導権争いにおいて、

「忌部氏こそが斎場を取り仕切る氏族だ」という自負が、

「斎」の文字から浮かび上がってくるのですね。

 

考えてみますと、忌部氏の「忌」という文字も、

人間の死や葬儀と関わる言葉ですし、

天皇の「死と再生の儀式」、

つまり葬送の儀を執り行うことこそが、

祭祀氏族の主たる役目だったのでしょう。

 

そこで思い出すのが、先日記事にした野見宿禰、

そして野見宿禰が考案したとされる

「埴輪」を使った埋葬法です。

恐らく野見宿禰という人物は、相撲という

「大地を鎮める神事」を執り行うだけでなく、

埴輪を依り代とした「死と再生の儀式」

に通じた祭祀者だったのかもしれません。


備前の忌部氏

2019-04-28 09:08:18 | 鉄の神々1

<備前市・忌部神社 いんべじんじゃ>

 

今回私が備前市伊部を訪れたのは、

以前から気になっていた「ある神社」

を参拝することが目的でした。その神社とは、

備前焼の神社としてマニア的な人気を誇る「天津神社」

……ではなく、その裏手の山に隠れるようにして

鎮座する天津神社の摂社「忌部神社」です。

 

その社名からもわかるように、

こちらは忌部氏が祭祀していた神社でして、

越前の越前焼などと共に、「陶祖である忌部氏」

の痕跡を残す場所ともいわれています。

 

ちなみに、備前焼はもともと

伊部焼・印部焼(いんべやき)と呼ばれており、

伊部という地名も「忌部」から来ているのだとか……。

何でも忌部神社の周辺は、「伊部北大窯跡」

という国の史跡に指定されているそうで、

参道脇の斜面をまじまじと眺めてみたところ、

大小様々な大きさの「陶器の破片」が

散乱しているのがわかりました。

 

当時この一帯で行われていた大規模な窯の操業は、

恐らく忌部氏らによって持ち込まれた技術であり、

のちの備前長船に代表されるこの地の

刀工とも深くつながっていたのでしょう。


天津神社

2019-04-27 09:03:49 | 鉄の神々1

<天津神社 あまつじんじゃ>

 

たつの市の中心部から西へ1時間弱車を走らせると、

県境を越え岡山県の備前市に入ります。

言わずと知れた「備前焼」で知られる

この町の中でも、特に大小の窯元が一堂に

集結しているのが「伊部駅」の周辺でして、

観光客向けの大型陶器店やミュージアムはもちろん、

個人経営の窯元やギャラリーなどが、

狭い道路沿いにひしめくように軒を連ねていました。

 

そんな伊部駅からほど近い場所に、

「天津神社(あまつじんじゃ)」という、

境内一円が焼き物で埋め尽くされた

ユニークな神社があります。

鳥居の脇に置かれた狛犬しかり、

神門の屋根瓦や境内を取り囲む塀に至るまで、

すべてが備前焼一色に染まったこの神社は、

さながら「焼き物の屋外美術館」

といった趣を醸し出している場所です。

 

参道の両側には、これでもかというほど

様々な形の備前焼の置物が並べられ、

訪れたその日も、恐らくSNSを見て

やってきたと思われるアジアからの観光客が、

石段の上にある社殿などには目もくれず、

熱心に境内の写真や動画を撮影していました。


野見宿禰と埴輪

2019-04-26 09:59:03 | 鉄の神々1

<たつの市遠望>

 

だらだらと続く長い石段を登り切り、

やっとの思いで野見宿禰神社(陵墓)の前に立つと、

そこはやはり神社というより、

人が葬られた古墳という表現が相応しい場所でした。

聞くところによれば、この地が野見宿禰の

陵墓の比定地となったのはごく近年のことで、

古墳内にどのような人物が埋葬されているのか、

はっきりとはわからないのだそうです。

恐らく、たつの市の全景を一望できるこの場では、

かつて野見宿禰とも縁する土地の有力者が

「国占め」を行い、ご神体山である

的場山に向かって祭祀をしていたのかもしれません。

 

ちなみに、野見宿禰が考案したとされる「埴輪」ですが、

実際に葬儀での使用が一般的になったのは、

もっと後の時代だという話もあります。

ゆえに、野見宿禰が埴輪を造ったという確証はないものの、

野見宿禰という人物が、強靭な身体能力と

前衛的な知識を有していたことは事実でしょう。

 

プチ登山の唯一のご褒美ともいえる、

山上からの眺めを堪能しながら、

相撲取りでもあり呪術者でもあった

野見宿禰が果たそうとしていた目的、

そして「埴輪」という不可解な焼き物について

つらつらと想像していると、ふいに頭の中に

「ある焼き物の産地」が思い浮かんでまいりました。


宮中改革

2019-04-25 09:54:14 | 鉄の神々1

<野見宿禰神社 のみのすくねじんじゃ>

 

