たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

穏やかな融合

2016-02-29 13:56:18 | 名草戸畔・神武東征

<小野田地区 おのだちく>

 

志摩の磯部地区と同様に、この名草山周辺も、

海人族の一大居住地だったという話があります。

神武一行が日本にたどり着くはるか以前、

九州より移住してきた海人族の人々は、

名草の地で半農半漁の生活を送っていたそうです。

 

海人族といいますと、どうしてもその言葉の響きから、

「海外からやってきた渡来人」という印象が勝りますが、

海人族は古来より日本に住んでいた先住民であり、

渡来人と日本人とをつなぐ仲介者的な役目があったと、

個人的には考えております。

 

この名草の地でも、ニニギや神武天皇に先んじて、

イスラエルから日本に渡ってきていた

ニギハヤヒなどの初期の渡来人と共存しながら、

穏やかな縄文時代を過ごしていたのでしょう。


先住民

2016-02-28 13:13:01 | 名草戸畔・神武東征

<琴ノ浦 ことのうら>

 

名草や名草戸畔(なぐさとべ)については、

以前から調べてみたい気持ちはあったものの、

なかなか気軽には足を踏み入れられない領域でした。

ただ今回、名草山周辺の神社を巡ってみて、

やはりこのあたりは、日本建国の経緯と、

日本と海人族との関わりを考える上で、

どうしても外せない地域であることを確信した次第。

 

ヤマト入りを目指していた神武天皇は、

ようやくたどり着いた念願の地を目前にして、

各地の先住民の抵抗により行く手を阻まれます。

熊野の山中で山の民・川の民と対峙するにあたり、

名草や那智といった海岸沿いの地域で、

海の民を味方に引き入れなければなりませんでした。


名草戸畔

2016-02-27 13:11:55 | 名草戸畔・神武東征

<名草山 なぐさやま>

 

 ***** 名草戸畔 *****

神武天皇が大和を目指して進軍する際、

大阪湾から紀伊半島にかけて、

いくつかの大きな戦いがあったといわれています。

そのひとつが、神武天皇即位の数年前に発生した、

現在の和歌山市名草山周辺での先住民との軋轢。

ナガスネヒコにより生駒山越えを阻止された一行は、

紀の川からヤマトへの侵入を試みたものの、

名草山の人々の激しい抵抗に遭いました。

 

その際、名草戸畔(なぐさとべ)と呼ばれる

女首長を殺したと日本書記は記しています。

 

女首長という興味深い肩書きや、

「6月23日、軍、名草邑(むら)に至る。

則ち名草戸畔という者を誅す」 という

簡潔な一文のみに登場する謎めいた経歴などから、

歴史マニアや古代史ファンの間で、

様々な議論が交わされる名草戸畔という存在。

残された伝承が少ない分、 私たちの想像意欲を刺激し、

無意識の共鳴を誘うのでしょう。


和歌山の旅

2016-02-26 16:25:55 | 歴史・神話・旅・風景

<紀の川 きのかわ>

 

「京都」「大阪」「奈良」など、

有名な観光地を数多く抱える関西地方の中で、

和歌山県という存在は少々地味な印象がぬぐえません。

近年、熊野古道の世界遺産登録の影響で、

古道周辺の集客は増えているようですが、

熊野とは逆側の和歌山市周辺に関しては、

残念ながら素通りする観光客も多いようです。

 

ただ、和歌山市(および海南市)には、

古代史・神社マニアには見逃せない遺跡が、

数多く残されているのをご存じでしょうか?

私は今回、奈良からJR和歌山線に乗り、

紀の川沿いを下りながら和歌山市内に入りました。

紀の川という川は、生駒山と同様、

神武一行が進入を阻まれた鬼門の場所。

沿線にはあの高野山が控えています。


予定外の収穫

2016-02-25 16:18:33 | 歴史・神話・旅・風景

電鐵株式会社 わかやまでんてつ>

 

これまで神社を訪れる際には、

「予習」というものをあまりせず、

行き当たりばったりで参拝する場合がほとんどでした。

ただ今回、和歌山・海南周辺の神社を訪れるにあたり、

これまでにないほど事前の調査を重ね、

神社の概要だけでなく、周辺の地理や道路状況まで、

しっかりと頭に叩きこんで現地に向かったところ、

少々ハードな予定をすべてこなせたのは大きな収穫。

やはり「訪れる土地への敬意」は大切なのだと、

帰宅後つくづく実感しております。

 

確かに、イメージや情報に振り回されすぎると、

「訪れたときの感動」が薄れるのも事実ですが、

出発までに許される最大限の時間を、

まだ見ぬ土地に向けて意識を向けることで、

自分とその場所とのつながりが強くなり、

より貴重な経験を呼びこめるのでしょう。

ありがたいことに現地では、偶然お祭りに遭遇したり、

宮司さんから貴重なお話をお伺いしたりと、

予定外の出来事が多々ありました。


五芒星

2016-02-24 16:08:32 | 西日本の神社

伊弉諾神宮 いざなぎじんぐう>

 

