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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

余計なエゴ

2017-08-17 09:55:00 | 神社について

<静川・高倉神社 しずかわたかくらじんじゃ>

 

これから日本に訪れるであろう

様々な試練を乗り越えるためには、

日本人が神社の存在意義を見直すことと、

全国各地の神社を存続することが必要です。

現在、地域の神社をお守りしていた人たちが、

高齢化でその役目を担えなくなっており、

旅行先であちこちの神社を訪れるたびに、

「大切な場所」が寂れて行く姿を目にします。

 

縁ある人たちが、縁ある神社を訪れて、

「静かに」感謝の気持ちを捧げることは、

少なからず地域の未来に影響するのでしょう。

私たちが、神社や聖域をお参りする際には、

パフォーマンスなど必要なく、ただひっそりと

心の中で神への感謝を捧げることが最善です。

神域で特別なことをしようと思うその心が、

神様にとっては「余計なエゴ」なのですね。


選民意識

2017-08-16 10:16:03 | 神社について

<国立民族学博物館>

 

ときどき、神社や自然信仰の対象の前で、

笛や歌や舞を奉納するなどして、

神様や精霊を慰めるための儀式を

執り行っている人たちを見かけます。

さらには、その内容をインターネットに載せ、

イベントの告知をしたり、参加者を募ったり

しているグループも、数多く存在しています。

 

もちろん、地元の人たちが行うお祭りや、

神職の方が行うご神事は大切です。

また、規模の大きな神社の神楽殿などで、

音楽家や一般の人々が舞楽を演奏するのも、

地域の活性化の一環と考えれば重要でしょう。

 

ただ、滅多に人が訪れないような特殊な場所で、

「他所の一般人」が、そのような行為を行えば、

神様や自然の精霊を活性化させるどころか、

本末転倒の結果にもなりやすいと感じます。

それらの行為の大元には、「自分は特別」という

選民意識が潜んでいる場合がほとんどなのです。


氏神の正体

2017-08-14 10:09:06 | 神社について

<国立民族学博物館>

 

氏神というのは「土地の精霊」をお祀りする場所です。

日本全土に広がる氏神と呼ばれる神社をお参りすると、

必然的にその土地の自然=精霊を敬う行為になります。

氏神が守られ、氏神への信仰が保たれている地域は、

精霊の力が増し神様が干渉しやすくなるのでしょう。

 

聞くところによりますと、精霊という存在は、

私たちが想像しているほど神々しい姿ではなく、

いわゆる「物の怪」のような風貌をしているのだとか。

江戸時代や平安時代に街中を闊歩していた妖怪たちも、

実は精霊の仲間だったという話があります。

 

スピリチュアルの人たちが感じているのは、

神様とは異なる異質な存在がほとんどです。

神様の世界から見ると、神社に祈願している人間は、

奇怪な姿かたちをした「物の怪」を神と勘違いして、

熱心に拝んでいる不思議な生き物なのかもしれません。


真の聖域

2017-08-13 10:05:42 | 神社について

<那智勝浦町>

 

神社を訪れ神前で手を合わせる時間というのは、

実は神社参拝の最後の総仕上げの段階でして、

「この場所を見たい」「この神社に行ってみたい」

と思った瞬間から、すでにお参りは始まっています。

 

私自身、神社参拝の計画を立てる際には、

最大限の事前調査をするよう心がけているのですが、

それもこれも「調べる時間」そのものが、

神様と向き合うことだと思うからなのですね。

 

もちろん、人それぞれに合ったやり方がありますし、

「白紙の状態」で旅に出るのもまた楽しいものです。

ただ、あまりにも「運任せ」「神様任せ」の姿勢でいると、

やはりその安易な態度を神様に見られているとも感じます。

 

神宮のお祭りや正式参拝の様子を見てもわかるように、

神社は真剣な心で出向くべき「真の聖域」なのでしょう。


自分の真実

2017-08-12 10:10:45 | 神社について

<北山村>

 

「他人の目」「他人の感想」はあくまで、

その人のフィルターを通して見た景色で、

実際に受ける印象は人により千差万別です。

大切なのは「自分が何を感じるか」であり、

他人の世界の中に「自分の真実」はありません。

外の情報や意見は参考にはなりますが、

それが「絶対」ではないのですね。

 

神様や神社などの世界に関わりますと、

次第に「仲間」や「同士」が増え、

お約束のように集団行動を取り始めます。

ただし、神と人とは本来「一対一」の関係で、

信仰というものを突き詰めるほど、

「ひとり」にならざるを得ないものなのです。

神様や自然と向き合う際に、

一切「他人」は必要ないのでしょう。


本当の聖地

2017-08-11 10:04:57 | 神社について

<大山・高倉神社 おおやまたかくらじんじゃ>

 

「よい神社」の定義は人それぞれですが、

熊野地方の無社殿神社を巡っている最中、

その神域に足を踏み入れただけで、

まるで天から啓示が降りてきたかのように、

言葉が次々とあふれてくる場所がありました。

 