元祖相撲取りのひとりである野見宿禰は、

天穂日命(あめのほひのみこと)の14世の子孫、

つまり出雲国造の血を引く人物だといわれています。

出雲大社を訪れた際、境内の一角に野見宿禰神社が

建てられているのを見かけましたが、

たつの市の野見宿禰の陵墓にも、

出雲大社の宮司家である「千家家」

の家紋が刻印されており、出雲と相撲、

そして出雲と播磨の深いつながりを示す証となっていました。

 

一方、野見宿禰は出雲国造ではなく、

オオナムチを先祖とする説も存在するそうで、

この的場山のふもと以外にも、

野見宿禰の墓の候補地がいくつかあると聞きます。

当時垂仁天皇が、何を目的に「天覧相撲」を

催したのかはわからないものの、

当初から「宮仕え」を念頭に、

野見宿禰を大和に招いた可能性も高いのでしょう。

 

考えてみますと、垂仁天皇の時代というのは、

葬祭儀礼の見直しや相撲の国技化はもちろん、

新羅王子ともいわれるアメノヒボコの来日や、

皇女である倭姫命の伊勢神宮創建など、

神道や宮中行事のターニングポイント

となるような出来事がたくさん起こりました。

もしかすると、垂仁天皇という人物は、

渡来人をも巻き込んだ、大規模な「宮中改革」を

行おうとしていたのかもしれません。


野見宿禰と相撲

2019-04-24 09:50:18 | 鉄の神々1

<たつの市・龍野公園>

 

昨今、何かと話題の多い「相撲」の世界ですが、

記録上最古の取り組みとされるのが、

垂仁天皇7年(紀元前23年)7月に、

宮中で催された野見宿禰と当麻蹶速の一番です。

結果は、野見宿禰が当麻蹶速の腋骨と腰を折り、

息の根を止めたため野見宿禰の勝利。当時の相撲とは、

いわゆる生死をかけた文字通りの死闘だったのでしょう。

 

また、現在の大相撲のしきたりや力士の所作、

土俵上空の「社の屋根」を模した吊るし飾り

などからもわかるように、元々相撲は神事であり、

七夕の行事に付属した余興のひとつとも言われています。

 

なぜ、七夕に宮中で相撲が行われたのかに関しては、

ここでは詳しい考察は省きますが、

いずれにせよ当麻蹶速との勝負に勝った野見宿禰が、

のちに殉死の風習を禁じるようなルールを作ったことに、

野見宿禰の稀有な才覚を垣間見る次第。

以前記事にした、古代能登人と鬼とのやり取り同様、

そこには「人柱」という悪習から人々を守ろうとする、

縄文人の精神性が見え隠れしているような気がするのです。


野見宿禰の伝承

2019-04-23 09:46:58 | 鉄の神々1

<たつの市・揖保川>

 

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今から2000年近く昔、大和国に当麻蹴速(たいまのけはや)

という相撲の名手がいました。時の天皇である垂仁天皇は、

「誰か当麻蹴速と相撲が取れる強者はいないか」と家来に尋ねると、

「出雲国に野見宿禰(のみのすくね)という人物がいるそうです」

という答えが返ってきます。そこで天皇は、野見宿禰を大和国に招き、

当麻蹴速と相撲を取らせることにしました。

 

その結果、野見宿禰が勝利したため、天皇は野見宿禰に領地を与え、

自分のそばで仕えるよう命じました。宮仕えとなった野見宿禰は、

皇后である日葉酢媛命の葬儀の際、それまで行われていた殉死

(家来たちを生き埋めにする)の風習を排除し、

代わりに埴輪を埋めることを提案します。

 

その功績により、野見宿禰は土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、

後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることになったのです。

その後野見宿禰は、故郷である出雲国へと帰還する途中、

播磨国まで来たところで、重い病気にかかり亡くなってしまいました。

【参照サイト:ひょうご歴史ステーション】

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野見宿禰に死を嘆いた村人たちは、

揖保川(いぼがわ)の河原から山の上まで一列に並び、

手渡しで石を運んで立派な墓を造ったといわれています。

野原にたくさんの人が立ち並びながら働いたことから、

その場所は「立野(たちの)」と呼ばれ、

それが現在の「たつの(龍野)」になったという話です。


野見宿禰神社

2019-04-22 09:43:44 | 鉄の神々1

<たつの市・龍野公園>

 

たつの市・粒坐天照神社の元地のひとつ、

的場山のふもとに「野見宿禰(のみのすくね)」

の陵墓とされる、野見宿禰神社が鎮座していました。

こちらの神社は、およそ1000段とも

目される長い石段を要しており、

社殿にたどり着くまでの果てしない参道は、

「知っていたら絶対に止めたのに……」と、

思わず安易な判断を悔やむほどの過酷さです。

 

