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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

製鉄と生贄

2019-08-21 09:19:44 | 鉄の神々2

<千種町・千種川>

 

古代の播磨国一帯にフォーカスを当ててみますと、

様々な背景を持つ「鉄神」とともに、次から次へと

「おどろおどろしい」光景が浮かび上がってまいり、

今回の旅日記を綴りながら、これまでになく

エネルギーを消耗した感じがいたします。

 

よく「神道は生贄文化」などといわれますが、

それらの発端を読み解く中で感じたのは、

日本古来の祭祀に「生贄」という概念はなく、

縄文時代における動物供犠の風習も、

「厳密なルールにのっとった上で」

行われていたということです。

 

そして、製鉄文化と生贄祭祀の広がりとの間には

密接なつながりが見られることから、

日本の原住民にとって、それらの習俗を

「どこまで受け入れるか」という選択は、

非常に難しい判断だったのかもしれません。

 

ということで、そろそろ鉄の時代に別れを告げ、

新たなインスピレーションを得るために、

別の地へと舞台を移したいと思います。

果たしてそこでは、どのような景色が

出迎えてくれるのでしょうか……。


失ったもの

2019-08-20 09:15:21 | 鉄の神々2

<津山市内>

 

「生贄」という習俗を話題にする際、

よく耳にするのが「渡来人が来日する前から、

日本には生贄文化が根付いていた」という話です。

 

ただし、個人的な感覚では、

超古代の日本(縄文時代より以前)には、

「神のために生き物を捧げる」

という風習はなかったと感じますし、

仮に縄文時代に入って、

アイヌの熊送りや能登半島のイルカ奉納、

そして鹿の血を用いる農耕儀礼など、

動物供犠が行われるようになっても、

あくまでも無駄な殺生を最小限に

抑えた上での神事だったと想像しております。

 

恐らく、播磨国およびその一帯では、

「死」や「葬祭」に関わる祭祀をする人々が集まり、

様々な神事のあり方が検討されていたのでしょう。

日本由来の「鹿」から、大陸由来の「牛」へと

供犠の動物が入れ替わる中で、祭祀の質も次第に

「大陸の色」を帯びて行ったのだと思われます。

もしかすると、「産鉄」と引き換えに行われた

「生贄」という習俗の蔓延により、

日本古来の祭祀が浸食されつつある

状況になったのかもしれません。


鉄は血の匂い

2019-08-19 09:08:14 | 鉄の神々2

<たつの市龍野町>

 

兵庫県周辺の「鉄の神々」を巡りながら感じたのは、

やはり「鉄は血の匂いがする」ということでした。

伊和大神、金屋子神、アメノヒボコをはじめ、

この地の「鉄神」たちには、多かれ少なかれ

「生臭い匂い」が付き纏うことを改めて実感いたします。

 

恐らく、播磨国一帯の「鉄資源」を目当てに、

多くの渡来人が出入りする中で、

様々な信仰や習俗が持ち込まれた結果、

縄文由来の民間祭祀だけでなく、

天皇家の祭祀にまで影響が及び、

日本古来の精神性が脅かされるような

状況だったのかもしれません。

 

ちなみに、超古代の日本人には、

「死」に対する穢れの意識はほぼなく、

またその後の時代も、「」による死は

穢れとされたものの、「自然死」に関しては、

穢れとはみなされなかったという話も聞きます。

ある意味、それらの寛容な価値観が、

渡来系の「生贄」や「動物供犠」

という文化を受け入れる土壌となり、

タタラ民の風習として定着した側面もあるのでしょう。

 

渡来系の製鉄技術を吸収し、

「武器」を量産する手段を得た日本人は、

以降、怒涛のように争いの時代へと突入し、

「鉄」を求めるべく注がれた血が、

さらなる大量の血を呼ぶ結末となったのでした。


非時香菓の役目

2019-08-18 09:04:05 | 鉄の神々2

<中嶋神社 なかしまじんじゃ>

 

