たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

東征の仕上げ

2016-08-10 10:16:20 | 名草戸畔・神武東征

<八咫烏神社 やたがらすじんじゃ>

 

神武東征の物語をたどってみて感じたのは、

神武天皇が紀伊半島にたどり着く遥か前に、

この一大事業を成功させるための布石が、

着々と置かれていたという事実です。

 

実際には、予想していなかった事態や、

予定変更を強いられる場面もあったはずですが、

たまたま日本に流れ着いた部族が、

勢いに任せて原住民を攻めたり、

国を奪うために争いを仕掛けたり

したわけではなかったのですね。

 

神武天皇が紀伊半島を巡る行程というのは、

あくまでも東征の「仕上げ」です。

饒速日命、高倉下、珍彦などをはじめとする、

先住の渡来人や海人族の一派が、

何年もかけて地元の民と交流し、

「あとはその時が来るのを待つだけ」

という状況を作り出していたのでしょう。


黒いカラス

2016-08-09 10:14:40 | 名草戸畔・神武東征

<井光地区 いかりちく>

 

熊野から吉野の山中を巡っている最中、

ふと視線を感じて前方を見ると、

大きな鳥が悠々と周囲を舞っていました。

まあ、四方を山に囲まれた場所ですから、

様々な生き物がいるのは当たり前ですが、

神武東征にどっぷりと浸っている脳内では、

それがカラスやトビの「道案内」に変わり、

想像力を広げるきっかけとなったのも確かです。

 

記紀の物語に登場する「八咫烏」は、

神武天皇が旅に先立って送り込んだ、

選りすぐりの部下たちでした。

真っ黒な装束を身にまとい、

峰から峰へと素早く動き回るその姿は、

現地の人から見ればまさに、

自由自在に天地を舞い飛ぶ、

「黒いカラス」そのものだったのでしょう。


神武ゆかりの地

2016-08-08 10:09:25 | 名草戸畔・神武東征

<上北山温泉 かみきたやまおんせん>

 

神武一行が通ったとされる奈良の山中には、

様々な神武伝説が残されています。

記紀に書かれた有名な場所だけでなく、

その周辺の村々のあちこちに、

「神武が立ち寄った」とされる

ゆかりのスポットがたくさんありました。

 

残念ながら今回は、それらの地を

ゆっくりと探索する時間はなかったのですが、

吉野川の源流へと続く北山川沿いには、

神武一行が湯治をした上北山温泉「薬師湯」や、

神武天皇が「国見」をしたとされる「大台ケ原」。

下北山村には、神武天皇が座ったとの伝承が残る

「平たい石」が、今も大切に保管されているそうです。


「熊」の神の狼煙

2016-08-07 10:06:12 | 名草戸畔・神武東征

<井光地区 いかりちく>

 

「熊野」といいますと一般的に、

紀伊半島南部のエリアを指す名称

として認識されていますが、

もともとは「神の宿る地」という意味で、

今の熊野地域に限定された言葉ではなかったようです。

 

神武一族が暮らしていた南九州の一部に、

「熊」本という名称がつけられたのも、

その場所に住む人々の間で、 熊本が「神の宿る地」

という意識があったからなのでしょう。

 

「熊」の地を統率すること抜きに、

日本という国や日本人の気持ちを、

ひとつにまとめることは無理でした。

熊本で発生した大きな自然現象は、

「熊」の神々が動き出したという、

神の上げた狼煙なのかもしれません。


神武東征の意図

2016-08-06 10:04:20 | 名草戸畔・神武東征

<宮崎神宮 みやざきじんぐう>

 

もし、神武天皇が2千年前の

阿蘇山の大噴火をきっかけに、

ヤマトへと向かう旅を始めたとすれば、

神武東征という一大事業は、

単に国家統一という政治的な意図だけでなく、

「日本を襲う天災を鎮める」という

見えざる理由が隠されていたのかもしれません。

 

今年前半九州では、熊本を震源とする大地震が発生し、

それに追い打ちをかけるように豪雨被害が発生しました。

阿蘇山噴火の兆候はまだないものの、もし山が鳴動すれば、

マグマの流れは中央構造線に沿って東へと向かうでしょう。

神武「東」征という言葉、そしてその不可解な行程の中には、

「様々な物事が九州から東に移る」という

秘められた暗示が含まれているのだと思います。


阿蘇山の大噴火

2016-08-05 10:02:19 | 名草戸畔・神武東征

<阿蘇山 あそさん>

 

一説によりますと、神武東征のきっかけを作ったのは、

2千年前の阿蘇山の大噴火だったという話があります。

実は高千穂神社に伝わる鬼八の伝説は、

先日の熊本地震で、大きな倒壊被害が出た、

熊本県の阿蘇神社にも伝わっており、

今でも近隣のゆかりの神社では、

鬼八を弔う行事が続いているのだとか。

 