紅葉の名所としても知られるこの場所を訪れたのは、

ちょうど敷地内の樹々が一斉に色づいた頃。

たまたま出会った地元のおじさんの

「野見宿禰神社はすぐそこだ」

「紅葉谷は絶対に見たほうがいい」との

(ありがたい?)アドバイスを真に受けた私は、

この龍野公園で予想外の時間を費やす結果となり、

後のスケジュールが押しに押してしまったことを、

後日談として記しておきましょう。

 

それはともかくとして、なぜここに「相撲取りの元祖」

とも呼ばれる野見宿禰が葬られているかというと、

次のような伝承が残されているからなのでした……。


播磨の忌部氏

2019-04-21 09:13:13 | 鉄の神々1

<粒坐天照神社 いいぼにますあまてらすじんじゃ>

 

先日の記事内で、射楯神社のご祭神である

「イタテ神」と、紀伊忌部氏の祖である

「彦狭知命」との関連を示唆しましたが、

中臣印達神社のご祭神がイタテ神であり、

本殿に「アワチ(アワヂ)」と

名の付く社が合祀されているとすれば、

中臣印達神社に阿波忌部氏が関わっていた

としても不自然ではないのでしょう。

 

そして、こちらの粒坐天照神社と

讃岐忌部氏の祖である「手置帆負命」

一族との接点は、中臣印達神社と同様、

忌部氏とのつながりを浮かび上がらせます。

つまり、昔この一帯は忌部氏の支配地だったか、

忌部氏が移住した土地だったとも考えられるのですね。

 

仮に、中臣印達神社の鎮座する

「中臣(なかじん)」という地名が、

中臣氏から取られたものであるなら、

後年になって中臣氏が土地の支配権を奪い、

その証として忌部氏の氏神であった、

「阿波遅神社」を中臣印達神社に合祀したのかもしれません。

いずれにせよ、忌部氏がある時期にこの地で、

「イタテ神」や「アマテル神」と共に、

何らかの祭祀を行っていたことは確かなのだと思われます。


瑜伽神社

2019-04-20 09:00:33 | 鉄の神々1

<粒坐天照神社 いいぼにますあまてらすじんじゃ>

 

粒坐天照神社の境内を探索している最中、

何気なく背後の裏山を見上げると、

本殿の脇から山腹に向けて、

急な階段が設置されていることに気が付きました。

その意味深な配置に、ただならぬ気配を感じ取り、

すぐさま小高い丘の上へと登り始めた直後、

森の中からザザっと落ち葉を踏みしめる音が聞こえ、

目の前に突然、野生の鹿が現れたのです。

 

近年、こうした住宅地の近辺でも、

「鹿」「猿」などの野生動物に遭遇する場面がよくあり、

境内を取り囲むようにして、獣除けの電気柵が

張り巡らされている神社なども時折見かけます。

参拝する側としては、若干の戸惑いを覚えてしまうものの、

氏子や近隣の人々にとって、

獣害対策というのは本当に厄介な問題なのでしょう。

 

そんなことをつらつらと考えつつ、

鹿に刺激を与えないよう、忍び足で石段を登り切りると、

丘の上に小さな古い社が鎮座していました。

瑜伽神社(ゆうがじんじゃ)と呼ばれるその社のご祭神は、

手置帆負命(たおきほおいのみこと)。

一説に、神話の天岩戸の件において、

紀伊忌部の祖である彦狭知命とともに、

天御量や瑞殿を作ったとされるこの神は、

讃岐忌部の祖としても知られた存在でした。


天照国照彦火明命

2019-04-19 09:55:03 | 鉄の神々1

<粒坐天照神社 いいぼにますあまてらすじんじゃ>

 

天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかり)という、

少々ややこしい名前を持つこの神は、

通称:天火明命(あめのほあかり)と呼ばれ、

尾張氏・津守氏・海部氏など多くの氏族が祖神と定める存在です。

名称に「天照」という文字が入っていることから、

伊勢に祀られる天照太御神との関連を示唆されますが、

天照太御神とは無関係であるという説が優勢なのだとか……。

 

たつの市・粒坐天照神社のご祭神でもあるこの天照国照彦火明命は、

一説に饒速日命(にぎはやひのみこと)と同神とされる一方で、

『播磨国風土記』では「オオナムチの子、火明の命」として登場し、

「気性が荒く、オオナムチが手を焼いた」と紹介されています。

 

恐らく、粒坐天照神社の周辺に「日山」

という地名があることを考えると、

天照国照彦火明命と呼ばれる神、

あるいは天照国照彦火明命と呼ばれる族長が存在し、

背後の白鷺山で太陽祭祀が行われていたのでしょう。

だとすれば、この地で太陽祭祀をしていた豪族とは、

いったいどんな出自の氏族だったのかが気になりますね。

 

