たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

ヒメミコ

2016-01-31 13:11:36 | 西日本の神社

<宇佐神宮 うさじんぐう>

 

どこの神社もそうですが、

神社が今のような形式に収まるまでは、

私たちの知らない様々な経緯を経ているものです。

特に宇佐神宮のように、古来から交通の要所に位置し、

ありとあらゆる種類の人たちが関わっていた場所は、

時代に応じて目まぐるしく形態が変わるのが通常。

 

あるときは海人族の拠点として、

あるときは渡来人の氏神として、

またあるときは神仏習合の形を取り入れながら、

日本と日本人の行く末を見守ってきたのですね。

 

宇佐神宮はもともと、

地域の土着神(国津神)を祀っていた場所です。

宇佐神宮の社殿のある亀山(小倉山)は、

かつては古墳だったという話があり、

ご祭神の一柱である比売大神は、

ヒメミコ=卑弥呼だという説も

まことしやかにささやかれております。


渡来系の神

2016-01-30 13:09:37 | 西日本の神社

<宇佐神宮 うさじんぐう>

 

伊雑宮の磯部氏、籠神社の海部氏は、

主に東国と拠点として活躍した海人族ですが、

同じように西日本を拠点として活躍した海人族に、

安曇氏、住吉氏、宗像氏などがいます。

彼らの本拠地のひとつとなった場所が、

大分県の国東半島の根元に位置する宇佐神宮。

宇佐神宮の社家である宇佐氏(うさし)も、

海人族の系統であるという説があります。

 

大陸や朝鮮半島からの玄関口にあたるこの付近は、

秦氏系(新羅系)の渡来人の密集地帯だったそうで、

医術や製鉄など特殊技能を持った人々も多く、

当時の先進文化が集まる土地でした。

もともと八幡神は秦氏の氏神ですから、

渡来系の人々が集まるこの場所に、

渡来系の神である八幡神が祀られるのも、

ごく自然な流れだったのでしょう。


宇佐神宮

2016-01-29 12:59:50 | 西日本の神社

<宇佐神宮 うさじんぐう>

 

私が初めて九州を訪れたとき、

まず降り立ったのが大分県の国東半島でした。

目的は、八幡神社の総本宮・宇佐神宮。

地図の確認も近辺の観光もそこそこに、

飛行場から真っ先に向かったその場所は、

広い境内に鮮やかな色彩の社殿が立ち並ぶ、

渡来の匂いが濃厚に漂う空間でした。

 

ちなみに、宇佐神宮のご祭神は、

八幡大神(はちまんおおかみ)

比売大神(ひめのおおかみ)

神功皇后(じんぐうこうごう)の三柱の神。

八幡大神は誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、

応神天皇とも同一とされる神様です。

八幡神社は全国に4万以上あり、

その数は他のご祭神を祀る神社の数を凌ぎます。


海人族と縄文

2016-01-28 11:06:08 | 皇室・海人族・ユダヤ

<万治の石仏 まんじのせきぶつ>

 

海人族といいますと、

イスラエルよりやってきた天皇一族(天津神)のように、

他の国からやってきた渡来人のイメージがありますが、

実はそのほとんどが古代日本人であり「国津神」の系統です。

もちろん遠方に航海をする中で、

他民族と姻戚関係を結んだり、

他民族が流入したケースはあったものの、

間違いなく日本人のDNAを色濃く持つ縄文人だといえます。

 

国の行く末を左右するような有事の際には、

必ずといっていいほど海人族に関連する人や、

海人族と関係の深い神社が登場し、

また古事記の神々の系譜を見ても、

アマテラスが誕生するより早く、

海人族の信仰する神々が生まれています。

神武東征の折、天皇の危機を救った山の民と同様、

海人族の力がなければ、今の日本の存在しなかったのですね。


民族の遺伝子

2016-01-27 11:03:34 | 歴史・神話・旅・風景

<縄文資料>

 