両地区の伝承の内容には差があるものの、

どちらも「天孫族」に討たれた

「地祇(国津神)」という設定は同じです。

もしかすると、神武東征が行われた前後には、

紀伊半島周辺だけでなく、九州中南部地方でも、

様々な戦いが繰り広げられていたのでしょう。


謎の慣習

2016-08-04 10:00:07 | 名草戸畔・神武東征

<一言主神社 ひとことぬしじんじゃ>

 

宮崎県の高千穂神社には、神武天皇の兄である

三毛入野命(みけいりののみこと)が、

鬼八という悪鬼を退治したという伝説があります。

何でも鬼八は、神武一行が故郷を離れたすきに、

姫神を誘拐するなど悪行の限りを尽くしたため、

急きょ三毛入野命が帰還し、反乱を収めたのだとか。

ただ、鬼八を斬り殺し、その遺骸を埋めて、

大岩で抑えたにも関わらず、すぐに蘇生してしまうので、

三毛入野命は身体を三つに切り離したそうです。

 

この話を聞いて思い出すのは、

同じように遺骸を三つに切り刻まれた、

名草山の女首長・名草戸畔の伝承でしょう。

実は神武東征の物語を詳細に追っていくと、

「遺骸を三つ分けて埋めた」という文言が、

随所に見受けられます。

宇陀から忍阪にかけての戦いで討伐された

「土蜘蛛」も、その後身体を三つに刻まれ、

葬られたという言い伝えが残っています。


三毛入野命

2016-08-03 10:53:31 | 名草戸畔・神武東征

<高千穂神社 たかちほじんじゃ>

 

神武天皇の兄のひとりである

三毛入野命(みけいりののみこと)は、

熊野灘を航海中、熊野市の二木島付近で暴風に襲われ、

上陸直前亡くなったと伝えられています。

しかし実際には、「軍を離脱して日向(宮崎)に帰り、

故郷のために尽くした」という伝説も残っているのだとか。

 

高千穂の夜神楽で知られる宮崎県高千穂神社には、

神武天皇の兄である三毛入野命が祀られています。

 

以前、この神社を訪れたとき、

ご本殿の壁に刻まれた迫力ある神像が、

とても印象に残っていたのですが、

実はこの彫刻のモデルとなった人物が、

三毛入野命その人でした。

暴風の海に沈んだ後、もうひとりの兄、

稲飯命(いなひのみこと)の遺骸は発見されたものの、

三毛入野命の遺骸は見つからなかったそうです。


ササユリ

2016-08-02 10:49:55 | 名草戸畔・神武東征

<狭井神社 さいじんじゃ>

 

大神神社の境内を歩いておりましたら、

ササユリの花が咲いておりました。

ちょうどこの数日後(6月17日)には、

摂社である率川神社(いさがわじんじゃ)で、

「三枝祭」というお祭りがあり、

三輪山のササユリを率川神社へと送り届けるのだそうです。

 

率川神社のご祭神は、姫蹈韛五十鈴姫命

(ひめたたらいすずひめのみこと)という、

出雲系の神を父親に持つ女神で、

のちに神武天皇のお妃となった人物です。

日本統一という壮大な目標を成し遂げるため、

神武天皇が伴侶として選んだのは、

ヤマトの主である三輪神の元で生まれた、

国津神の家系の女性でした。


二人の皇女

2016-08-01 10:43:31 | 名草戸畔・神武東征

<檜原神社 ひばらじんじゃ>

 

天照太御神の御杖代となり巡幸の旅に出た、

倭姫命(やまとひめのみこと)と、

豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)という

二人の皇女の軌跡をたどってみても、

奈良の山中や熊野の海岸沿いに、

立ち寄った形跡がありません。

 

名草戸畔との戦があった和歌山市付近は豊鍬入姫命が、

八十梟帥らの軍勢と争った宇陀市近辺には倭姫命が、

しばらく滞在した記録が残っているものの、

丹敷戸畔(にしきとべ)と対峙した荒坂の津には、

足を延ばしていないのが不思議です。

 

そこで、荒坂の津を熊野灘ではなく、

紀の川周辺だと仮定してみると、

名草に向かう途中で豊鍬入姫命が

立ち寄った可能性が出てきます。

 

神武天皇は丹敷戸畔を殺してはいなかったのか、

あるいは紀の川からヤマトを目指していたのか、

その真相を知っているのは、

古代海人族つまり「戸畔」と深く関わる

この二人の皇女なのでしょう。


カギを握る人物

2016-07-31 10:41:09 | 名草戸畔・神武東征

<倭姫宮 やまとひめのみや>

 

