たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

一の宮

2020-09-30 09:03:14 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.31 *****

実を言いますと、「一の宮」という存在に対しては、

これまでさほど意識していたわけではなく、

特に「古代史」や「地域の氏神」

に関心が向けられてからは、

一の宮参拝はどことなく「後回し」

「おざなり」になっていた感は否めません。

 

それでも、旅に出かけた折には、

必ずその地域の一の宮に出向くのが習わしで、

最初に参拝できない場合は、

旅の行程のどこかで一の宮の神様に挨拶をした上で、

近隣の神社を巡るように心がけておる次第。

いつからそういった習慣を取り入れるようになったのか、

記憶は定かではありませんが、恐らくは神社を訪れる中で、

無意識に切り始めた神様への「仁義」だったのでしょう。

 

言うなれば、旅行者というのは「よそ者」であり、

さらにその「よそ者」が大事な神域に

足を踏み入れるわけですから、

土地の神々にとっては千万迷惑な話です。

一見善行のように見える神社巡りも、

実は見えない危険と隣り合わせのイベントでもあるゆえ、

それらのリスクを最小限に抑える策として、

いつの頃からか「一の宮への挨拶」が

私の中では定番となったのでありました。


深遠な歴史

2020-09-29 09:00:30 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.30 *****

この春から夏にかけて、

全国各地の神社のお祭りが軒並み中止となり、

またお祭りのみならず拝観自体を

停止した神社も少なくありませんでした。

恐らく、中心となる「神事」は執り行われたはずですが、

「国レベル」の運気を左右する重要なお祭りが、

あちこちで中止を余儀なくされた影響は、

今後謙虚に現れてくるのでしょう。

と同時に、もともとの「核」であった「神事」を、

関係者のみで粛々と催行できたことに関しては、

「祭り」の基本に立ち返る意味でも

必然の出来事だったとも言えます。

 

ちなみに私自身、年頭から始まった

「コロナ自粛」の影響を受ける中で、

タイミングを見計らいながら

いくつかの神社を巡ってまいりました。

ただし、高齢者の多い過疎地の集落を

訪れるのは気が引けたため、

広々とした駐車場や境内を有する「一の宮」や、

それに準ずる神社がメインとなったことから、

「一の宮」という神社の役割について

改めて考えているところございます。

恐らくそこには、表向きの由緒からは

わからない「深遠な歴史」が隠されて

いるような気がしてならないのです。


歴史的な転換点

2020-09-28 09:54:14 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.29 *****

今年の夏は「台風」の発生が極端に少なく、

今ところ人的被害は最小限に抑えられております

(7月の九州豪雨により被害に遭われた方、

豪雨等で被災された方にはお見舞い申し上げます)。

また、ここ数ヶ月は目立った地震も発生せず、

水面下で鳴りを潜めている様子が伺えることから、

個人的には「嵐の前の静けさ」

に戦々恐々としている昨今。

 

聞くところによりますと、

11月ごろからは再び新型コロナウイルスが、

バージョンアップをしながら猛威を振るい始め、

世界情勢(特に米中関係)に関しても、

一色触発の状態が誰の目から見ても

明らかになるとのこと……。

 

つまり、夏の猛暑が落ち着き、

台風の発生数も少ない今は、

「限られた静寂の時」なのかもしれません。

そんな「歴史的な転換点」において、

日本という国と日本人に求められているのは、

「自然との媒介役」そして「実践力のある祈り」

なのだと個人的には考えております。

 

ということでここで今一度、

「神社」と「災害」というテーマを元に、

私たちに与えられた役目について

じっくりと考察してみることにしましょう。

*途中で別のテーマに差し替える

かもしれませんがご了承ください


再び現世へ

2020-09-27 09:49:18 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.28 *****

初夏から初秋にかけての4ヶ月。

古代の出雲に妄想の旅へと出発し、

様々なイメージを広げてまいりました。

2年前に出雲へ来訪した時の様子を思い浮かべながら、

古代の出雲を俯瞰していくうちに、

そのときは気付かなかったたくさんの事象が、

時が来るのを待っていたかのように、

次々と浮かび上がってくるのが印象的でした。

 

まあ、ほとんどが素人の勝手な想像ゆえ、

話半分に読んでいただければとは思いますが、

近代日本(神武以降)が出来上がる以前に、

「イズモ時代」とでも呼ぶべき、

太古の神々が生き生きと躍動した一時代があったことを、

頭の片隅にでも入れておいていただければ幸いです。

 

もしかすると、これからイズモ時代に

活躍した神々が永い眠りから覚め、

私たちにその実在を示し始めるのでしょう。

逆に言うと「天津神」だけでは、

今の日本が置かれている状況を

抑えきれなくなっているのかもしれません。

ゆえに、まだまだ「出雲」に関しての

ネタは尽きないものの、

ここで一旦古代出雲の世界から離れ、

現世に引き返してみたいと思います。


天孫降臨の舞台

2020-09-26 09:36:50 | 古代の出雲

<鳥屋神社 とやじんじゃ>

 