「橘」というキーワードを元に、

田道間守の伝承を探ってみますと、

「お菓子の神様」というキャッチフレーズからは、

少々かけ離れた田道間守の姿が

浮かび上がってまいります。

恐らく、垂仁天皇が非時香菓を所望したのは、

自らの不老長寿のためというよりも、

「天皇祭祀」および「天皇の殯」に関する儀礼を、

刷新し強化することが主な目的だったのかもしれません。

 

それはもしかすると、当時行われていた

「殉死」という風習はもちろん、

「生贄」という大陸由来の習俗を

排除することも含まれており、

「新羅」の王子の血を引く田道間守に命じて、

「仔羊の血」に代わる「供犠の品」を

探させた可能性もあるのでしょう。

 

もしその推論が合っているとすれば、

「金屋子神」が好むみかんは、

やはり「供犠」の暗喩であると同時に、

金屋子神の一族が、生贄に否定的な

「播磨国」の祭祀者たちから追い出され、

出雲国へと移住せざるを得なかったとも考えられます。

 

それほどこの「生贄」という習慣は、

日本人の精神性に影響を及ぼすだけでなく、

天皇祭祀を脅かすほどの「脅威」だったのです。


仔羊の血の代替品

2019-08-17 09:50:49 | 鉄の神々2

<中嶋神社 なかしまじんじゃ>

 

『古事記』の田道間守に関する文章の中に、

垂仁天皇の死を知った田道間守が、

天皇の御陵に「橘」を献上したのちに

殉死したと伝える内容があります。

さらに、その続きとして記されているのは、

垂仁天皇の后であるヒバスヒメが、

石棺や石室を作る「石祝作」と、

埴輪などの土器作成や葬礼を取り仕切る

「土師部」を設けたという一文です。

 

これらの記述から、「橘」という植物が

「葬送儀礼」と何らかの関わりを持ち、

また、田道間守の殉死が「土師氏」

つまり「野見宿禰の祭祀」とも

結びつく可能性が出てきますね。

 

以前の記事の中で、「ヒバスヒメの葬儀に際し、

野見宿禰が殉死を禁止し、埴輪の埋葬を提案した」

と書きましたが、少なくとも垂仁天皇の時代には、

「橘(もしくは橙)」が葬送儀礼に使用されると共に、

「殉死」を排除する流れが起きつつあったのでしょう。

 

ちなみに、昨日ご紹介した伊勢のしめ縄は、

神社の鳥居(つまり門)を模した形であり、

しめ縄につけられた橙は、かつて古代ユダヤ人が

神の教えに従い、鴨居や門柱などに塗った

「仔羊の血」を表すという説があります。

もしかすると、田道間守が常世の国へと

探しに出かけたのは、不老長寿の薬ではなく

「仔羊の血の代替品」だったのでしょうか……。


橙としめ飾り

2019-08-16 09:35:41 | 鉄の神々2

<しめ縄資料>

 

垂仁天皇の命に従い、田道間守が

常世の国から持ち帰った「橘(たちばな)」は、

一説に「橙(だいだい)」だったのではないか

という話があるそうです。

「橘(たちばな)」という植物が、不老長寿の象徴

であることは良く知られておりますが、

お正月のしめ縄や鏡餅に使用される

「橙(だいだい)」に関しても、長期間実が落ちない

特性を持つことから、子孫繁栄を意味する

縁起物として重宝されていると聞きます。

 

いずれにせよ、田道間守が自らの命と

引き換えに探しに出かけたのは、

「命」や「寿命」に関わる

「何か」だったわけですね。

ちなみに、不老長寿の「薬」を探し当てた

田道間守は、日本への帰途に際し、

手に入れた果実を蔓形(蔦のように縄で結ぶ)や、

矛形(竿に串刺しにする)などの形状に

整えて保管していたのだとか……。

 

この話を耳にしたとき思い浮かんだのが、

伊勢地方に伝わる「橙(だいだい)」を付けた

独特の形のしめ飾りでした。

「笑門」「千客万来」「蘇民将来子孫之門」

などと、墨書きされた門符を括ったこのしめ縄は、

実は牛頭天皇や古代ユダヤとのつながりを

深く感じさせる「祭祀具」でもあるのです。


みかんの神様

2019-08-15 09:27:46 | 鉄の神々2

<中嶋神社 なかしまじんじゃ>

 

