たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

3つの神事

2020-06-15 09:23:29 | 古代の出雲

<松江城>

 

10年に一度、松江市で催行される

ホーランエンヤというお祭りは、

主に3つの神事で構成されており、

城山稲荷神社のご神霊(宇迦之御霊神)を、

船で阿太加夜神社へと先導する「渡御祭」、

阿太加夜神社(あだかやじんじゃ)で行われる

7日間の祈祷とその中日に行われる「中日祭」、

そして阿太加夜神社に安置されたご神霊を、

再び城山稲荷神社に船でお送りする

「還御祭」がメインとなります。

 

何でも、慶安元年(1648年)、

天候不順による凶作を避けるために、

松平家初代松江藩主・松平直政公が、

阿太加夜神社の神主(城山稲荷神社の神主も兼任)

である松岡兵庫頭に命じ、城内に祀られた

城山稲荷神社のご神霊を阿太加夜神社まで船で運ばせ、

五穀豊穣を祈願させたのがお祭りの発端なのだとか……。

 

この松岡兵庫頭という神主は、

松江城の築城時に起きた様々な問題を、

その祈祷力により解決したそうですから、

もしかすると以前記事にした「松江城の人柱」

の裏側を知る人物でもあったのでしょう。


ホーランエンヤ

2020-06-14 09:20:34 | 古代の出雲

<ホーランエンヤ伝承館>

 

大阪天満宮の天神祭、厳島神社の管絃祭

とともに日本三大船神事として知られる、

松江市の「ホーランエンヤ」という神事が、

2019年の5月に催行されました。

以前は、12年に一度行われていたそうですが、

近年は10年に一度の間隔で行われるようになり、

期間中は全国から訪れる観光客などで

たいへん賑わうと聞きます。

 

ちなみに、「ホーランエンヤ」という不思議な名称には、

「宝来遠弥」あるいは「豊来栄弥」の漢字が当てられ、

一説にこの言葉もヘブライ語との

関連が噂されているのだとか……。

色とりどりの装飾が施された船団、

横綱の化粧回しに似た歌舞伎役者の衣装、

女装をして舞いや太鼓を披露する男性(男子)、

そしてヤタガラスが描かれた御幡

(もしくはヤタガラスを意味する金色の玉)

なども登場するそうですから、

もはや古代イスラエルとのつながりは

否定できないのでしょう。

 

松江城の近くには、

ホーランエンヤを紹介する資料館があり、

この大規模かつ他に類を見ない独特な神事を、

間近に体感することができました。


神有祭を巡る謎

2020-06-13 09:13:51 | 古代の出雲

<朝山神社 あさやまじんじゃ>

 

『出雲国風土記』にも登場する出雲市の朝山神社には、

神魂命(かみむすび)の御子である、真玉着玉之邑日女命

(またまつくたまのむらひめ)が祀られており、

大国主神が毎朝この女神の元に通われたことから、

「朝山」という名がついたと聞きます。

朝山神社近くの造成地からは、

メノウや水晶などたくさんの玉石が出るとも言いますし、

ご神名の「真玉」とはこの地で採れた様々な鉱物や、

近隣の「玉造」とのつながりを示す言葉なのかもしれません。

 

実はこの朝山神社は、出雲大社を中心に

行われる「神有祭」の際、最も早く神々が

立ち寄られる場所だそうで、八百万の神々は、

まず10月1日から10日まで朝山神社に滞在し、

11日から17日までは出雲大社、

その後佐太神社へと向かわれてから、

最後に万九千社に立ち寄って、

各々の故郷へと戻って行くのだとか……。

 

となると気になるのが、先日ご紹介した

「六所神社」に残る「神有祭に先んじて

全国の神々が集まった」との由緒ですね。

果たして、両社の伝承にはどのような

経緯が含まれていたのか、こちらの謎も

のちの機会に取り上げてみたいと思っております。


朝山神社

2020-06-12 09:04:04 | 古代の出雲

<朝山神社 あさやまじんじゃ>

 

出雲市内から立久恵峡方面へ向かう途中、

国道184号を逸れて山道を5分程車で走ると、

朝山神社(あさやまじんじゃ)が見えてきます。

『出雲国風土記』に登場するこの神社の鎮座地は、

標高120メートルの宇比多伎山(朝山)の山中。

 

実は、出雲には「山の中」に鎮座している

神社が意外にも少なめで、どことなく

平坦な印象を個人的には感じていたのですが、

この朝山神社への道中は「おっ、久々に来たかな」

と思うような「山っぷり」でして、

短いながらもくねくねと曲がる山道を走り、

森が開けると同時に神さびた社殿が見えてきた瞬間は、

いつものように逸る気持ちを抑えきれませんでした。

(まあ、公園や駐車場などが整備されて

いるところは、さすがに出雲ですが……)。

 

