たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

小高い丘

2018-07-31 09:10:51 | 阿波・忌部氏2

<多賀宮 たかのみや>

 

伊勢外宮の第一別宮である多賀宮の

「たか」の部分を「鷹」と置き換えると、

外宮と忌部氏との歴史上のつながりが、

より鮮明に浮かび上がるような気がします。

鷹を象徴とする「忌部氏」が、

自らの神様をお祀りするために、

多賀宮の創建を指示した可能性も、

決してゼロとは言えないのでしょう。

 

古代イスラエルとの関連が

噂される伊勢神宮の中でも、

「ユダヤ色」が強いとされるのが、

この多賀宮という特殊なお宮でして、

「世界一の超能力者」と称された

ブルガリアのベラ・コチェフスカさんも、

多賀宮の前で「ヤハウェが祀られている」

と地面にひれ伏して涙を流したそうです。

 

一説には「ご正殿より高いところにあるから

タカノミヤと呼ばれるようになった」

という話も聞きますが、もしかすると、

阿波国や紀伊国の神社で見られる

「異様に長い参道の石段」と同様、

忌部氏の「高所」へのこだわりが、

多賀宮が鎮座する「小高い丘」

を作り出したのかもしれません。


相殿神

2018-07-30 09:07:45 | 阿波・忌部氏2

<外宮 げぐう>

 

忌部氏と深い関係を持つ天石門別神、

別名・石穂押別命という神様は、

奈良の国栖の祖神であると同時に、

「豊受大神荒魂」でもあるのだそうです。

豊受太御神の荒魂は外宮の第一別宮である

多賀宮に鎮まっているとされますから、

もしこれが本当だとすれば、

多賀宮のご祭神は「忌部氏の神」

ということにもなりますね。

 

実は、伊勢内宮・外宮のご正殿には、

「相殿神(あいどのしん)」

と呼ばれる神様が祀られており、

内宮では、左に天手力男神と右に栲幡千千姫命

(もしくは、左に天児屋根命と右に太玉命)の二座。

外宮では、左にニニギ命、

右に天児屋根命と太玉命の三座が、

それぞれ主祭神とともに鎮座しています。

 

天照太御神と豊受太御神に従う形で、

ご本殿の両隣に祀られるこれらの神々は

伊勢神宮の公式資料にも載っておらず、

その存在は一般的には知られていません。

また、天手力男神だけでなく、

内宮の相殿神である栲幡千千姫命

(たくはたちぢひめのみこと)が、

忌部氏の祖神・天太玉命の母との噂があるのも、

神宮と忌部氏との関連を伺う上で、

無視できない説でしょう。


国栖の祖神

2018-07-29 09:05:22 | 阿波・忌部氏2

<吉野町・国栖>

 

土佐神社のご祭神・味鉏高彦根神の后神である

天津羽羽命という神様について、土佐国風土記では

「天石門別神の子どもだ」と記しています。

天石門別神(あまのいわとわけのかみ)は

別名・石穂押別命(いわほおしわくのみこと)とも言い、

記紀の天岩戸隠れの件で登場する、

天手力男命(あめのたぢからおのみこと)

とも同一視されているのだとか。

 

ちなみに、手力男神・天石門別神・思兼神の三神は、

ニニギが天孫降臨をする際、

三種の神器を守護したとされる神様で、

五伴緒神とともに高天原から天降りされました。

これまでの記事内でも、天石門別神と

忌部氏との関連について何度か書きましたが、

恐らく手力男神・天石門別神だけでなく思兼神も、

忌部氏とのつながりを持つ神なのかもしれません。

 

さらに、天石門別神の別名である

石穂押別命という名称を聞いて思い出すのは、

神武東征の物語の中で、神武一行が

奈良の山中で出会ったとされる

吉野の国栖の祖神のことです。

「私は国津神で、名を石押分之子(石穂押別命)。

天津神の御子の行幸と聞き、迎えに参じた」

と告げたその国栖の祖神(人物)は、

やはり忌部一族だったのでしょうか……。


土佐神社

2018-07-28 09:00:03 | 阿波・忌部氏2

<土佐神社 とさじんじゃ>

 

***** 忌部5/賀茂と淡路 ***** 

高知県香南市にある「絵金蔵」に立ち寄る前、

土佐国一の宮・土佐神社に参拝をしました。

絵金蔵の開館までには間があったため、

時間調整の目的で訪れたのですが、

帰宅後にいろいろと調べてみたところ、

土佐神社には忌部氏との深いつながりが

あることが判明したのです。

 

地元では「しなねさま(志那禰様)」

と呼ばれ親しまれている土佐神社には、

土佐三大祭のひとつ「志那禰祭(しなねまつり)」

という古いお祭りが伝わっています。

「しなね」の語源は、風神の「シナツヒコ」

から来たという説や、新稲祭(新嘗祭)の

「新稲」が転訛したなどの説があるのだとか。

 

