たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

陽のエネルギー

2017-10-03 09:24:25 | 白山信仰・楠と白石

<倭姫旧跡地>

 

数年前、伊雑宮(の近辺)を訪れた際、

2013年の式年遷宮の前後にイスラエルの要人が、

お忍びで伊雑宮を訪れたという噂を耳にしました。

また、遷宮後に両陛下が内宮を参拝された折も、

ユダヤ系のSPが陰のように寄り添い、

両陛下と三種の神器を守っていたとも聞きます。

 

伊勢市内および伊雑宮の一帯に、

籠目紋(六芒星)が刻まれた

「石」灯篭が置かれているのは有名な話ですが、

古代イスラエルの歴史を重んじる人々が、

伊雑宮や伊勢神宮を訪れることには、

いったいどんな意味が隠されているのでしょうか…。

 

陰の聖地から運ばれた白い石英のお白石、

モーゼとともにやってきた十戒の石板、

さらには倭姫の手で置かれたであろう

「八咫鏡」と呼ばれる黒味を帯びた石鏡。

古代イスラエルに縁がある石たちは、

強烈な「陽のエネルギー」により、

伊雑宮に集められたのかもしれません。


陰と陽の和合

2017-10-02 10:10:12 | 白山信仰・楠と白石

<伊雑宮 いざわのみや>

 

「西洋は石の文化」と言われるように、

西洋の建造物のほとんどは石造りです。

伊勢神宮をはじめとする

日本の「木の文化」とは

およそ対極にある「石の文化」は、

ユダヤの秘密組織「イシヤ」を

連想させる言葉でもあります。

 

石の文化圏を出発したモーゼ一行は、

「陰」の象徴である石板とともに、

東方にある約束の地を目指しました。

もしかすると、モーゼの東への帰還は、

陰の地から採取した石を陽の地へ届ける

壮大なご神事の一環だったのでしょうか…。

 

一説によりますと、一行が最終的にたどり着いたのは、

伊勢よりもさらに東に位置する伊雑宮だったそうです。

内宮の創建の遥か以前から、

天照太御神を祀っていた「陽の聖地」に、

「陰の石板」が置かれたその瞬間、

計り知れないほど強力な

「陰と陽の和合」が完了したのかもしれません。


導きの石

2017-10-01 09:09:03 | 白山信仰・楠と白石

<貴船神社・白石社>

 

多種多様な性質を持つ鉱物の中でも、

特に風化しにくいと言われているのが石英系の石です。

もし、かの有名なモーゼの十戒石に、

石英が使用されていたと仮定するなら、

「数千年後に石板が発見されること」を見越して、

あえて原型を残すような石を選んだとも考えられます。

 

恐らく、白山の麓を通過したモーゼの一行は、

さらに東にある楽園を目指して旅を続けたのでしょう。

貴船神社・上賀茂神社・下鴨神社・多賀大社など、

モーゼをはじめとする古代イスラエルの人々が、

旅の途中で立ち寄ったと思われるエリアには、

白石に縁のある社やユダヤの風習が残っています。

 

太古の時代、陰の地から陽の地へと、

石英の白石を運んだ古代日本人の痕跡は、

モーゼの懐に抱かれた同じ石英の十戒石と共鳴し、

次に向かうべき道筋を示したのかもしれません。

そして数千年後の生きる私たちを救うため、

石板をしかるべき場所に置いたのだと思われます。


アークの到達地

2017-09-30 09:09:00 | 白山信仰・楠と白石

<白山中居神社 はくさんちゅうきょじんじゃ> 

 

サファイア、ラピスラズリ、メノウ、大理石…等々、

モーゼの十戒が刻まれた石板の材質に関しては、

古今東西様々な憶測が飛び交っておりますが、

実は十戒が刻まれていたとされる石板は、

「石英の石」ではなかったかという説が、

可能性のひとつとして囁かれております。

 

