たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

乙子狭姫

2020-05-31 09:09:21 | 古代の出雲

<佐比賣山神社 さひめやまじんじゃ>

 

複数の佐比賣山神社を要する石見地方には、

「乙子狭姫(おとごさひめ)」という人物が

登場する昔話が残っています。

 

何でも、乙子狭姫の母親であるオオゲツヒメは、

スサノオに切りつけられ瀕死の状態になったとき、

娘の挟姫(さひめ・乙子狭姫の別名)を呼び、

「母亡き後は豊葦原に降り、五穀を広めて

瑞穂の国とせよ」と言い残して息絶えたのだとか……。

 

その後、挟姫は母親の身体から

産み出された五穀の種を手に、

赤い雁の背に乗って石見地方に降り立ち、

遺言通りに五穀の耕作を広めたのだそうです。

 

ちなみに挟姫は、稲作だけでなく製鉄や

タタラ技術を持ち込んだ朝鮮由来の人物であり、

挟姫が立ち寄った各地では、大山祗などの土地神が

「自分たちは肉を食らう者だから、

五穀の種などに用はない」といって、

挟姫を追い払ったという話も聞きます。

 

つまり、この昔話は稲作がこの地にもたらされた

経緯を示すと同時に、「縄文人と弥生人」

との摩擦を暗示した部分もあるのでしょう。


佐比賣山神社

2020-05-30 09:05:07 | 古代の出雲

<佐比賣山神社 さひめやまじんじゃ>

 

出雲市方面から三瓶山を囲むように回り込み、

北西麓にまで車を走らせると、

小高い丘の上に佐比賣山神社

(さひめやまじんじゃ)が見えてまいります。

こちらの神社は、大田市三瓶町多根に鎮座する

佐比賣山神社(近隣にも同名の神社が数ヶ所あり)でして、

出雲国の祖神・八束水臣津野命が、

「国々来々(くにこくにこ)」と国を引き寄せ、

引寄せた国が流されないよう杭(佐比賣山)

を立てて繋ぎとめた場所なのだそうです。

 

もともとの神社創立の由来としては、

大国主命が国土経営の際、佐比賣山の麓で

農耕を広めたことが発端だと聞きますが、

社名や立地などから察するに、この神社も

「鉄」とのつながりは深いのでしょう。

他の佐比賣山神社のご祭神に

「鉄神」が多く見られること、

三瓶山にはタタラ製鉄の薪炭材ともなる

ブナ林が多いこと、三瓶山のふもとの温泉は

鉄分を多く含んだ泉質であることなどを考えても、

何らかの形で「鉄」そして「鉄を巡る争い」

と関わっていた場所なのかもしれません。


様々な解釈

2020-05-29 09:58:59 | 古代の出雲

<奉納山公園>

 

『出雲国風土記』の冒頭を飾る「国引き神話」は、

一説に縄文時代の地形変遷(縄文海進)、

そして火山噴火による陸地の増大を表した

話ではないかと言われております。

ただし、『出雲国風土記』が完成したのは

奈良時代ですから、国引き神話が

「縄文時代の地形変化を示した」との説には、

少々無理が生じるものです。

 

そこで、もうひとつの見解として、

「出雲にやってきた渡来部族」のルートを

示したのではないかという仮説が、

取り沙汰されているのでした。

 

例えば、最初に引き寄せた

「栲衾志羅紀」は朝鮮半島東部の新羅。

2番目に引き寄せた

「北門の佐伎(さき)の国」は

島根県隠岐郡の海士町崎周辺。

3番目に引き寄せた

「北門の良浪(よなみ)の国」は

ウラジオストック。

最後に引き寄せた

「高志(北陸)の都都の三崎」は

能登半島の珠洲……等々。

 

いずれの解釈にも諸説あることから、

何とも言えない部分はあるのですが、

奈良時代の出雲の人々が、

ごく近年の出雲の様子だけでなく、

先祖代々の言い伝えを風土記に

反映したと考えれば、

縄文時代から弥生時代にかけての

出雲の遍歴が、内容に影響を及ぼした

可能性も否定できないのでしょう。


国引き神話

2020-05-28 09:52:13 | 古代の出雲

<長浜神社 ながはまじんじゃ>

 