アメノヒボコの後裔であり、

お菓子の神様とも呼ばれる

田道間守(たじまもり)は、

常世の国から「橘」つまりみかんの原種を

持ち帰ったことで知られる人物です。

 

時の天皇であった垂仁天皇の命により大陸に渡り、

長い期間をかけて、ようやく不老長寿の効能を持つという

非時香菓(ときじくのかくのみ)を探し当てたものの、

その原木を手に日本へと帰還したときには、

すでに天皇は亡くなっていたのだとか……。

 

嘆き悲しんだ田道間守は、皇后である日葉酢媛命

(ひばすひめのみこと)にその木を献上し、

天皇の後を追い殉死したと伝えられます

(文献により若干の差異あり)。

 

そんな田道間守を祀る神社が、

豊岡市の三宅という地区に鎮座していました。

この場所は、田道間守の故郷であると同時に、

子孫にあたる三宅一族が居住していたところで、

訪れたときはちょうど参道の橘(恐らく……)

の実が黄色く色づく中、散歩中の幼稚園児の

賑やかな声が境内いっぱいに響き渡っておりました。


粟鹿とヒボコ

2019-08-14 09:05:50 | 鉄の神々2

<粟鹿神社 あわがじんじゃ>

 

播磨国一の宮のひとつである「粟鹿神社」の名称を見て、

まず思い浮かんだのが「粟(農耕儀礼)」と「鹿」

というキーワードが登場する佐用都比売神社の伝承です。

粟鹿神社の由緒によりますと、

「粟を三束くわえた鹿が山(粟鹿山)から現れ、

土地の人々に農耕を教えた」ことが社名の起源とされますが、

恐らくこの場所でも「鹿の血」を用いた

農耕儀礼が行われていたのでしょう。

天美佐利命の一族と佐用都比売の一族は、

「伊和大神」を中心として血縁関係でつながり、

アメノヒボコの侵入を阻止すべく、

共同戦線を張り巡らせていたのかもしれません。

 

ちなみに、アメノヒボコがおよそ数年の日本滞在ののち、

故郷である伽耶(もしくは新羅)に帰国する際、

天皇自らが赤い絹の織物を贈ったという逸話があります。

もしそれが本当だとすれば、アメノヒボコは

日本側の要請に応じて来日した可能性も大です。

天皇の命でこの地に派遣され、

自らの土地を奪おうとしたアメノヒボコに対し、

伊和大神の一族はどんな感情を抱いていたのでしょうか……。


行路妨害神

2019-08-13 09:58:34 | 鉄の神々2

<粟鹿神社 あわがじんじゃ>

 

==========================

朝来市生野というところには、
その昔荒ぶる神がいて、
通りがかる人の半分を殺した。
このためこの場所は
「死野」と呼ばれるようになった。
しかし時の天皇である応神天皇が、
これを「悪い名」だと訝ったことから、
のちに生野に改められた。

==========================

 

『播磨国風土記』の中には、

朝来市生野に関する伝承として、

このような話が記載されていました。

実は、これ以外にも『播磨国風土記』の中には、

俗にいう「行路妨害神」の話が

いくつか取り上げられており、

例えば揖保郡の意此川に関する項目の中には、

「神尾山にいた出雲の御蔭大神が、

旅人の行く手を遮り半数を殺した」

という逸話が残っています。

 

一般的にそれらの話は、

生野の「銀鉱山」の鉱毒被害を示すなど、

「災害や公害」を表すといわれておりますが、

それ以外にも、土地開発の際に起こった出来事、

あるいは土地を守るために戦った先住民の姿……など、

幾通りにも内容を読み解くことが可能なのでしょう。

 

つまり、『播磨国風土記』に散見される

「航路妨害系の伝承」は、播磨国の一帯が

常に「何らかの外圧」にさらされた場所で、

また、それらに対する土着の民たちの抵抗が、

相当激しかったことを伝えているのだと思われます。


恐ろしい神様

2019-08-12 09:50:13 | 鉄の神々2

<粟鹿神社 あわがじんじゃ>

 