神武東征という重要な出来事、

そして「戸畔」の謎を解くカギは、

第11代垂仁天皇の第4皇女

「倭姫命(やまとひめのみこと)」

が握っているような気がいたします。

 

実は、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)と、

倭姫命が巡幸の旅の中で立ち寄った場所の多くが、

神武天皇がヤマト入りをするにあたり、

地元民と激しい戦を繰り広げた因縁の地でした。

 

そこは、国津神を信仰する人々だけでなく、

神武天皇と同じ海人族出身の人々の間でも、

たくさんの犠牲者が出た場所です。

海人族を祖に持つ二人の皇女は、

神武天皇の傍らにあった鏡と剣を携え、

彼らの霊を慰める役を果たしたのでしょう。


戸畔を取り巻く歴史

2016-07-30 10:37:54 | 名草戸畔・神武東征

<熊野三所大神社 くまのさんしょおおみわやしろ>

 

名草戸畔以上に謎に包まれた

丹敷戸畔(にしきとべ)という存在ですが、

実は丹敷戸畔は、神武天皇に対して、

自ら協力を申し出ていたという話があります。

もしこれが本当だったとすれば、

名草戸畔と同様「丹敷戸畔討伐」の件も、

朝廷側の改ざんだったことになりますね。

 

先日の記事でも書きましたが、

たとえ同じ部族内・親族間でも、

神武天皇への対応は分かれていました。

名草の人たちがそうであったように、

熊野・吉野の人たちの中でも、

「恭順する者」「抵抗する者」の間で、

意見が割れていたのでしょう。

 

「戸畔」を取り巻く歴史というのは、

その後の日本の状況にも大きく影響する、

繊細かつシビアな内容だったのかもしれません。


水先案内人

2016-07-29 10:31:25 | 名草戸畔・神武東征

<大和神社 おおやまとじんじゃ>

 

神武東征における重要な決戦地のひとつ、

宇陀付近での戦略において大きな役目を果たした、

椎根津彦(しいつねひこ)別名・珍彦(うずひこ)は、

九州からヤマトを目指して船出した神武天皇が、

速吸之門(はやすのひと)で出会った水先案内人です。

そのときの功績により、珍彦は倭国造に任命され、

のちに子孫が大和神社の祭祀を任されました。

 

実は、神武天皇が奈良の山中で出会った

井氷鹿(ゐひか)という土着の長は、

珍彦の妻だったのではないかいう話があります。

つまり、神武天皇がヤマトに到着する以前に、

すでに海人族の珍彦が「国津神」と婚姻関係を結び、

吉野・熊野の人々をまとめていたのでしょう。

 

南九州の豪族である生粋の海人族・阿多隼人、

そして丹後の海人族ともつながりが深い珍彦など、

西日本各地の有力な海人族の一派は、

早い時期からヤマトの山の民と友好関係を築いていました。

彼らの努力がなければ、

神武東征という歴史的事業を成し遂げることは、

難しかったのかもしれません。


名草の人々

2016-07-28 10:29:21 | 名草戸畔・神武東征

<名草神社 なぐさじんじゃ>

 

「紀伊半島での神武の足取りを追ってみよう」

そう思い立ったのは、今年の2月、

名草戸畔関連の神社を巡ってからでした。

名草の人々は、神武一行が不自然に

熊野灘へと迂回した理由を、

「名草族の抵抗に屈した神武天皇が、

紀の川を遡るルートを諦めたからだ」

と信じているのだそうです。

 

また、熊野の山中を案内した八咫烏は、

古くから名草に居住していた山の民であり、

「長年名草の人々から蔑まれていたため、

神武側に寝返った」という話も伝わっているのだとか。

いずれにせよ、神武がヤマトに到達した背景には、

「名草の人々」が深く関わっていたのは確かです。


国津神の服従

2016-07-27 10:25:17 | 名草戸畔・神武東征

<紀の川河口 きのかわかこう>

 

仮に、神武一行が紀の川を遡って、

ヤマトに入ったとすれば、

神武東征物語の印象は、

だいぶ変わってまいります。

確かに紀の川沿いのエリアも、

高野山などの高山が連なる

山間地域ではありますが、

熊野・吉野の山中に比べれば起伏も少なく、

河川の状況に若干安定感を覚えるのも事実。

 

神武東征のルートを指し示す地名と

似たような名称が、紀の川沿いの地域に

多数残されていると指摘する研究家もおり、

はっきりした結論は今だに出ておりません。

いずれにせよ重要なのは、

神武天皇が「熊野の神々」の鎮まる神域を、

自分の支配下に置いたという構図です。

奈良の山中に数々の伝承を残すことで、

国津神服従の印象を強調したかったのでしょう。