陰陽五行説によりますと、

正五角形(五芒星)の五つの頂点はそれぞれ、

木・火・土・金・水という五つの要素を示し、

隣り合う要素はお互いを生かし合い、

残りの要素とはお互いにけん制し合うとされます。

 

古代イスラエルとの縁が強い六芒星に対し、

五芒星は古代中国との関わりが深い図形で、

ヨーロッパの王侯ではペンタグラム、

日本の陰陽道ではセーマンとも呼ばれ、

いずれも魔術的な意味を持つ形象です。

 

一説によりますと五芒星は、

無限連鎖の一筆書きの中に、

「魔」を封じ込める意味合いがあるのだとか。

様々な「図形」が交差する淡路島は、

海人族だけでなく南方の海より渡来した天孫族にとっても、

どうしても押さえておきたい魔術的な土地だったのでしょう。


陽のみちしるべ

2016-02-23 11:58:11 | 西日本の神社

<伊弉諾神宮 いざなぎじんぐう>

 

古代より東西の交通の要所にある伊弉諾神宮は、

日本全国の聖地の中心に位置する神社です。

境内の一角に建てられた「陽のみちしるべ」

という石碑のモニュメントを見ますと、

伊弉諾神宮から東西南北に向けて、

重要な神社が整然と配置されているのがわかります。

 

またこの地は、伊弉諾神宮、伊勢内宮、

元伊勢、熊野本宮、伊吹山という、

近畿地方の五つの聖地を結ぶ

正五角形(五芒星)の頂点のひとつでして、

伊弉諾神宮から真東の方向には伊勢内宮があります。

淡路島から三輪山や長谷寺等を通り伊勢に抜ける道は、

「太陽の道」と呼ばれる古代の重要なレイラインでした。


たか・たが

2016-02-22 10:52:33 | 西日本の神社

<伊弉諾神宮 いざなぎじんぐう>

 

イザナギ神の幽宮(かくりのみや)

とも呼ばれる伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)は、

国生みに始まるすべての仕事を終えられたイザナギが、

その後の余生を過ごした場所とされ、

淡路国の一宮として多くの参拝客を集めます。

 

日本書紀・古事記によりますと、

イザナギ神が幽宮を構えたのは、

淡路島の「多賀」と呼ばれる土地。

もともと伊弉諾神宮の本殿付近は、

明治以前までは禁則地となっており、

人が立ち入ってはいけない場所でした。

 

先日の記事で、「たか」や「たが」のつく場所は、

特に神聖視される場所だと書きましたが、

実は、「たが・たか」という地名は、

古代イスラエルに関係するという説があります。

それを考えながら「多賀」「高」のつく場所を巡ると、

これまでとは違った発見があるかもしれませんね。


岩楠神社

2016-02-21 10:52:24 | 西日本の神社

<岩楠神社 いわくすじんじゃ>

 

淡路島を訪れたとき、最初に導かれたのは、

蛭子命(ひるこのみこと)をお祀りする、

岩楠神社(いわくすじんじゃ)という小さな神社でした。

岩楠神社のご神体は、女陰を模ったような大きな岩で、

地元では「イザナギの墓所」ともいわれているそうです。

 

蛭子命は、イザナギ神とイザナミ神が、

国生みのご神事の挑まれた際、

真っ先にお生みになられた神様ですが、

出産時に体に不具合があったため、

葦舟にのせられて海に流されてしまいます。

 

七福神のエビス神と同一視されることも多く、

岩楠神社は西宮エビスの本家だという説も…。

日本沿岸では海岸に流れ着いた漂着物を、

エビス様として信仰する地域もあります。


おのころ島

2016-02-20 10:47:11 | 西日本の神社

<自凝島神社 おのころじまじんじゃ>

 

イザナギ・イザナミの二神が、天上の天の浮橋に立ち、

天の沼矛(ぬぼこ)をもって青海原をかきまわし、

その矛を引き上げたときに、

矛の先から滴り落ちる

潮(しお)が凝り固まって一つの島となりました。

これが「おのころ島」で、二神がその島に降りて、

夫婦の契りを結んで国生みをされた際、

まず造られたのが淡路島だったといわれております。

 

おのころ島の所在については、

淡路島の旧三原町のおのころ島、

旧南淡町の沼島、淡路町の絵島、

あるいは、淡路島全体がおのころ島であるなど、

いろいろな説がありますが、その中のひとつが、

高さ21.7メートルの大鳥居で知られる

旧三原町の自凝島神社(おのころじまじんじゃ)です。


国生み

2016-02-19 10:45:16 | 西日本の神社

<絵島 えしま>

 