ご祭神は、味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ) と、

一言主神(ひとことぬしのかみ)という、

大和の葛城山や賀茂氏に縁ある神様で、

土佐国の二の宮である朝倉神社には、

味鋤高彦根神の后神である

天津羽羽神(あまつははがみ)が祀られています。

 

味鋤高彦根神は長国の「積羽八重事代主神」と、

天津羽羽神は阿波国の「大宜都比売神」と

同一視されいることを考えても、

土佐神社という場所には、賀茂氏だけでなく、

忌部氏が関わっていた可能性も高いのでしょう。


阿波と讃岐

2018-07-27 09:12:34 | 阿波・忌部氏2

<粟井神社 あわいじんじゃ>

 

今回の阿波の旅の中で、

特に印象に残ったのが、

観音寺市の粟井神社でした。

阿波忌部の系列とは言え、

立地的には讃岐国に属していますから、

「時間があれば……」程度に考えていたのですが、

こちらの神社で宮司さんの話を伺ったことで、

旅の道中に積もり積もっていた疑問のヒントを、

いくつか手に入れられたような気がいたします。

 

恐らく、最後に粟井神社を訪れなければ、

「忌部氏」の概要すらつかめなかったでしょう。

「阿波の国」という対象を、「讃岐の国」

という少し離れた距離から眺めることで、

忌部氏が何を求めて日本にやってきたのか、

あるいは忌部氏が何を目的として、

日本全国に散って行ったのかが、

おぼろげながらも見えてきたような気がしました。

 

今回は、讃岐国のほんの一部の神社しか

お参りすることができませんでしたが、

機会があれば再び讃岐および四国の地を踏み、

忌部氏という名の謎の部族について、

さらに見識を深めたいと思っております。


杉尾と水銀

2018-07-26 09:08:24 | 阿波・忌部氏2

<粟井神社 あわいじんじゃ>

 

粟井神社の裏山は杉尾山と呼ばれ、

かつては「杉尾神社」が鎮座してしました。

杉尾という言葉を聞いて思い出すのは、

徳島県に点在する多数の杉尾神社のことです。

宮司さんから杉尾山の説明を受けたときは、

「このあたりは杉尾が多いな」程度の印象しか

なかったものの、改めて考えてみますと、

「杉尾」という文字には、古代の日本を語る上で、

無視できない何かが潜んでいるようにも感じます。

 

ちなみに現在、粟井神社の境内社

となっている杉尾神社のご祭神は、

少彦名神と大己貴命(大国主命)です。

杉尾山と水銀との関連は定かではありませんが、

どちらも天太玉命をお祀りする以前、

この地に鎮座していた地主神とも言われており、

鉱山と深い関りを持つ神様としても有名です。

「杉尾山=すいぎんのおやま」という連想も、

あながちこじつけではなのかもしれません。


葛の痕跡

2018-07-25 09:04:46 | 阿波・忌部氏2

<粟井神社 あわいじんじゃ>

 

粟井神社でいただいた資料の中に、

この地の古称である刈田郡の刈田は、

「葛多(かた)」とも表記した、

という内容が書かれていました。

通常であれば、葛多という地名は、

「植物の葛がたくさんとれた場所」

と解釈するのが妥当だと思いますが、

個人的に「葛」の文字を目にすると、

奈良県の「国栖」や「葛城」

などの地名を思い出します。

 

一説に、日本に「麻」が伝わる以前は、

「葛」から取れる繊維で布を織り、

衣類などに使用していたそうで、

「葛」「国栖」「九頭」「栗栖」

あるいは「楠」などを冠する場所は、

日本の先住民(縄文人の末裔)との

関連が深いと言われる土地です。

 

もしかすると、葛多という表記は、

もともとこの土地にいた先住民を

示す言葉なのでしょうか……。

それとも、のちにやってきた忌部氏が、

「葛」に関わっているのでしょうか……。

恐らく、先住民と渡来人との間の

因縁を暗示する重要なキーワードが、

「葛」という言葉の中に、

秘められているのかもしれません。


鎌紋

2018-07-24 09:01:47 | 阿波・忌部氏2

<粟井神社 あわいじんじゃ>

 

かつて刈田大明神と称した

観音寺市の粟井神社には、

ふたつの鎌が交差した「鎌紋」

と呼ばれる社紋が残されていました。

宮司さん曰く、この付近はその昔

「刈田郡」と呼ばれていたことから、

田んぼを刈る鎌が、社紋の意匠に

使われたのではないかとのこと。

 