昨今、観光地化の激しいこの一帯で、

「古代の出雲」を見つけるのは至難の業です。

人の気配のない早朝の朝山神社の境内には、

もはや感じることさえ難しくなった

「古い出雲の空気」が色濃く漂っておりました。


野城大神

2020-06-11 09:00:47 | 古代の出雲

<能義神社 のきじんじゃ>

 

「出雲四大神」の一柱である野城大神は、

唯一登場する『出雲国風土記』での扱いも少なく、

またこの神を祀る神社もほぼ見当たらないという、

何とも謎多き神様です。「出雲四大神」に数えられる

他の三柱(熊野大神・杵築大神・佐太大神)が、

長い時代に渡り立派な社と厚い信仰を

維持し続けている一方で、こと野城大神に関しては

その由緒さえほとんど残っておらず、

唯一の手掛かりである能義神社(のきじんじゃ)

を訪ねてみても、そこには「四大神」が

祀られていたとは思えないほど

質素な社が建っているだけでした。

 

ちなみに、現在の能義神社のご祭神は、

出雲国造の祖とされる天穂日命(アメノホヒ)で、

大祭時には出雲大社の宮司も参拝に訪れると聞きます。

境内には、アメノホヒの子孫である

野見宿祢(のみのすくね)を祀る野見社があることから、

もしかすると野見宿祢の「ノミ」というのは、

「のぎ」や「のき」とのつながりを

示す名称なのかもしれません。

野城大神を歴史の闇に追いやった

経緯はいかなるものだったのか……、

他の「出雲四大神」を考察する際に、

改めて取り上げられればと思います。


能義神社

2020-06-10 09:57:43 | 古代の出雲

<能義神社 のきじんじゃ>

 

神様大国「出雲」の中でも、

とりわけ重要な地位に置かれていたとされるのが、

熊野大社に祀られる「熊野大神」、

出雲大社に祀られる「杵築大神(大国主神)」、

佐太神社に祀られる「佐太大神」、

そして能義神社に祀られる?「野城大神」の四神です。

これらの神々は「出雲四大神」と呼ばれており、

『出雲国風土記』の中でも

特別な扱いを受けていたといいます。

 

一説には、「出雲国内における勢力図を示す」

あるいは「出雲国の四方を守る神を示す」

などの説もあるようですが、

比較的有名な「熊野大神」

「杵築大神(大国主神)」

「佐太大神」はともかく、

「野城大神(ぬきのおおかみ)」

という少々なじみのない神名が

取り上げられているのが気になりますね。

 

実は、この野城大神という神様は、

出雲の四大神の一柱にも関わらず、

『出雲国風土記』内での記載も一か所のみ、

さらには祀られていたはずの

能義神社(のきじんじゃ)にも、

なぜか今は不在という不可解な存在なのでした。


「有」の神紋

2020-06-09 09:54:14 | 古代の出雲

<真名井神社 まないじんじゃ>

 

出雲国府跡にある「六所神社」から

北西に向かって10分ほど歩くと、

同じく意宇六社のひとつ真名井神社

(通称:伊弉諾さん)が見えてきます。

室町時代には、伊弉冉尊(いざなみのみこと)

を祀る神魂神社(かもすじんじゃ)と合わせて、

「両神魂(りょうかもす)」と称されていたとのことで、

出雲国造家が主斎していた時代もあるのとか……。

また、出雲大社の例祭や出雲国造家の

世継(火継式)の際には、真名井の滝の聖水が

御神水として用いられたとも聞きますから、

出雲国造家と深いつながりを持つことは確かでしょう。

 

ちなみに、こちらの神社の神紋は

「二重亀甲に有」という形でして、

この印は真名井神社・神魂神社・六所神社、

そして出雲大社(現在は異なる)のみで

使用される特殊な紋なのだとか……。

何でも、神有祭が行われる10月の「十」という漢字と、

「月」という漢字とを組み合わせた形だそうですが、

実は「有」という漢字は、「手で大事に肉をかかえ持つ」、

つまり「神にささげる供物の肉を手で持って

神を饗応する」という意味深な文字なのでした。


六所神社

2020-06-08 09:48:59 | 古代の出雲

<六所神社 ろくしょじんじゃ>

 

「意宇の杜」のほど近くにある出雲国府の跡地に、

「六所神社(ろくしょじんじゃ)」が鎮座しております。

意宇六社のひとつでもあるこの神社は、

もともとスサノオとクシナダヒメの子である、

青幡佐久佐彦命(あおはたさくさひこ)をお祀りし、

『延喜式神名帳』の出雲国意宇郡に記載された、

「佐久佐神社」の論社とも言われていたようです。

(しかしながら、最終的に「佐久佐神社」

として認定されたのは、同じく青幡佐久佐彦命

とのつながりが深い八重垣神社でした)