シナイ山で刻んだ十戒石とともに、

モーゼが能登半島付近に上陸したとされるのは、

神武天皇が来日する数百年以上もの前のこと。

石板を収めた契約の箱が大陸を通過する際、

立ち寄った土地に「石英信仰」を残したと考えると、

チャン族などに残る伝承の裏付けにもなるでしょう。

 

ちなみに、十戒石と八咫鏡とは別物であり、

モーゼが運んできたのは、三種の神器ではなく、

石板のみが収められた箱だったと思われます。

白山一帯に散らばる石英の石を見つけたとき、

「アークの到達地」が近づいていることを、

はっきりと悟ったのかもしれません。


白山と契約の箱

2017-09-29 09:06:06 | 白山信仰・楠と白石

<白山市>

 

白山の登山道や麓の河原に落ちている白い丸石が、

オーソコーツァイトという石英系の石だと知ったとき、

ふいに思い浮かんだのは「契約の箱」のことでした。

「失われたアーク」とも呼ばれるこの箱の中には、

モーゼの十戒が刻まれた石板が入っており、

その詳細や現在の所在地に関しては、

今なお様々な憶測が流れています。

 

白山を「船玉を祀る山」として崇める能登の一帯には、

モーゼの墓を筆頭に、一行の痕跡が多数残っており、

「戦後GHQが極秘で発掘調査を行なった」

という噂が、まことしやかに流れているほどです。

モーゼが眠るとされる宝達山という名称や、

七尾市で行われる青柏祭というお祭りに関しても、

祇園祭などと同様、イスラエル色を強く感じます。


太陽の登る方角へ

2017-09-28 10:03:32 | 白山信仰・楠と白石

<伊雑宮 いざわのみや>

 

船玉の神が宿る白石を聖地に奉納することで、

陰と陽の循環が起こり、神と人は再生します。

山々の峯の陰に船玉の神が潜んでいるように、

船玉は「陰」の性質を帯びた存在なのです。

白石の中でも特に、白山周辺に残る玉石は、

「古さ」という意味でも群を抜いており、

「陰」が極まった石と言えるでしょう。

 

オーソコーツァイトが見つかるほどの

古い時代の地層が残る場所には、

古い時代の神様が隠れています。

白石に宿った古い神様の魂を抱きながら、

人々は「太陽の登る方角へ」向かって歩いたのです。

もしかすると、伊雑宮が建つ地面の下には、

今も古代の白玉石が眠っているのかもしれません。


お白石の原型

2017-09-27 10:00:36 | 白山信仰・楠と白石

<伊雑宮 いざわのみや>

 

一説によりますと、渡来人が来日した際、

すでに日本では「白石奉納の神事」が

土着の信仰として根付いていたという話があります。

伊勢神宮のお白石持ち行事(の原型)も、

かなり古くから執り行われていた可能性が高く、

古代より「陰の地」にある石英系の白石を採取し、

伊勢の聖地に奉納していた人々がいたのでしょう。

 

鎌倉時代の文献の中に、

お白石の起源に関する内容として、

「内宮の瑞垣内に白石を敷いた」

という記録が残っているそうですが、

外宮に関しての記述が見られるのは、

さらに100年ほど時代が下ってからのことで、

最初は石ではなく「砂」が代用されていたそうです。

 

言うなれば「陰の聖地」である外宮という場所は、

お白石を持ち込む側の位置にあるため、

白石の風習が神事として定着するまで、

しばらく時間がかかったのかもしれません。

本来は古代の「陽の聖地」である伊雑宮に、

陰の気がこもった白石を奉納する習慣が、

お白石持ちの原型だった可能性もあります。


最後の石英

2017-09-26 09:58:40 | 白山信仰・楠と白石

<白山市>

 

「船玉の神」への信仰を広めたのは、

主に海人族の人々だったと思われます。

神武天皇が日本へと到着する以前から、

すでに日本に戻ってきていた渡来人たちが、

風化しにくい「石英系の石」に古の息吹を感じ、

その中でも特に白さが際立つものを、

「聖なる石」と崇めたのでしょう。

 