『古事記』の中でも最大の謎のひとつと

いわれているのが、「なぜ天孫降臨の舞台が

出雲ではなく日向だったのか」という問題です。

もし仮に、出雲で「国譲り」が行われたとすれば、

わざわざ遠い九州を「天孫降臨」の地に

選ばなくても良さそうなものですが、

古事記の編纂者たちは出雲の名を

降臨地として記すことは避けました。

 

もしかすると、「国譲り」が完了してからも、

出雲には「出雲族」の流れを汲む人が多数残り、

自らの神への崇敬を維持するなど、

いわゆる「反乱分子」が存在していたのでしょうか……。

あるいは、「国譲り」の真相を知る編纂者が、

あえてそれ以降の出雲を封印することで、

逆に「出雲族(の尊厳)」を守った

という可能性も考えられます。

 

いずれにせよ、タケミナカタの一族は、

戦乱により力を削がれた出雲の各部族に代わり、

「ワラヘビ」祭祀などにその痕跡を残しながら、

長い年月に渡り「出雲の荒神」

を守護してきたのかもしれません。


敵と味方

2020-09-25 09:34:31 | 古代の出雲

<鳥屋神社 とやじんじゃ>

 

考えてみますと、縄文後期から弥生時代

にかけての九州北部や近畿地方は、

常に「渡来の波」にさらされてきたエリアでした。

神武天皇が奈良に向けて東征した際、

日向から北九州、瀬戸内海の各都市を通り、

難波の碕に到着したわけですが、

長髄彦軍と生駒山あたりで対戦するにあたり、

各地の「神武側」に付いた土着豪族が、

神武一行に加勢し手筈を整えていたとも聞きます。

 

これを古代の出雲に当てはめれば、

九州北部の「出雲族」はもちろん、

近畿地方の「出雲族」、さらには

出雲国内の一部の「出雲族」までもが、

イザという段階になって「天津神側」

もしくは「出雲と敵対する側」に

帰順・混交した可能性も否定できません。

 

もしかすると、タケミナカタの一族は、

出雲内でのイザコザ(国譲りなど)の結果、

すでに出雲を去って諏訪に引き籠っていたため、

結果的に天津神側と一定の距離を

置く結果となったのでしょうか……。

そして、諸々の争いが終わったのち、

タケミナカタの子孫は再度出雲に戻り、

出雲族の痕跡であった荒神谷遺跡と

加茂岩倉遺跡の青銅器を管理する「塞ノ神」として、

「御射山」を奉斎したと想像すると、

個人的にはしっくりくるような気がするのです。


荒神の証

2020-09-24 09:31:11 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

出雲の荒神谷遺跡および

加茂岩倉遺跡から出土した青銅器のうち、

出雲製と推定される銅剣のほとんどと、

近畿製と推定される銅鐸の一部に

「×」印がつけられている一方で、

北部九州製と推定される銅矛には、

「×」印が刻印されたものはありませんでした。

 

これらのデータを踏まえれば、

北部九州産の銅矛には「×」印、

つまり「荒神の証」を付ける必要がなかった、

という意味にも受け取れますね。

 

同様に、出雲産の銅剣の14本と、

近畿産銅鐸の31個にも、

「荒神の証」が見られないことから、

これらを持ち込んだ(あるいは提供した)一族は、

何らかの理由で「荒神」への信仰を

放棄したとも想像できます(逆もしかり)。

 

つまり、出雲に危機が迫り、

各地の「イズモの国々」が出雲へと集結する中で、

「相手側」に恭順することを選んだ一族と、

最後まで出雲のために戦った一族とを区別するために、

荒神を意味する「×」印を

刻んだのではないかという妄想が、

個人的には沸き上がってくるのです。


交錯する文化圏

2020-09-23 09:27:50 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

荒神谷遺跡が発見されるまで、

考古学者の間では「銅鐸と銅矛は

一緒に出土しない」という説が一般的でした。

何でも、青銅器の出土量が少なかった時代は、

銅矛は主に北九州周辺、

銅鐸は近畿から東海地方の地域……と、

それぞれ単独で出土する傾向が見られたため、

銅矛・銅剣文化圏と銅鐸文化圏という二つの文化圏は、

決して重ならないと考えられていたのだとか……。

しかし、荒神谷遺跡の一件などにより、

これらの説は否定され、銅矛・銅剣祭祀と

銅鐸祭祀の両方を行う地域の存在が

明らかになったと聞きます。

 