『播磨国風土記』に記載される

阿和賀山(あわかやま)という山は、

現在の粟鹿山(粟鹿神社)を指し、

伊和大神の妹である阿和加比売命が

住んでいたという伝承が残っています。

(風土記内では阿和賀山は宍粟郡の条に記載)。

古くは、朝来市も播磨国の管轄だったそうですし、

仮に伊和大神の縁者が粟鹿山を管理していたとすれば、

この一帯にはアメノヒボコの勢力が

及ばなかった可能性もあるのでしょう。

 

粟鹿神社のご祭神である

天美佐利命(あめのみさりのみこと)は、

伊和大神と同神ともされる大国主神の子で、

また、朝来市のあたりが、但馬国、丹波国、

播磨国が接する国境であることを考えると、

出石のアメノヒボコを包囲するかのように、

伊和大神の一族が取り囲んでいたのかもしれません。

 

ちなみに、粟鹿神社のほど近くにある、

生野銀山で有名な朝来市生野という場所は、

その昔は「死野」と呼ばれるほど、

人が住むには適さない荒地だったのだとか……。

なぜかというと、その昔ここには恐ろしい神様がいて、

「行き来する人間の半分を殺してしまった」からだと聞きました。


粟鹿神社

2019-08-11 09:26:39 | 鉄の神々2

<粟鹿神社 あわがじんじゃ>

 

兵庫県朝来市にある粟鹿神社(あわがじんじゃ)は、

豊岡市の出石神社と共に、

但馬国一の宮に比定される古社でして、

粟を三束くわえた鹿が山(粟鹿山)から現れ、

土地の人々に農耕を教えたという話が、

粟鹿という社名の由来だと聞きます。

 

ご祭神は、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)、

日子坐王(ひこいますのおおきみのみこと)、

そして大国主神の子である天美佐利命

(あめのみさりのみこと)の三柱で、

その歴史は優に2000年を越えるのだとか……。

 

もともと粟鹿山の中腹に祀られていた神々を、

山麓に移して社を創建したとされますが、

現在の粟鹿神社の一帯も、鬱蒼とした森が

社地の半分以上を占めるなかなかの景観でした。

 

ちなみに、『播磨国風土記』には、

少々恐ろしげな粟鹿神社の伝承が

記されているのをご存知でしょうか……。

参拝したその日は、すでに夕暮れ時。

あたりに夜の薄闇が刻々と広がる中、

まるでその話を再現するかのように、

「漆黒の空間」が神社の周りを

真っ黒に塗りつぶしていました。


出石神社の聖域

2019-08-10 09:22:53 | 鉄の神々2

<出石神社 いずしじんじゃ>

 

但馬国一の宮である出石神社は、

今回の旅の中でも「メイン神社のひとつ」

として位置付けていた場所でした。

しかしながら、参拝時の記憶を手繰り寄せても、

思い出すのは社務所で御朱印をもらったことくらいで、

それ以外の印象がほとんど抜け落ちているのが現状です。

播磨周辺の「鉄」を探る上で欠かせない存在であり、

また古文献にも多数記載される

超メジャーな渡来人であるにも関わらず、

いざその本拠地を訪ねてみると、アメノヒボコの実像は

意外なくらいに曖昧模糊としていたのでした。

 

そんな中でも唯一、鮮明な映像として残っているのが、

社殿右手裏にある禁足地です。一説にこの場所は、

アメノヒボコの墓所とも、アメノヒボコの神宝を隠したとも、

また豪族の古墳だったともいわれる聖域で、

何でも「立ち入ると祟りがある」のだとか……。

恐らく、アメノヒボコが来日する以前から、

「聖地」として守られてきた場所だったのでしょう。

本殿への参拝を終え、社殿の裏手に回ってみると、

石垣に囲まれた禁足地の社叢だけが、

ほとんど手付かずの状態で放置され、

一種「異界」の雰囲気を醸し出しておりました。


御出石神社

2019-08-09 09:17:14 | 鉄の神々2

<御出石神社 みいずしじんじゃ>

 