またそれとは逆に、どんなに巷の評価が高くても、

実際にそれらの地に自分の足で立ってみると、

「何かが違う」と違和感を覚えたことも間々あります。

他人の意見というのはあくまでもその人だけのもので、

一元的な見方で神社の善し悪しは決まらないのですね。

 

よく「合う場所」「合わない場所」などと言うように、

権威ある●●先生、有名な●●氏の見解を鵜呑みにせず、

自分自身の感覚に従うことが大切なのだと思います。

心の中から湧きあがる思いを大切することで、

自分にとっての「本当の聖地」が見つかるのでしょう。


素直な心

2017-08-09 10:16:39 | 神社について

<丹倉神社 あかぐらじんじゃ>

 

通常、神社についての記事を書く際、

まずはご由緒やご祭神の名前など並べ、

そこから導き出される神社の歴史などを、

「推測を交えながら」綴っていきます。

ゆえに、神社の資料が揃っているほど、

より史実に裏づけられた内容となり、

また、土地の伝承が残っているほど、

より詳細な文章になるものです。

 

ただ本来、神様が「感じる存在」ならば、

由緒や資料に頼り切りになると、

永遠に真実は見えてこないのでしょう。

いつからそこにあるのかすらわからない、

古い産土神のような場所を訪れたとき、

一番大切にしなければいけないのは、

神様の気配をありのままに映す

「素直な心」なのだと思います。


必要不可欠な能力

2017-08-08 10:12:26 | 神社について

<滝の拝・矢倉神社 たきのはいやぐらじんじゃ>

 

現代人の多くは、神から離れすぎたり、

あるいは神との距離が近すぎたりと、

神様との正しい距離感を保てずにいます。

自然信仰というのは、「人」と「神」とが

一体となってはじめて成立するもので、

「人」だけでも、逆に「神」だけでも、

成り立たないものなのでしょう。

 

神様というのは「私たちの祈り」を糧に、

その神威を高めて行く存在です。

自然を拝まなくなった人間や、

人間に拝まれなくなった土地が衰退していくのは、

言うなれば自然の道理でもあります。

これからの日本と日本人にとって、

人と神との一線を見極める能力こそ

必要不可欠なスキルなのかもしれません。


神社と防災

2016-11-28 10:10:37 | 神社について

<気仙沼・賀茂神社 かもじんじゃ>

 

今回は長い期間にわたり、

「神社と防災」というテーマで、

ブログの記事を綴っておりますが、

誤解を恐れずに言うならば、

「神や先祖の存在を知らせるために」

東日本大震災のような未曽有の大災害が

起きてしまった側面もあると感じます。

 

神をも畏れぬ心を持つようになった人間、

先祖の声に耳を傾けなくなった人間に対し、

自然を司る神々、そして東北の地に潜む国津神は、

災害により神社をむき出しの姿にすることで、

その存在を知らしめようとしたのでしょう。

 

あるデータによりますと、津波の被害を免れ、

社殿の形を残している神社は、

古くからその地に祀られている

「由緒不明の神社」がほとんどだったそうです。

逆に、諸々の人的な理由により、社殿を移した神社等は、

消失や全壊の被害に遭うケースが多かったと聞きます。

 

いずれにせよ、これからの防災を考える上で、

神社と災害との関わりは、無視できない貴重な歴史です。

多くの人々の命を救った神社をお参りしていますと、

土地土地の神様が、そのことの重要性を

指し示してくれているように感じました。


日本人の本能

2016-06-23 11:08:21 | 神社について

<香取神宮 かとりじんぐう>

 

鹿島・香取神宮がある場所というのは、

東京からほど近い距離にありながら、

少々交通の不便なところでもあります。

考えてみますと、熊野・出雲・白山…

などをはじめとする古代の聖地は、

ほとんどが「行きにくい場所」にあるもの。

ただその「行きにくさ」が幸いし、

数千年にも渡る長い間、貴重な自然や信仰が、

古代のままの様相を保っているのも事実です。

 

聖地というのは「わざわざ」行くからこそ、

その意義が増すという一面があり、

時間や労力や資金をやりくりしながら、

お参りしようとする気持ちが神様に通じます。

もちろんそれがすべてではありませんが、

他の様々な楽しみを二の次にして、

神社参拝を優先する心がけは、

やはり日本人の良心でもあり本能なのでしょう。


怨霊鎮め

2016-05-21 11:30:09 | 神社について

<貴船神社 きふねじんじゃ>

 

古来より日本では、「怨霊」と呼ばれる存在を鎮めるために、

数多くの神社仏閣が建てられました。

日本の三大怨霊として知られる

「菅原道真」「平将門」「崇徳天皇(上皇)」などの権力者から、

江戸時代の怪談話に登場する一般庶民に至るまで、

あまたの怨霊たちが「今なお」日常風景の一部として溶け込んでいます。

 