そんな、考古学界の常識に一石を

投じた出雲の荒神谷遺跡ですが、

出土した青銅器はそれぞれ、銅剣が出雲製、

銅矛が北部九州製、銅鐸のほとんどが

近畿製(加茂岩倉遺跡も同様)でした。

このことから、出雲国が西日本の各地と

強い結びつきを持っていたことはもちろん、

西日本の各地から青銅器を管理する

「一族の長」レベルの人々が、

この地に集まって来た可能性が伺えるのです。


出雲族の集結地

2020-09-22 09:24:43 | 古代の出雲

<出雲市武志町>

 

もし仮に、斐伊川下流の多芸志の小浜で

「国譲りの交渉」が行われていたとするなら、

荒神谷遺跡から加茂岩倉遺跡にかけての一帯は、

「出雲族」が大挙して集まり、事の成り行きを

見守っていた場所だったのかもしれません。

そして、イザというときの決戦に備えて、

二つの遺跡に「武器」や「祭祀具」などを

保管していた可能性もあるのでしょう。

となると、青銅器に刻まれた「×」印とは、

「出雲族」の人々によって刻まれた記号

ということになりますが、果たして事の真相は

どのようなものだったのでしょうか……。

 

ちなみに、荒神谷遺跡から青銅器が出土した際、

344本もの銅剣に「×」の刻印が記されていた一方で、

同時に見つかった16本の銅矛には、

「×」の刻印がまったく記されていませんでした。

もし仮に、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡を

「同一部族が管理していた」のであれば、

何らかの理由で銅矛にだけ「×」印を

刻印しなかったという捉え方もできますね。


現在進行形の神話

2020-09-21 09:21:08 | 古代の出雲

<膳夫神社 かしわでじんじゃ>

 

国譲り後の宴が行われたとされる

「多芸志の小浜」には、櫛八玉神(くしやたまのかみ)

を祀る膳夫神社(かしわでじんじゃ)の跡地があります。

何でも、「天津神」をもてなすための

料理を任された櫛八玉神は、

まず「鵜に変身して海に潜り、

取ってきた海底の土から土器を作り、

わかめの茎で臼、昆布の茎で杵を作ったのち、

その臼と杵で火を起こした」のだとか……。

 

櫛八玉神が「水戸神」の子であることや、

名称に渡来系海人族を暗示する「櫛」、

出雲族の聖数である「8」が

含まれていることをなど踏まえれば、

恐らくは天津神に恭順した

出雲側の氏族を暗示した名なのでしょう。

 

一説に、この宴には敗者である

「大国主神」も加わり、天津神との間で

「和解」が成立したとも言われておりますが、

その後の出雲の歴史を見れば、

「国譲り」が決して「キレイごと」では

終わらなかった現実が見て取れます。

 

その後、斐伊川下流の形状は治水工事などで

大きく変わったものの、

川を挟んで「天津神側」と「国津神側」

の神々が向かい合っている構図は、

神話の国譲りが未だ「現在進行形」

のものとして、イズモの国に根を

張っているような光景にも思えました。


櫛八玉神

2020-09-20 09:17:42 | 古代の出雲

<鹿島神社 かしまじんじゃ>

 

『古事記』に記された

「多芸志の小浜(たぎしのおばま)」

に相当する出雲市武志町では、

国譲りの成立を祝う宴会が

開かれたという言い伝えが残ります。

多芸志の小浜はタケミナカタが

祀られていた鳥屋神社から、

斐伊川を挟んでちょうど対岸付近にあたり、

堤防の向こうにはタケミナカタと戦った

タケミカヅチをご祭神とする

「鹿島神社」が鎮座していました。

 

ちなみに、鹿島神社に祀られているのは、

タケミカヅチと経津主命(ふつぬし)、

天鳥船命(あめのとりふね)、

そして櫛八玉神(くしやたまのかみ)の4柱です。

大国主神に国譲りを迫った三柱の神が、

「鹿島」と名の付く神社に祀られているのは

わかりますが、櫛八玉神という少々聞きなれない

神様の由緒が気になるところですね。

 

実は、櫛八玉神という神は、上記の宴で

「タケミカヅチたちに料理を振る舞った」

とも言われる神様でして、もともとは

多芸志の小浜があった斐伊川の河川敷に、

この神を祀る社が建てられていたのだとか……。

しかしながら社殿は、斐伊川の氾濫により

流されてしまい、現在はこちらの

鹿島神社に合祀されたと聞きました。


鳥屋神社

2020-09-19 09:15:01 | 古代の出雲

<鳥屋神社 とやじんじゃ>

 

荒神谷の一帯以外にも、

タケミナカタをご祭神とする神社が、

四方を田んぼに囲まれた出雲平野に鎮座していました。

「鳥屋神社(とやじんじゃ)」と呼ばれるその社は、

まるで田園に浮かぶ小島のような社叢が目印で、

すぐそばには出雲を代表する

大河・斐伊川が流れております。

 