古代イスラエル民族が日本に渡ってくるまで、

日本に住んでいたのは、いわゆる「縄文人」たちでした。

縄文人は、大きく分けると「山の民」と「海の民」がおり、

蝦夷や国栖などと呼ばれる山の民は、

国内の山間部や内陸部に定住し、

また海人族と呼ばれる海の民は、

日本の沿岸部に拠点を持ちながら、

海外にもその活動範囲を広げていました。

 

そして、天皇一族が来日する頃になると、

同族の古代イスラエル人が日本に集まり始め、

山の民や海の民と姻戚関係を結びながら、

現在の日本人の原型を固めていきます。

中国大陸や朝鮮半島から異民族が渡来してきたのは、

その後かなり経ってからのこと。

しかもその多くは 「大陸・半島を経由したイスラエル系の人々」で、

実際には、日本人のルーツに、

近隣のアジア諸国はほとんど関わっていないのですね。

 

正しい縄文人の姿を知るということは、

私たちの精神軸が何かを知ることであり、

日本人の心を強化することでもあります。

どんなに歴史や史実は変えられようとも、

民族の心(遺伝子)までは変えられないのでしょう。


縄文人

2016-01-26 16:02:48 | 神道・祖霊崇拝・祭り

<縄文資料>

 

縄文人という言葉を聞きますと、

「未開の土地に暮らす狩猟民族」

「素朴で原始的な生活様式」

「布を纏っただけの簡素な服」等々、

現代的な文明とは少々かけ離れた

イメージが付きまといますが、

古代から近代にいたるまで、

日本を陰で支えてきたのは、

間違いなく「縄文人」という存在です。

 

昨今の様々な調査により、

縄文人が最先端の文明・技術を持つ

ハイレベルな民族だったことははっきりしており、

また狩猟だけではなく、漁撈や航海の術に長けた、

「海洋民族」としての側面も持ち合わせていました。

世界も認める日本人のオールマイティーな才能は、

すでに縄文時代から発揮されていたわけですね。

 

それに従い、これまで私たちが学校で習ってきた

「日本人のルーツは大陸(中国・朝鮮半島)」という、

一元的な価値観も根拠を失おうとしております。

「日本人の先祖は大陸からやってきた」

「日本の文化は大陸からもたらされた」のではなく、

もともと高度な知性を持っていた日本人が、

外から集まってきた文明をさらに進化させた、

というのが実際のところなのでしょう。


生きている聖地

2016-01-25 12:22:13 | 神社について

<内宮 ないくう>

 

日本各地には、「元○○があった」とされる場所がたくさん存在します。

先日から記事にしております元伊勢は、

八咫鏡を「元」安置していた場所ですが、

必要以上に「元」という冠を過大評価すると、

「今」大切にしなければいけない何かを見失ってしまいます。

 

聖地と呼ばれる場所には、様々な歴史が刻まれており、

特に三種の神器などに関わる場所には、

それなりの大きな力が「宿っていた」のでしょう。

ただ、時代の流れが刻々と変化するように、

「土地の役目」もその時代に応じて変わっていくものです。

 

すでに役目を終えた「元」の聖地を無闇に荒らせば、

起こさなくてもよい「モノ」を起こす羽目にもなりかねません。

「今生きている聖地」を訪れ、

感謝の気持ちを捧げることこそが、

他の聖地を生かす結果につながるので しょう。


鬼対峙

2016-01-24 12:22:45 | 歴史・神話・旅・風景

<籠神社 このじんじゃ>

 

今から約2000年前、都で流行った疫病を治めるため、 

天皇の皇女(豊鍬入姫命~倭姫命)が、

天照太御神をお祀りする場所を探す旅に出ました。

まず始めに、天照太御神大神が鎮座する候補地として選ばれたのが、

酒呑童子(しゅてんどうじ)の伝承で知られる丹後国。

そして次に向かったのが、かの有名な桃太郎伝説の残る吉備国です。

どちらも「鬼」と縁の深い場所ですね。

 