 

ちなみに、『佐陀大社縁起』

(神在祭の内容を記した現存最古の史料)によれば、

出雲で神有祭が行われる月には、

全国の神々がまずこの社に集い、

その後佐太神社へと移られるのだとか……。

出雲国府跡は、奈良・平安時代の出雲国の中心地ゆえ、

神有祭との関連にも不自然な点はありませんが、

奈良時代以降の出雲の様相を調べてみますと、

個人的には少々引っ掛かりを感じるのも事実なのです。


限られた証人

2020-06-07 09:42:23 | 古代の出雲

<意宇の社 おうのもり>

 

「国引き」の大業を終えた八束水臣津野命は、

最後に意宇の杜(おうのもり)に

杖を突きたてて「おえ!」と叫びました。

のちに「意宇郡」と名付けられたその場所は、

奈良時代には国府が置かれるなど、

政治や文化などあらゆる面で、

出雲国の中心としての役目を担ったと聞きます。

 

一説に、「意宇の地」を物語のラストに登場させることで、

本来出雲西部の伝承であった「国引き神話」を、

「出雲東部の意宇郡の地名譚へと移し替えた」

などの話も耳にしますが、

国引き神話の立役者である八束水臣津野命を祀る社が、

意宇郡にはほとんど見られないことを考えると、

やはり意宇郡と国引き神話との関連は、

薄いと言わざるを得ないのでしょう。

 

ちなみに、いくつかの「意宇の杜」の

比定地の中で有力視されているのが、

昭和の発掘調査により出雲国庁跡が確認された、

「客の森(きゃくのもり)」および

近隣の「八幡社」のあたりです。

田んぼの中に残る小さな森と小さな祠だけが、

建国当時の出雲の「内情」を知る

「限られた証人」なのかもしれません。


三穂の地

2020-06-06 09:39:23 | 古代の出雲

<弓ヶ浜海岸>

 

八束水臣津野命による「国引き」

の仕上げが行われたのは、

島根半島の東端に位置する「三穂の地」でした。

杵築の地・狭田の国・闇見の国を

造り上げた八束水臣津野命は、

最後に「高志の都都の三崎(つつのみさき)」

から土地を引き寄せ、現在の美保神社のある

一帯に弓ヶ浜半島を完成させたと聞きます。

 

ちなみに、高志の都都の三崎とは、

能登半島の珠洲の岬のことを指し、

また、土地を固めるために立てた杭が

「伯耆国の火神岳(大山)」になったのだとか……。

以前、「能登の神社」の記事内でも書いたように、

能登一帯も「渡来系の痕跡」が色濃く残る場所ですから、

恐らくは「能登」に漂着した渡来人が、

この弓ヶ浜の近辺までやってきた

経緯があったのかもしれません。

 

風土記が編纂された時代には、

まだ完全な陸地ではなかったようですが、

弓ヶ浜に立ってその地形を眺めてみますと、

いかにも「綱」を渡したような弓型の海岸線が、

弧を描くようにして延びている様子が確認できました。


良波の国

2020-06-05 09:35:13 | 古代の出雲

<久良彌神社 くらみじんじゃ>

 

杵築の地や狭田の国を造った八束水臣津野命は、

次に「北門の良波の国(きたどのえなみのくに)」を引き寄せ、

闇見の国(くらみのくに)を完成させました。

現在、闇見の国の中心地には、

「久良彌神社(くらみじんじゃ)」という小さな社が

田んぼの中にひっそりと佇んでおりますが、

古くは佐太神社や美保神社などと

同等の大きな神社だったと言われております。

 

一方、「北門の良波の国」に関しては、

様々な説(島根半島の野波や兵庫の丹波など)

が取り沙汰されており、隠岐の島で採掘される

黒曜石を通じて交流があった、

ロシアのウラジオストックなども

候補地にあげられているのだとか……。

 

恐らく、地名に「北門」という

言葉がつけられていることや、

狭田の国や闇見の国と呼ばれていた地域に、

「隠岐から国引きを行った」との伝承が

残っていることなどを考えると、

二番目に引き入れた北門の佐伎と同様、

「隠岐の島」にそのヒントが隠されているのでしょう。

 

いずれにせよ、日本海を挟んで対岸にある、

朝鮮半島からロシア沿岸部のあたりから、

隠岐の島を経由して出雲にやってきた

渡来系の人々がいたことは確かかもしれません。


佐伎の国

2020-06-04 09:32:35 | 古代の出雲

<佐太神社 さだじんじゃ>

 