鎌紋と言えば、長野県の戸隠神社や、

諏訪大社の建御名方(たけみなかた)との

つながりも噂される図柄ではありますが、

この近隣には「諏訪」や「戸隠」に縁する、

特別な信仰は見当たらないそうです。

 

ちなみに諏訪大社では、御柱祭の前年に、

諏訪大社の神器でもある薙鎌(なぎかま)を、

御柱となる杉に打ち付ける

「薙鎌神事」と呼ばれる儀式があります。

また、「鎌卍(かままんじ)紋」と呼ばれる

戸隠神社の社紋は4本の鎌を象った形象ですね。

 

粟井神社と両社との関連は不明なものの、

「鎌」という製鉄文化を匂わせる対象しかり、

諏訪大社の社紋に用いられている

忌部ゆかりの「梶紋」しかり、

信濃と阿波・讃岐の間に、渡来人の行き来を

想像してしまうのは、ただの思い込みでしょうか……。


粟井神社

2018-07-23 09:59:57 | 阿波・忌部氏2

<粟井神社 あわいじんじゃ>

 

ひと口に「讃岐忌部」と申しましても、

一族には大きく分けて二つの流れがあり、

もともと讃岐国に居住していた

「手置帆負命」を祀る人たちと、

忌部氏の祖神「天太玉命」を祀る

阿波忌部系の人たちが、

隣り合って混在していました。

 

讃岐忌部氏の拠点のひとつである、

観音寺市の「粟井神社」という古社は、

「粟」という名称からもわかるように、

「阿波忌部」の流れを汲む神社でして、

天太玉命と剣山をご神体とする人々が、

この地に入り社を創建したそうです。

 

その昔、粟井神社は今とは別の場所に

建てられていたと聞きますが、

火事により焼失し、現在地である

「杉尾神社」の土地に遷座したのだとか。

「杉尾」という名称を聞きますと、

紀伊の名草戸畔や粟国の大宜都比売神の

伝承との関連が思い浮かびます。

果たしてこの場所も、

「姫」とのつながりがあるのでしょうか……。


船の伝承

2018-07-22 09:57:51 | 阿波・忌部氏2

<観音寺市>

 

弱い雨が断続的に降り注ぐ天気の中、

ドンヨリと曇った瀬戸内の海を横目に見ながら、

一路阿波から讃岐の国へと車を進めていたとき、

どこからともなく「ドンドンドン……」という、

不規則な重低音が鳴り響いてきました。

何ごとかと思って窓の外に目をやると、

透明なビニールで覆われた「大きな船」が、

雨合羽を着たたくさんの男衆に先導され、

すぐそばの交差点を横切って行きます。

 

その日、この地方の神社では、

お祭りが執り行われており、

あちらこちらで何台もの山車が、

前後左右に船体を揺らしながら、

目の前を通り過ぎて行きました。

 

ある場所では、狭い住宅街の一角を、

ある場所では、のどかな田園風景の中を、

まるで大海原を航海する船のように、

神様を乗せたきらびやかな山車が進んで行きます。

記紀などに記される「船の伝承」は、

ただの神話の世界の話などではなく、

恐らく実在した出来事なのでしょう。

 

町を練り歩く神様の乗り物を見ていると、

お神輿や山車という存在はまさしく

「船」だということを実感するのです。

当時、神と呼ばれた「彼方の人たち」の思いは、

今なお日本の祭りの中に粛々と息づき、

私たちの暮らしに根付いていたのですね。


讃岐の神社

2018-07-21 09:55:55 | 阿波・忌部氏2

<観音寺市>

 

剣山ツアーを終え本土へと戻る日になっても、

「忌部氏」に対するイメージは、

相変わらず凡庸としたままでした。

それに加え毎日「知らない場所」を、

駆け回っていたせいか、体力面はもとより、

メンタル面の疲労がかなり激しく、

朝から「脱力感」とも言うべき、

重だるい感覚が身体全体を支配しています。

 

参拝を予定していた神社はあと数社。

しかし、諸々のリスクを考えると、

強行突破はできない状況です。

次第に雨脚を強めそうな、

怪しい雲行きの空を見上げつつ、

しばしボンヤリと頭を巡らせた結果、

「ここだけは外せない」と思っていた

ある神社への参拝を決め、

四国の地を後にすることにしました。


竹文化

2018-07-20 09:53:58 | 阿波・忌部氏2

<三豊・忌部神社 みとよいんべじんじゃ>

 

手置帆負命(たおきほおいのみこと)を祖神とする

讃岐忌部氏という地方忌部の一派は、

祭具の笠や矛を朝廷に献上する役を担った人々です。

現在の香川県三豊市豊中町笠田竹田の近辺は、

讃岐忌部氏の祖先が、矛竿の材料となる

「竹」を求めて移住した土地と言われており、

手置帆負命を祀る「忌部神社」が鎮座していました。

 