「鬼」の定義をひと言で説明するのは難しいのですが、

言えるのは「日本を陰で支える存在」だということです。

豊鍬入姫命~倭姫命の時代から現在に至るまで、

皇室の方々は地方巡幸という形で、

日本各地に潜む鬼への配慮を欠かさず行ってまいりました。

闇に葬られた鬼たちへの畏敬の念を忘れなかったからこそ、

今の日本の平和が維持されているのでしょう。


文殊の智慧

2016-01-23 12:30:43 | 歴史・神話・旅・風景

<智恩寺 ちおんじ>

 

丹後半島から若狭湾を挟んで対岸には、

国内最大の原子力発電所の密集エリアがございます。

その多くの原子炉 の中でも特に知られているのが、

高速増殖炉「もんじゅ」でして、

智慧を意味する文殊菩薩にあやかってつけられた名前だそうです。

 

私たちが暮らす現代社会は、

多くの人間の智慧のおかげで、

たくさんのモノが生み出され、

日常生活はより豊かに、

より便利になってまいりました。

 

ただ、各々のさじ加減ひとつで、

自他を活かすことも殺すこともできるのが智慧でもあります。

今を生きる私たちだけでなく、

未来に生きる人々を活かすアイデアこそが、

真の「文殊の智慧」なのかもしれませんね。


不要な縁

2016-01-22 15:31:24 | 歴史・神話・旅・風景

<八ヶ岳 やつがたけ>

 

日本有数の山岳地帯でもある八ヶ岳周辺は、

中央構造線と糸魚川-静岡構造線とが、

ちょうど交差するあたりに位置し、

ゼロ磁場として知られる分杭峠をはじめ、

UFOの目撃談なども多数あるような、

いわゆるパワースポットの密集エリアです。

オカルトマニアが集まる土地としても有名で、

ここ最近新興宗教やスピリチュアル系団体などが、

こぞって移転してきているという噂もあります。

先日この地を訪れた際にも、

行く先々で怪しげな人や建物に遭遇し、

「さすが八ヶ岳…」と唸ってしまいました。

 

その土地の情報を事前に仕入れるということは、

結果的に自分の身と運気を守ることにつながります。

無知な状態のまま安易に足を踏み入れれば、

不要な縁をつくってしまうことも多いのですね。

もちろん八ヶ岳自体はとてもよい場所ですし、

住民の方々も親切な人たちばかりです。

ただ、そんな「土地の力」を利用するために、

外部から集まってくる人間のほうが問題で、

私たちもその現状を知った上で、

各地を訪問する必要があるのでしょう。


新興勢力

2016-01-21 15:30:00 | 歴史・神話・旅・風景

<富士山 ふじさん>

 

先日外出した折、

帰りの電車を待つ間の時間つぶしに、

付近の神社を探していたところ、

気になる神社を発見いたしました。

その規模の大きさの割には、

名前に聞き覚えがなかったため、

近くの観光案内所で尋ねてみますと、

どうもある有名人が関係する

新興宗教がらみの神社のよう。

 

「古い神社ではない」 「ファンの人がたくさん集まる」

「建物や施設が立ち並んでいる」等々の話に、

一瞬にして全容を把握した私は、

やんわりと返事を濁しながら、

その場を後にいたしました。

 

ひと括りに「神社」と申しましても、

その土地に古くから根付く神社もあれば、

ここ近年突如として現れたような

「神社風の建物」も存在します。

残念ながら、こういった新興勢力の神社が、

一般の神社と同じように、

観光地図やガイドブック等に記載されているのが、

今の日本の現状です。

私たちのほうが賢くなって、

正しい情報をより分けていくべきなのでしょう。


事実の封印

2016-01-20 11:22:00 | 奈良・京都の神社

<天橋立 あまのはしだて>

 

豊鍬入姫命は、最初の巡幸地である

籠神社での慰霊の旅を終えたあと、

すぐには次の目的地に向かわず、

一度大和の国へと戻られました。

もしかすると、豊受大御神のご分霊を、

なるべく早く皇居の近くに、

お連れする必要があったからなのでしょう。

 