そのヒントを探るべく境内を歩き回っていたとき、

ふと見上げた本殿裏手の山腹から、

上に向かって古い石段が伸びているのを発見したのです。


播磨の小京都 

2019-04-18 09:47:07 | 鉄の神々1

<たつの市龍野町>

 

「播磨の小京都」との異名を持つ兵庫県たつの市は、

その歴史の古さを物語るかのように、

入り組んだ路地があちこちに張り巡らされた、

「味わい深い街並み」が印象的な場所です。

 

今回の旅では、「山奥の集落」へ分け入る予定がなかったため

(というより、紀伊半島や四国山地のように高い山がないため)、

軽自動車ではなく普通車をレンタルしたのですが、

まるで迷路のように曲がりくねった細い道で

対向車と鉢合わせした際には、本当に肝を冷やした次第……。

 

特に、この白鷺山山麓に鎮座する

粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)周辺は、

昔ながらの風情をたっぷりと残したエリアであると同時に、

「この直角コーナーを曲がるのか……」と

一瞬躊躇するような狭路が縦横無尽に広がる、

何とも旅人泣かせのエリアだったのでした。

 

ちなみに、古くは中臣山の山頂にあったとされる

粒坐天照神社ですが、現在の社伝を読みますと、

「元は的場山の山頂附近に勧請されたのが発端」

という別の由緒が書かれております。

粒坐天照神社を取り巻く数々の異伝は、

果たして何を伝えようとしているのでしょうか……。


中臣と忌部

2019-04-17 09:39:29 | 鉄の神々1

<中臣印達神社 なかとみいたてじんじゃ>

 

中臣印達神社に合祀されている阿波遅神社のご祭神は、

大鹿嶋神(おおかしまがみ)、

大香山戸臣神(おおかがやまとおみのかみ)の二柱です。

大鹿嶋神は「鹿嶋」という名称から、

鹿島神宮や中臣氏との関連が噂されるものの、

はっきりしたことはわかっておらず、

また、大香山戸臣神に関しては、

「大年神と香用比売の間に生まれた」

という古事記の記述を踏まえると、

恐らくスサノオ系の土地神だと推測されます。

 

仮に、阿波遅が阿波もしくは淡路を示しているとすれば、

この地にも忌部氏を始めとする「阿波の神」を祀る人々、

そして淡路島のような「渡来人の祭祀場」

が存在したのかもしれません。

周辺の吉備国や出雲国などに比べ、

播磨国には特出した「忌部」の形跡は存在しないものの、

阿波国で製造された土器が、

播磨国の集落から見つかったという話も聞きますから、

両国の間に何らかの交流があったことは確かなのでしょう。

 

そうなるとやはり気になるのが、阿波遅神社が廃絶され、

「中臣」と名の付く神社や、

中臣氏を暗示させる「大鹿嶋神」と、

合祀されることになった経緯ですね。

それらの疑問を抱きながら中臣印達神社を後にし、

同じく「粒丘」ゆかりの地である次の参拝地を訪れると、

神社の裏手の山腹にひとつの社が鎮座していました。


阿波遅神社

2019-04-16 09:33:38 | 鉄の神々1

<中臣印達神社 なかとみいたてじんじゃ>

 

たつの市にある中臣印達神社は、

「中臣」という名を冠することからもわかるように、

中臣氏との関与が噂されている場所です。

ただし、神社に伝わる資料の中には、

中臣氏の関与を示す手掛かりはなく、

鎮座地の中臣(ナカジン)という地名を元に、

名付けられたのではないかという説もあるのだとか……。

 

個人的に気になるのは、もともと別の場所にあったはずの

阿波遅神社(あわちじんじゃ)と呼ばれる社が、

こちらの本殿に合祀されていることなのですね。

仮に、阿波遅神社の阿波遅(あわち)が、

阿波国や淡路国との結びつきを暗示しているとすれば、

この神社には「中臣」と「忌部」というライバル氏族同士が、

何らかの形で関わっていた可能性も出てくるのでしょう。

 

現在のところ、阿波遅神社と忌部氏との

明確なつながりはわからないものの、

中臣氏が忌部氏の氏神を自らの社に引き入れたと仮定すると、

否が応でもこの地を巡って繰り広げられた

「二大祭祀氏族」の因縁を想像してしまいます。

 

阿波遅神社の社は中世以前は存在したとされますが、

今は中臣印達神社の名称とともに刻まれた

「式内 阿波庭(遅)神社」の石標だけが、

それらの歴史を伝える唯一の証として、

参道わきにひっそりと建てられていました。