日本国土の始まりを伝えるイザナミ・イザナミの国生み伝説ですが、

この話はもともと、淡路島や周辺の島々に住んでいた海人族が、

「島生みの始祖伝説」として伝承してきた物語であり、

のちにヤマト朝廷が、天皇家の神聖さを示すために、

国家の起源として神話に取り入れたという説があります。

 

古事記の系図を見ますと、確かにイザナギ・イザナミは、

天祖である天照太御神を生む前に、海人族が信仰する

底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神の三柱の神、

底筒之男神・中筒之男神・上筒之男神の三柱の神を生んでいます。

国生み伝説、イザナギ・イザナミという神様を通じて、

海人族と天孫族との関係性が暗示されているのかもしれません。


淡路島

2016-02-18 10:42:06 | 西日本の神社

<淡路島 あわじしま>

 

国生みの神話で知られる淡路島は、

伊勢・紀伊を中心とした太平洋側の地域や、

九州北部から丹後半島へと続く日本海側の地域と同様、

海人族と関連のある場所が数多く存在します。

淡路島は大陸や朝鮮半島と畿内を結ぶ

瀬戸内海ルートの交通の要所であり、

鉄の輸入、加工、配送を担ったと思われる、

大規模な鍛冶工房跡も発見されています。

 

一説によりますとヤマト朝廷は、海運を司る海人族と、

鉄の利権を握る天孫族とが結びついた連合体で、

天孫族にとっては、いかに海人族を味方につけるかが、

政権を維持する上での重要なテーマだったのだとか。

海の神でもあるイザナミは、

火の神カグツチを生んだことにより命を落としますが、

それは鉄の神・カグツチにより、

海人族が天孫族に取りこまれたことを示唆するそうです。

【参考文献】

淡路島垣内遺跡考1~ヤマト王権は海人族と天孫(鉄)族の連合体


高宮斎場

2016-02-17 11:38:16 | 西日本の神社

<宗像大社 むなかたたいしゃ>

 

宗像大社の辺津宮の脇から、

小高い丘を登っていくと、

古代の祭祀場の雰囲気を色濃く残す、

高宮斎場と呼ばれる場所があります。

ここは宗像三女神が降臨した地ともいわれ、

辺津宮の重要な祭祀はすべてここから始まるそうです。

 

伊勢神宮・外宮の多賀宮(たかのみや)しかり、

三輪山山頂の高宮神社(こうのみや)しかり、

高(たか)という名のつく場所は、

神社の中でも特に神聖視される場所。

逆にいうと、安易に軽々しい行動を取れば、

確実に神罰を受けるということです。

 

祭祀の島である沖の島の神宝に、

強力な呪詛の力が秘められているように、

海神(わだつみ)系の神社には、

強大な祓いの力が宿っています。

日本の防衛に果たす宗像大社の役割は、

これからますます大きくなるのでしょう。


防衛基地

2016-02-16 11:36:06 | 西日本の神社

<宗像大社 むなかたたいしゃ>

 

九州本土から海に向けて一直線に並ぶ、

沖津宮、中津宮、辺津宮の三宮は、

朝鮮半島との交流の拠点として、

日本の国益を左右する重要な場所でした。

特に、対馬や朝鮮半島に最も近い沖津宮は、

古代の祭祀場としての役割とともに、

日本の防衛基地としての一面もあったようです。

 

九州と朝鮮半島とに挟まれた玄界灘は、

大きな航海の危険をはらむ荒海で、

古来より朝鮮へ向かう朝廷の使者は、

まず海への玄関口に立つ宗像大社に立ち寄り、

旅の航海の安全を祈願したと聞きます。

そして今も、この一帯の海域は、

近隣アジア諸国との関係のカギを握っています。


海の正倉院

2016-02-15 00:55:55 | 西日本の神社

<宗像大社 むなかたたいしゃ>

 

沖ノ島は九州本土から約60km先の沖合に浮かぶ無人島で、

九州と朝鮮半島とを結ぶ玄界灘のほぼ中央に位置します。

古くから女人禁制、禊をしなければ上陸不可能、

島のものは一木一草一石たりとも持ち出し厳禁、

等々の厳しい風習を、今も守り続ける神の島でして、

約八万点にも及ぶ国宝級の神宝を有することから、

「海の正倉院」とも呼ばれています。

 

最近では頻繁にメディアに取り上げられたり、

沖ノ島を世界遺産に押す運動が行われたりと、

一般人の間でも知られる存在になりましたが、

もともとは限られた神職しか立ち入れない

古代の重要な祭祀場で、島自体が禁足地です。

この地で祀られていた神宝には、

強力な呪詛の力が秘められているとも聞きますし、

盗難や不敬等による神罰の噂も未だに絶えません。