豊鍬入姫命から倭姫命へと引き継がれた

「草薙神剣(豊受大御神)」の御魂は、

巡幸の旅に最後に伊勢の地へ導かれ、

のちに雄略天皇の計らいにより、

正式に外宮に鎮座することになりました。

 

ある説によりますと、籠神社の一帯は、

古代文明の中心地でもあったそうです。

豊受大御神が、丹後の国から

伊勢の国へとお移りになられた今、

籠神社という国津神と海人族の聖域は、

古代の事実を封印したまま、

次の文明の始まりを、

静かに見守っているのかもしれません。


天橋立

2016-01-19 11:14:43 | 奈良・京都の神社

<天橋立 あまのはしだて>

 

豊鍬入姫命が真っ先に旅の目的地に選んだ籠神社には、

他の場所に先んじて「慰霊」しなければならない、

古い古い国津神の御魂が鎮まっていました。

これから始まる果てしない道中を考えると、

どうしてもその神様の許しを得て、

さらにその神様の力を借りなければ、

目的は達成できなかったのでしょう。

 

実は、豊鍬入姫命と倭姫命の巡幸の旅には、

天照太御神の御魂を宿す八咫の鏡だけではなく、

倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)が宿る、

草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)も同行していました。

最初に草薙神剣を任された渟名城入姫命が、

そのご神気にあたり体が弱ってしまったため、

豊鍬入姫命がご神剣を引き取ったのだそうです。

 

倭大国魂神は、国常立太神(くにとこたちおおかみ) とも呼ばれ、

皇祖が天孫降臨をする以前から、

この国に鎮まっていた日本国土の神様(国津神)。

籠神社では、豊受大御神という名でお祀りされています。

海人族(先住民族)の血を引く皇女に託されたのは、

ただ単に、天照太御神の鎮座地を探すお役目ではなく、

天津神と国津神との橋渡し役(天橋立)だったのですね。


豊受大御神

2016-01-18 11:16:38 | 奈良・京都の神社

<真名井神社 まないじんじゃ>

 

伊勢や皇室とのつながりが強調される籠神社ですが、

その昔は海人族が信仰していた氏神神社であり、

さらに古くは国津神をお祀りする場所だったともいわれています。

つまり、持統天皇により伊勢神宮が整備される前から、

籠神社の原型は存在し、そこでは彦火明命ではなく、

豊受大御神と呼ばれる国津神(元初の神)を、

お祀りしていた可能性が高いのですね。

 

豊受大御神(とようけのおおみかみ)というご神名は、

神様を丹後から伊勢にお招きする際に、

諸々の理由で便宜的に付けられた名称です。

天照太御神(内宮)の力を維持するために、

どうしてもこの「豊受大御神」を

伊勢の地にお連れしなければならないということが、

外宮を創祀した雄略天皇にはわかっていたのでしょう。


海人族の聖地

2016-01-17 11:33:06 | 伊雑宮・風宮式年遷宮

<伊雑宮 いざわのみや / いぞうぐう>

 

八咫の鏡を託された豊鍬入姫命が、

大和の笠縫邑に安置されていた鏡を携え、

まず最初に向かったのが丹後の国(真名井神社)です。

それから一旦、大和の国に戻ってきたのち、

ご自身の家系に所縁の深い紀伊の国、

そして吉備の国へと鏡を安置し、

再び大和の国に入り、その役目を倭姫命に引き継ぎました。

 

これらの経路をたどっていきますと、

豊鍬入姫命が目指したのは、

その昔、天孫族(イスラエルの民)が、

日本に渡来した際に上陸したであろう地点

と重なっていることに気づきます。

そしてそれらはすべて、 海人族(先住民族)の拠点であり、

倭姫命が最終地と定めたのも、

伊勢(磯部)という海人族の聖地でした。

 

豊鍬入姫命・倭姫命の巡幸というのは、

自らの祖先神を祀った土地を巡る慰霊の旅です。

八咫の鏡という天津神のご分霊を、

天津神とは毛色の異なる霊域に運び入れる役目は、

海人族の血を引く皇女でなければ無理だったのでしょう。