南方から太平洋側に上陸した人々と同様、

日本海側から白山周辺にたどり着いた人々は、

ユーラシア大陸を通過しながら、

各地に石英への信仰の痕跡を残し、

ようやく踏み入れた日本の地で、

求め続けていた「最後の石英」に

巡り合ったのだと思われます。

 

彼らが白山一帯に散らばる白石の中に見たのは、

「古い祖先の魂」だったのかもしれません。


第三のモノ

2017-09-25 09:55:34 | 白山信仰・楠と白石

<白山市>

 

よく、谷や岩の割れ目の形は、

女性の象徴に例えられますが、

山と山とが重なる谷間には、

「新たなるもの」が生じるそうです。

谷底や岩底に集められた様々な成分は、

「第三のモノ」を創造する力で満ちているため、

遥か古代の時代から神秘現象を

引き起こしてきたのでしょう。

 

「陰陽」のシンボル的存在である

イザナギ・イザナミの両神は、

天鳥船神(船玉)を産み出しました。

白い石が置かれた聖地の多くに、

イザナミ神が祀られているのも、

単なる迷信や古い風習などではなく、

その一帯に神秘の力が宿っていることを

はっきりと感じ取っていたのだと思います。

 

もしかするとこれこそが、縄文人が祀ってきた

「船玉」の正体なのかもしれません。


山と船玉

2017-09-24 09:53:04 | 白山信仰・楠と白石

<石徹白>

 

白山と言えば「山の神」の印象がありますが、

日本海を航行する際の指標となる

「海の神」としての特色をも併せ持っています。

実際に、白山がよく見える場所の多くが、

能登半島周辺に点在していると聞きますし、

地元の漁民はもちろんのこと、

日本海を渡ってやってきた渡来人にとっても、

命運を左右する重要な山だったのでしょう。

 

ちなみに、白州正子さんの著書の一文に、

「山と山が重なる影のところに魚が集まる…」

との伝承が、熊野に残っていたと書かれています。

近隣の漁民は、それらの山々を神山として崇め、

白い丸石を船玉と呼び大切にしているそうです。

もしかすると、熊野の山々と同様に、

深い山が連なる白山の周辺の白玉石にも、

船玉の神が宿っていたのかもしれません。


あの世の入り口

2017-09-23 09:51:52 | 白山信仰・楠と白石

<白山中居神社 はくさんちゅうきょじんじゃ>

 

白山中居神社の主祭神である

イザナギ・イザナミの両神が絶縁したのは、

あの世とこの世とをつなぐ「黄泉平坂」でした。

その際、二神の境界に置かれたといわれる千引岩は、

現在白山中居神社の参道の坂の上にあり、

「俗世」と「神域」を分けるとともに、

「現世」と「黄泉の国」との境を示しています。

 

「白」が黄泉の国を意味するとすれば、

白雲たなびく白山中居神社という場所は、

まさに「あの世」の入り口なのでしょう。

白い玉砂利に囲まれた古い磐座を眺めながら、

やがて訪れるであろう石徹白の厳しい冬を想像し、

この地に「白」が集まる理由について、

つらつらと思いを馳せてしまいました。


著き場所

2017-09-22 10:33:00 | 白山信仰・楠と白石

<白山中居神社 はくさんちゅうきょじんじゃ>

 

「白し」は「著し(しるし)」

と同じ意味で使われると聞きます。

神社や聖域に敷かれた白石は、

「特殊な場」を示す目印のようなもので、

遠方眺めたり、暗闇の中で眺めたりした際、

白石が白く浮き立つように見えることから、

聖域を「著き場所」と呼んだのだそうです。

つまり、「いとしろし」というのは、

「たいへん際立っている」という意味であり、

イザナギが石徹白の地を見て感嘆したのは、

ひときわ目立つ「白い何か」があったからなのでしょう。

 