『出雲国風土記』の国引き神話において、

八束水臣津野命が二番目に引き寄せたのが、

北門の佐伎の国(きたどのさきのくに)です。

のちにこの一帯は「狭田の国(さだのくに)」

と呼ばれるようになり、現在中心部には

佐太神社という名の古社が鎮座しています。

 

諸説ある「北門の佐伎」の比定地の中でも、

最も有力視されているのが「隠岐の島」でして、

先日ご紹介した「薗の長浜」がある杵築の地と同様、

こちらも「出雲縄文人と混血した人々」

という視点で神話をひも解いてみますと、

隠岐の島と関わる渡来人の影が見て取れますね。

 

今も昔も隠岐の島は、

大陸との交易ルートの重要拠点ですし、

実際に隠岐の島の弥生遺跡からは、

面長で高身長の渡来系と思われる人骨が

多数見つかっているそうです。

また、「北門の佐伎」を「高句麗」

とする説を元に考えれば、朝鮮半島東部だけでなく、

朝鮮半島北部とのつながりも無視できないのでしょう。


新羅の人々

2020-06-03 09:31:51 | 古代の出雲

<長浜神社 ながはまじんじゃ>

 

一説に、『出雲国風土記』は、

縄文のエッセンスを色濃く残す文献とも言われており、

古事記や日本書紀には記載されない、

「原始の出雲」が数多く描かれているそうです。

恐らく、縄文時代に起きた2度の大噴火の影響で、

三瓶山一帯には大きな被害が及び、

近辺で暮らしていた縄文人にも、

かなりの犠牲者が出たと推測されます。

その後、生き残った縄文人の一部は、

土砂の流失により埋め立てられた出雲平野へと進出し、

「新羅」からやってきた弥生人たちと

融合して行ったのでしょう。

 

出雲平野に点在する弥生遺跡からは、

朝鮮半島由来の土器がまとまって出土すると言いますし、

「国引き神話」の中で最初に「引っ張られた」土地が、

この「薗の長浜」であったと考えれば、

島根半島一帯で最も早く「縄文と弥生」とが

出会った場所が出雲西部だった可能性もありますね。

もしかすると、「国引き神話」という物語の中には、

出雲に上陸し出雲の縄文人と混血した

「渡来民族のルーツ」が暗示されているのかもしれません。


複雑な裏歴史

2020-06-02 09:23:02 | 古代の出雲

<長浜神社 ながはまじんじゃ>

 

出雲平野の西端・神戸川の河口近くに、

「国引き神話」の主人公である

「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」

を主祭神とする長浜神社(ながはまじんじゃ)

が鎮座していました。

 

先日ご紹介した三瓶山は、

新羅から引っ張ってきた土地を

つなぎとめた場所でしたが、

その際に使用した綱が長浜神社の一帯を含む

「薗の長浜」になったと聞きます。

 

ちなみに、八束水臣津野命という神様は、

出雲の祖神とも呼べる立場にあるにも関わらず、

この神を祀る神社は意外に少なく、

島根県内でわずか五ヵ所ほどなのだとか……。

そのうちの四ヵ所が、出雲市内に

集中しているとのことですから、

八束水臣津野命は西出雲一帯を支配していた

豪族の長であったとも考えられますね。

 

何でも『出雲国風土記』には、

「事代主神」「少彦名神」など

東出雲系の神がほとんど登場しないそうですし、

もしかすると古代出雲の「東」と「西」の間には、

文献には残されていない

複雑な裏歴史があったのかもしれません。


三瓶山

2020-06-01 09:13:44 | 古代の出雲

<三瓶山>

 

古くは、佐比賣山と呼ばれていた三瓶山は、

縄文時代に大きな噴火を起こし、

一帯の地形を大きく変化させたと聞きます。

三瓶山からの噴出物は、神戸川を伝って

当時水辺だった出雲平野の西部に堆積し、

後にその周辺に多くの弥生遺跡が出現したのだとか……。

 

一方、斐伊川上流部で「鉄穴流し」が

行われていた出雲平野東部では、

大量の土砂が切り崩されて下流へと流出したことが、

現在の地形を形作った最大の要因となったそうです。

いずれにせよ、縄文時代から弥生時代に起こった、

出雲近辺の地形変動や「渡来人の来歴」が、

国引き神話に影響した可能性も高いのでしょう。

 

ちなみに、三瓶山麓にある縄文遺跡からは、

縄文の各時代の土器が出土し、

また三瓶山の山頂付近には、

中国地方では滅多に見られない

ブナ林の原生林が存在するといいます。

 

また、遺跡内では東北地方で作られた土偶や、

隠岐島や九州産の黒曜石などが

発見されたことなどを踏まえると、

「弥生」のイメージが強い出雲の中でも、

ひときわ「縄文」を感じさせる場所が、

三瓶山のあたりだといえるのかもしれません。