地元では「加茂神社」と呼ばれる、

豊岡市出石町・御出石神社(みいずしじんじゃ)のご祭神は、

天日矛命(あめのひぼこ)と出石乙女(いずしおとめ)です。

*オオナムチとオオナムチの子である

御出石櫛甕玉命(みいずしくしみかたま)とする説もあり

出石乙女という人物は、アメノヒボコとの

親縁が噂されると同時に、古事記において

「藤の花」をモチーフにした物語に登場することから、

恐らくはこの土地の「鉄」を管理していた

一族の女性だったと思われます。

 

ちなみに、今回の旅の中で、どういうわけか

「最も印象が薄かった」のがこちらの出石周辺でして、

後日写真を確認するまでは、土地の概観すら思い出せず、

非常に凡庸としたイメージしか残っていませんでした。

何といいますか、アメノヒボコという

著名な渡来人とのつながりを有しながら、

その「特異性」のようなものが感じられなかったため、

他の神社との差別化が難しかったのです。

もしかするとそれは、アメノヒボコが純粋な意味での

「異国人」ではなく、もともと日本との縁が極めて深い

「日本寄りの人物」だったからなのかもしれません。


牛のお祭り

2019-08-08 09:08:23 | 鉄の神々2

<気比神宮 けひじんぐう>

 

「牛」に関連するお祭りは、

全国各地にたくさん残されておりますが、

その代表的なものが、京都三大奇祭

のひとつである「牛祭り」です。

京都市太秦の広隆寺で行われるこのお祭りは、

白紙の仮面をかぶり、異様な格好をした摩多羅神

(またらじん)が、牛に乗って寺内を一巡し、

国家安穏・五穀豊穣・悪病退散の

祭文を読むというまさに「奇祭」で、

秦氏由来の行事という説が有力視されています。

 

また、アメノヒボコ(ツヌガアラシト)とのゆかりが深い、

福井県の気比神宮にも、牛腸祭(ごちょうさい)という、

牛殺祭祀を思わせる特殊神事が伝えられていました。

何でもこの牛腸祭には、女人禁制はもちろんのこと、

それ以外にも厳重な取り決めが存在するのだとか……。

仮に、この祭典が渡来人の信仰に基づくとすれば、

「厳重な取り決め」とは、恐らく供犠の手順に

関わるものだったのでしょう。

 

となりますとやはり、アメノヒボコは「牛殺祭祀」

を広めた人物(神)という可能性が高くなりますが、

ひとまずそのあたりの謎は保留とすることとして、

遅ればせながらアメノヒボコの本拠地である、

出石の周辺を巡ってみることにしたいと思います。


伊勢の神の怒り

2019-08-07 09:04:19 | 鉄の神々2

<内宮 ないくう>

 

一説によりますと、桓武天皇が

「殺牛・漢神禁止令」を出した背景には、

「伊勢神宮の神」の関与があったのだそうです。

何でも、桓武天皇の振る舞いが

「伊勢神宮の神の怒りに触れた」

ことが原因だと聞きますが、

これはつまり「牛殺祭祀」という祭儀が、

日本固有の祭礼(伊勢の神が許可する祭礼)

ではなかった事実を示すと同時に、

本来の伊勢神宮の祭祀が動物のを

タブーとしていた証にもなるのでしょう。

 

恐らく、中国で「最上の供物」として扱われた

「牛」の呪術効果は、天皇自身も認めていたものの、

これ以上日本各地に「牛殺」の風習が蔓延すれば、

単なる農耕儀礼や災厄鎮めの枠に

収まらなくなる懸念があったのかもしれません。

さらには、牛を要求した「漢神」が持つ呪詛の力も、

日本の神々の存在を脅かすほど即効性があり、

かつ具体的な恩恵をもたらすものだったと思われます。

 

その証拠に、当時「殺牛・漢神禁止令」が

出された場所も含め、ごく近年まで

地域の権力者や民間人による殺牛の儀式が、

各地で行われていた形跡が見られるのです。