手置帆負命、そして紀伊忌部氏の祖神・彦狭知命は、

家屋を司る屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)や、

屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)とともに、

建物の新築時に行われる上棟式(上棟祭、棟上げ式)

という儀式でお祀りされる神様で、

それらのご神名を墨書きした棟札を屋根裏などに設置し、

家内安全を願う風習が現代にも引き継がれています。

 

一説によりますと、竹は渡来系の植物であり、

「竹」がつく地名や、古くから竹林があった土地などは、

渡来人とのつながりが深い場所のだとか。

三豊市や観音寺市などに伝わる

「ちょうさ」いう名の山車の名称も、

「長竿」が語源だと言われ、

一帯に残る「竹文化」を今に伝えています。


讃岐忌部氏

2018-07-19 09:24:10 | 阿波・忌部氏2

<観音寺市粟井町>

 

「かぐや姫」という物語を

改めて読み返してみたところ、

かぐや姫の名付け親である

「三室戸斎部の秋田」や、

「竹から生まれた」

「籠に入れて育てる」……等々、

渡来系のキーワードが

あちこちに散りばめられていることに、

今更ながら気づきました。

 

全国各地に「かぐや姫の伝承地」

とされる場所はいくつかありますが、

竹取の翁つまり讃岐造の縁の地である

「讃岐国(香川県)」という場所で、

古代、大きな勢力を保っていた

讃岐忌部氏という渡来系の一族が、

「かぐや姫」の話に関与した可能性も

決して少なくはないのでしょう。

 

ちなみに、手置帆負命を祖神とする

讃岐忌部氏は、「竹」を原材料とする

祭具の調達に従事した一族で、

記紀においては、紀伊忌部氏の祖神である

彦狭知命(ひこさしりのみこと)とともに、

天御量をもって木を伐り瑞殿を造営しました。

また、讃岐に生まれた弘法大師も、

讃岐忌部に出自を持つと言われています。


竹取物語

2018-07-18 09:21:15 | 阿波・忌部氏2

<三豊・忌部神社 みとよいんべじんじゃ>

 

忌部氏から斎部氏へと改名した理由には、

「忌む」という言葉に含まれた

ある種の「蔑みの色」を消したかったから

なのではないかと、ふと思うことがあります。

忌部氏が活躍していた時代、

「忌む」に負の意味はなかったようですが、

やはり「忌む=慎む」というニュアンスが、

陰の匂いを漂わせているのも確かでしょう。

 

ちなみに、日本の有名な昔話・竹取物語に登場する

讃岐造(さぬきのみやつこ)つまり「竹取の翁」は、

阿波のお隣、讃岐国の忌部氏を指すのだそうです。

忌部氏が創作したとも言われるこの物語の中の、

「月の顔見るは忌むことと制しけれども

(月を見ることは不吉なことと制止したけど)」

という一文は、当時の忌部氏の立場を

表した内容だという話も聞きました。

 

「月」というのは忌部氏を示す隠語で、

「月を見るのは不吉」を要約すると、

「忌部氏は不吉な氏族だから関わるな」

という意味になるのでしょうか……。

次回からは、竹取物語のモデルにもなった、

讃岐の忌部についての考察、

および阿波から本土へと戻る途中で立ち寄った、

「忌部系の神社」をご紹介したいと思います。


忌者

2018-07-17 09:38:45 | 阿波・忌部氏2

<橿原神宮 かしはらじんぐう>

 

天日鷲命をご祭神とする神社の社伝に、

「天日鷲命は神武東征の折に道案内に立たれた」

という記述があります。 また、伊勢風土記の中では、

「天日別命(天日鷲命)は神武天皇に従い、

東征に従軍して紀伊熊野に至った……」

と述べられていることなどを考えると、

天日鷲命は天孫族および天皇の従者であり、

天孫一行よりも先に日本に上陸していた

部族の一員だということがわかるでしょう。

つまり忌部氏という一族は古代より、

天皇陛下や皇族の方々を陰で補佐する

「隠者(忌者・忍者)」とも言えるのですね。

 

現在、日本の表の祭祀を取り仕切る、

中臣氏および藤原氏の一族を陽とするなら、

忌部氏は裏の祭祀を取り仕切る陰の一族です。

忌部氏はどこかに消えたわけではなく、

今なお天皇陛下のそばに影のように寄り添い、

天皇の祭祀が円滑に進むよう

取り計らっているのだと思われます。

古代、阿波国や全国各地で起きた「国譲り」は、

確かに負の遺産を残したかもしれません。

一方で、国譲りに伴う多くの犠牲がなければ、

日本という国が存続しなかったことも、

また疑いようのない事実なのでしょう。