神社などの聖地が「祈願場所ではない」という理由も、

有名神社の多くが「怨霊鎮め」の側面を持っているからでして、

特に鎮めの神事を行った「禁則地」と呼ばれるエリアに、

一般人が入るには大変なリスクがあります。

神社側が祈願を推奨したり、禁則地を開放したりしているのは、

決してその場所が安全になったからではありません。

 

常に自然と向き合いながら暮らしてきた古代の人々は、

「どうすれば怨霊(故人)を慰められるか」を知っていました。

私たちが真摯に神社に参拝することで、

数千年もの間日本と日本人の命をつないでくれた、

名もなき尊い人々の魂が鎮まります。

「多くの犠牲の上で生かされている」という現実を、

私たちは決して忘れてはいけないのでしょう。


特別な聖地

2016-05-17 11:15:04 | 神社について

<京都市内>

 

登山しかり、パワスポ巡りしかり、スピリチュアル行為しかり、

とかく人間は、神様を感じるために、

「普段と違う特別なこと」をしたがる生き物です。

非日常の感覚を得ることを、

「神に近づくための方法だ」と思いこんでいる節があります。

確かに、山や聖地は特殊な磁場を持っていますが、

それはあくまで国家や地域のための聖域であって、

個人の願望や達成感のために利用する場所ではありません。

 

日本が他の国と決定的に違うのは、

田舎だけでなく大都会のありとあらゆる所にまで、

神社や鎮守の森が鎮座し、「神様の匂い」が充満していることです。

身近にある自然こそが、「その人のために用意された特別な聖地」であり、

これほど容易に神様との接点を持てる国は日本以外にはないでしょう。

いつも神様がそばにいることに気づかないのは、

私たちの人間のほうなのだと思いますよ。


心の贅

2016-05-10 11:07:03 | 神社について

<外宮 げぐう>

 

荘厳かつ煌びやかな宗教施設の中で、

神像や経典を神とあがめ信仰してきた西欧の人々が、

日本の神社を訪れて不思議に感じるのは、

「神を祀るにしては、あまりにも神殿が簡素すぎる」ということだそうです。

そして私たち日本人が、その何もない建物の空間に向かって、

「あたかも神様がそこにいるかのように」振る舞い、

丁寧に頭を下げる姿に非常に驚くと聞きます。

 

先日、伊勢神宮から下賜された

奉納品(神様に捧げる宝物)を観る機会があったのですが、

そこには王様や権力者への献上品とは一線を画す、

「心の贅」が備わっているような気がしました。

目に見えない対象に敬意を払える精神性というのは、

人間の持つ資質の中で「最も尊い」といわれています。

世界中の学者が日本人を「特別な人種」と称賛しているのも、

この「見えないものへの心づかい」を、

私たちが生まれながらに持っているからなのでしょう。


鏡の国

2016-05-03 10:35:17 | 神社について

<風日祈宮 かざひのみのみや>

 

ここ最近の世界情勢を観ておりますと、

「日本は鏡の国なのだな」とつくづく思います。

世界の大国や周辺国から、無理難題を押し付けられたり、

不公平な判断を下されたりしながらも、

冷静に対話をしながら妥協案を模索する様子は、

まさに天照大御神が子孫に託した 「八咫鏡」の教えそのものです。

 

皇室と伊勢神宮、そして全国の神社が保たれてきたからこそ、

千年以上もの長い間、日本という国は継続することができました。

皇室では日々、国と国民を守るご神事が執り行われ、

伊勢神宮では毎日神様への感謝が捧げられています。

私たちの暮らしを維持するために、

「一般人の目に触れない」陰の努力が、

今も日本のどこかで繰り返されているのですね。


危険な場所

2016-05-02 11:09:20 | 神社について

<狭井神社 さいじんじゃ>

 

宿泊先のホテルや旅館で、

目的の神社の場所などを訪ねますと、

「あそこはパワースポットですから、

ぜひ行ってみてください」と言われることがあります。

雑誌やネットの宣伝広告、さらには神社のHPの中にまで、

「パワースポット」や「癒し」という文句が飛び交いし、

今やパワースポットは観光名所のひとつになりました。

 

ただ、なぜ聖域の多くに結界が設けられているかといえば、

それは単純に「人間が立ち入れないエリア」だからです。

今雑誌やネットで取り上げられている有名なパワースポットの多くは、

ほんの数百年前であれば一般人が近づくことすらできなかった、

危険な場所でもあるのですね。

 

私たちが気軽に立ち入れるようになったからといって、

聖地が安全な場所になったわけでありません。

現代人が場を読む感覚を失っただけで、

知らず知らずのうちに、聖域に土足で踏み込んでいることも多々あります。

少なくとも聖地を訪れる際は、「入らせていただく」という謙虚な気持ちと、

不敬を侵さない心がけが大切なのでしょう。