以前の記事で、神域に白石を敷く風習は、

「浜の再現である」という説を取り上げましたが、

古い時代、この山深い石徹白の周辺にも、

白い浜石によく似た白山の石が存在したはずです。

恐らく、大陸の浜石をルーツに持つ

白山の太古の石(オーソコーツァイト)の中には、

海の力と山の力を掛け合わせたような、

強い神力が宿っていたのだと思われます。

「石」徹「白」という地名に秘められていたのは、

遠い昔この地で行われていた

「白石のしきたり」だったのかもしれません。


いとしろし

2017-09-21 10:30:40 | 白山信仰・楠と白石

<白山中居神社 はくさんちゅうきょじんじゃ>

 

「いとしろし」

白雲たなびくこの地を山頂から眺め、

イザナギが発したこの言葉が発端となり、

白山中居神社が鎮座する土地の名称が、

石徹白と呼ばれるようになったと聞きます。

ちなみに、白山中居神社の社記には、

イザナギとイザナミの別れの場面で登場する、

千引岩・許等度・白雲から一文字ずつとって、

石徹白と名付けられたと書かれていますが、

中居神社の宮司さんとの会話の中で感じたのは、

遥か神話の時代から、「白」という色が、

この地にとって特別な意味を持つということでした。

 

「白き山」である白山の周囲には、

「白峰」「白鳥」「白川」…等々、

「白」と名のつく地名がたくさん点在します。

そしてこの地の深いところでは、白い石英の礫が、

長きに渡る白山の物語を無言で伝えています。

もしかすると「いと白し」輝きを放っていたのは、

白山を彩る白い玉石のことだったのでしょうか…。

中居神社の境内を流れる禊の川に目をやると、

そこには大小様々な白い石たちが、

人間の思惑などまるで無関心な様子で、

ただ静かに水の流れを作っていました。


菊理媛の風

2017-09-20 10:28:00 | 白山信仰・楠と白石

<白山中居神社 はくさんちゅうきょじんじゃ>

 

白山中居神社のご本殿を目の前にして、

久々にこの地を訪れた感慨に浸りながら、

その場に立ち尽くしていたとき、

ふいに下にある社殿のほうから、

誰かが出てくる気配を感じました。

人影があらわれた方向へと視線を動かすと、

白い装束をつけた男性がこちらを見ています。

「人は常駐していない」と聞いていたので、

少々疑問に思いつつも挨拶をして近寄り、

「お札がもらえるかどうか」尋ねてみたところ、

その方は快く社殿の中へと招き入れてくれたのです。

 

訪れた当日、たまたま御祈祷の予約があり、

早めに来て準備をしていたという宮司さんは、

遠方からの参拝を労いながら、

時間が許す限り話を聞かせてくださいました。

前回来たときは、固く閉じられていた

菊理媛大神(くくりひめのおおかみ)

をお祀りする社殿の壁一面には、

お祭りの様子を描いた絵などが奉納され、

地元の人からの厚い崇敬心を感じさせます。

その日は、気温30度を超す蒸し暑さだったのですが、

社殿の中には絶え間なく涼風が吹き込んでいました。


古いままの空気

2017-09-19 10:22:55 | 白山信仰・楠と白石

<白山中居神社 はくさんちゅうきょじんじゃ>

 

多くの場合、神社の知名度が上がり、

大勢の参拝者が訪れることによって、

「聖域の空気」が変わるのが常です。

特に、それまで「知る人ぞ知る」的な

立ち位置に置かれていた中小の神社に、

様々な思惑を持った人々が集まると、

神社側の対応が追い付かなかったり、

商売のほうに力を入れすぎたりして、

不本意な経過をたどるケースも、

少なからず見受けられます。

 

白山中居神社の社殿へと続く橋を渡り、

石段を登ってご本殿の姿を目にした瞬間、

「あーここは何も変わっていない」という

安堵の思いが湧きあがってまいりました。

数年前の豪雪被害で、いくつかの社殿が倒壊し、

新たに立て直されたという話ですが、

よい意味で古いままの空気が残っています。

整然と整えられた磐座の周囲に、

一面に敷かれた白い玉砂利も、

古来の白山の姿を思い起こさせる光景でした。