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神代の昔、出雲の国を眺めていた八束水臣津野命は、
「出雲の国は細長い布切れのように狭苦しいから、
作り足して大きくしよう」と思い立ちました。
そこで、「どこかに継ぎ足して縫い合わせられる
ような土地はないか」と周囲を見渡したところ、
朝鮮半島の新羅の岬のあたりに、
余った土地があるのを見つけました。

早速、八束水臣津野命が、その土地を
「国来い、国来い」と引き寄せ、
元の国に縫い合わせてみると、
島根半島の西端の木築の岬が
出来上がったのだとか……。
同じようにして
・狭田の国(さたのくに)
・闇見の国(くらみのくに)
・美保の岬(みほのみさき)も造られたそうです。

また、そのとき立てた杭は佐比売山(三瓶山)に、
引いたときの綱は薗の長浜になりました。

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『出雲国風土記』を代表する物語のひとつが、

いわゆる「国引き神話」です。

『出雲国風土記』にのみ記載され、

古事記や日本書紀には登場しないこの話は、

『出雲国風土記』の存在価値を

際立たせるストーリーとして、

子供向けの本などにも取り上げられておるゆえ、

ご存知の方も多いことでしょう。

 

「この国は、細長い布のように小さい国だ。

どこかの国を縫いつけて大きくしよう……」

という出だしで始まるこの物語は、

スサノオの子孫とされる八束水臣津野命

(やつかみずおみつぬ)による、

出雲国の成り立ちを描いたもので、

近隣から引き寄せた2つの岬と

2つの国をつなぎ合わせて、

現在の形に完成させるまでの過程が、

何とも壮大なスケールで描かれておりました。


縄文の過疎地帯

2020-05-27 09:07:12 | 古代の出雲

<松江市新庄町>

 

ご存知のように『出雲国風土記』は、

全国で唯一「ほぼ完全形」のまま残る古文献でして、

出雲が神話の地といわれる所以も、

古事記・日本書紀内での大々的な記載プラス、

これら『出雲国風土記』の存在に

依るところが大きいと思われます。

 

近年の発掘調査などにより、

『出雲国風土記』の記述を裏付けするような

遺跡・遺物の発見が相次ぎ、

古代出雲には「王国」が存在して

いたことが証明されつつありますが、

「縄文」に関する記事でも書いたように、

実は縄文時代の中国地方は

それほど目立った場所ではありませんでした。

 

もちろん出雲近辺でも、縄文集落の跡や

土器・土偶などは見つかっているものの、

縄文王国である信州や青森はもちろん、

東日本の各遺跡と比べてもその規模は小さく、

当時の人口も決して多くはないと聞きます。

そんな縄文の「過疎地帯」とも呼べる出雲が、

なぜ「王国」へと変貌を遂げたのか……、

まずは『出雲国風土記』の冒頭を飾る

有名な物語に注目してみましょう。


出雲を俯瞰する

2020-05-26 09:01:53 | 古代の出雲

<奉納山公園>

 

「出雲神話」には、私たち日本人の心を

引き付けてやまない「磁力」があるようで、

古今東西、専門家や民間人を問わず多くの人々が、

この出雲という最難関の「古代史ミステリー」

に挑み続けております。

しかしながら、出雲神話を深く読み込むほど、

そして出雲神話についての考察を始めるほど、

ますます「ドツボ」にはまってしまうのが常でして、

一昨年「現場」である出雲の地に出向き、

時間の許す限り出雲神話に関する場所を

訪ねてみたものの、未だにその世界観の

輪郭すら描けていない状況なのです。

 

恐らく、出雲とは古代史の「隠れ蓑」であり、

知られてはいけない「大事な何か」を隠すために、

それらしい伝承を後付けした

部分もあるのかもしれません。

ゆえに、「出雲」という枠に捕らわれすぎたり、

ひとつひとつの伝承にこだわりすぎたりすると、

逆に真実から離れてしまうのでしょう。

ということで、まずは「出雲国を俯瞰する」

というテーマの元に、古代の地誌である

『出雲国風土記』を参考書代わりにして、

当時の「出雲の立ち位置」を

探って行きたいと思います。


霧の中の出雲

2020-05-25 09:47:55 | 古代の出雲

<佐田町須佐>

 

***** 古代の出雲1 *****

というわけで、ここからは再び出雲へと舞い戻り、

これまでご紹介できなかった

『出雲国風土記』絡みのネタなどを取り上げつつ

(そして久しぶりに写真などもUPしつつ)、

古代の出雲の世界へと深く潜って

みることにいたしましょう。

 