何でもこの社は、古事記に記される

「国譲り神話」と深い関わりがあり、

天津神の使者であるタケミカヅチと

力比べ(多芸志の小汀の決戦)をした際、

大国主命の子であるタケミナカタが投げた

「千引きの岩」が落ちたところなのだとか……。

そのとき岩にたくさんの白鳥が群がり、

まるで鳥小屋のように見えたことから、

「鳥屋」という地名が付けられたそうです。

 

ちなみに、縄文海進の時代この一帯は

「海(もしくは湿地帯)」だったと

思われる場所ゆえ、神社が建てられたのは

少なくとも「国引き」の後なのでしょう。

一説に、出雲国内で元から

タケミナカタをご祭神とするのは、

こちらの「鳥屋神社」だけという話もありますが、

もしそれが本当なら「タケミナカタ」という神は、

縄文後期から弥生時代にかけて

「出雲に現れた」と推測することができますね。


荒神谷の管理者

2020-09-18 09:08:52 | 古代の出雲

<佐支多神社 さきたじんじゃ>

 

諏訪地方のお祭りや「御射山」

の神事などからもわかるように、

タケミナカタの一族は「御柱」

「武器」「動物供犠」……など、

日本古来の祭祀とは異なる習俗に

関与する人々だったのかもしれません。

恐らく、出雲族の中でも「異質の存在」、

あるいは渡来系部族の中でも

「特殊な立ち位置」の一族として、

出雲の人々の間では認知されていたのでしょう。

諏訪一帯では、銅鐸ではなく鉄鐸(さなぎ)を

製造していたことなどを考え合わせても、

タケミナカタらが持ち込んだ文化は、

当時のイズモの「定番」から

外れていた可能性もありそうです。

 

ちなみに、古代の荒神谷周辺の様子を

「空想」していく中で思い浮かんだのは、

タケミナカタの一族が、青銅器の「×」印と

関連するのではないかというイメージでした。

荒神谷に鎮座する「三宝荒神」のご祭神の中には、

スサノオや大地主命とともに

タケミナカタが含まれていましたが、

タケミナカタが「荒神」および

荒神谷の神宝を管理する立場だった考えると、

どことなく辻褄が合ってまいります。

荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の青銅器に

刻印された「×」の謎を知る人々……、

それこそがタケミナカタの

一族だったのかもしれません。


異質の存在

2020-09-17 09:01:00 | 古代の出雲

<佐支多神社 さきたじんじゃ>

 

考えてみますと、出雲神話における

タケミナカタの振る舞いは、父親である

「大国主神」の意向とは相反するものでした。

大国主神やもうひとりの子である「事代主神」

が見せた、天津神への「国譲り」を

容認したかのような態度とは裏腹に、

タケミナカタだけは天津神の使者である

「タケミカヅチ」と真っ向から勝負し、

半ば強制的に出雲を追われる

羽目になったと読み取れるのです。

 

まあ、「国譲り」に関しては

様々な捉え方ができますので、

「これが正解」というものはありませんが、

ひとつの可能性としてあげるなら、

タケミナカタ一族は出雲(および出雲の財宝)

に最後まで固執していたか、

あるいは「出雲族」の中でも

異質な存在だったと考えられるのでしょう。

縄文中期から後期にかけて、

第二波の渡来民である様々な部族が縄文人と混交し、

いわゆる「国津神」が誕生する中で、

ルーツの異なる渡来部族の間では、

諸々の軋轢が発生していたのかもしれません。


荒神のお宝

2020-09-16 09:56:31 | 古代の出雲

<佐支多神社 さきたじんじゃ>

 

諏訪大社の旧摂社である二つの御射山神社では、

御射山神事と呼ばれる神事が行われ、

諏訪大社に祀られるタケミナカタの御魂が、

御射山の神々(国之常立神)へ挨拶をするために、

これらの神社までやってくると聞きます。

また、このお祭りの中では、

ウナギやドジョウ(長物)を

池に放つ行事があるそうですから、

タケミナカタという神と「龍蛇族」

とのつながりも気になるところですね。

 

ちなみに、以前のブログ内で、

「タケミナカタは大国主神に仕えた

最後の氏族であり、結界を守護する

塞ノ神だったのではないか」と書きましたが、

仮に、これらを出雲の御射山に当てはめるなら、

タケミナカタという存在は、大国主神の親神

である「国之常立神」を祭祀する一族で、

佐支多神社の鎮座する御射山一帯には、

国之常立神と「荒神のお宝」を守るための

結界が張られていたというイメージもわきます。

 

タケミナカタの一族が出雲から追われ、

出雲の歴史から抹殺されてしまったのも、

もしかするとこの地で起きた

「砂鉄」や「青銅器」などの「財宝」

を巡る攻防がきっかけとなったのでしょうか……。