とは言え、「出雲の神社」への

来訪からすでに丸二年経った今、

他のエリアや東日本の縄文時代を探る中で、

「出雲」に対する見解にも若干変化が

現れてきたのも事実でございます。

ゆえに、由緒や概略を記載するのみの場所、

あるいは有名どころでもあえて深入りしない場所……

などが出てくるかもしれませんが、

なにとぞご了承いただければと……。

 

しかしながら、改めて出雲という

土地に思いを馳せてみても、

あれほど多くの神社を巡ってきたにも関わらず、

まったくといってよいほど「核心」に

近づいていないと感じるものです。

本当に「出雲」はあったのだろうか……、

いったい「出雲神話」とは何なのだろうか……と、

未だに霧の中を手探りで進んで

いるような感覚を覚えます。

 

周辺国の風土記などに登場する「出雲」の姿も、

「出雲国」そのものを指し示しているのか、

それとも「出雲」という暗喩を

作為的に挿入しているだけなのか、

「正解」の兆しすらつかめていないのでした。


重要な6ヶ月

2020-05-24 09:46:46 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.76 *****

昨年末より、「災害」「大嘗祭」「疫病」

などのテーマをランダムにUPしてまいりましたが、

ここにきてようやく新型コロナウイルス騒動

にも出口が見え始めてまいりました。

とは言え、いつの時代もこの「ウイルス」という代物は、

潜伏期間と再流行とを繰り返すのが常でして、

今回の新型コロナに関しても、秋からの第二波

(第三波?)は確実視されております。

恐らく、年末の流行時にはより強毒化されるはずですし、

今後の6ヶ月間の対策が重要なカギとなるのでしょう。

 

また、2020年という年は、

相変わらずの「地震に注意」の年であり、

それにプラスして例年以上の大雨・台風被害、

富士山を始めとする火山噴火の懸念

なども考慮にいれなければなりません。

まったくもって気の抜けない毎日が続きますが、

どうか日本の幸運と日本人の稀有な精神力を信じて、

淡々と防災準備を進めていただければ幸いです。

ということで、次回からは長かった自粛生活の息抜きもかねて、

再度「古代出雲」のパズルに挑んでまいりたいと思います

(状況に応じて、記事を差し替える場合もあり)。

よろしければ、引き続きお付き合いくださいまし。


災害は必ず来る

2020-05-23 09:33:40 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.27 *****

大きな災害が起こるたびに

メディアが映し出すのは、

「よりインパクトのある被害」

「より悲惨な状況に置かれた地域」の映像です。

 

そして、災害から一ヶ月も経過すると、

今度は「よりポジティブな話題」

「より安心感を与えるような情報」を、

これでもかというくらい

繰り返すようになるのが常です。

 

ゆえに、どのチャンネルに合わせても、

似たような絵面・ネタばかりになり、

本当に重要な内容が被災者や

視聴者に伝わることはありません。

 

もちろん、いたずらに不安を

煽るのは控えるべきですし、

取材側の安全にも配慮が必要ですが、

「次の災害に備える」という部分において、

文明の極みである「情報産業」が、

古代の人々の知見よりも

はるかに劣っていることは、

これらのメディア報道を

踏まえても明白だと感じます。

 

昔の人たちは、「災害は必ず来る」という

前提の元に、日々の生活を送っていました。

しかし現代人である私たちは、

「災害は来るか来ないかわからない」

という観点で、日常生活を過ごしております。

 

数千年間に建てられた神社が

「未だに残存する」という事実は、

「災害は必ずやって来る」という、

いにしえ人たちの切実な声なのかもしれません。


大自然の営み

2020-05-22 09:31:13 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.26 *****

なぜ古くから日本人が、

他の民族より「自然災害」に対して

寛容でいられたのかと言えば、

それは大自然の営みを「善悪」で

決めつけなかったからなのかもしれません。

 

もちろん、地震や津波は

歓迎すべき出来事ではないものの、

「神の領域」で起きた現象に対しては、

「仕方がない」「人間が合わせるべき」

という基本的な価値観の元に、

諸々の対処法を探ってきたのでしょう。

 

恐らく、災害が起こる前から

「被災後の状況」を考慮に入れ、

住む場所を検討したり、神社という避難所を

設置したりしていたのだと思われます。

 

昔の人々は、「神の領域」と「人の暮らし」

とをつなぐ接点が「神社」だと知っていたからこそ、

神社を大切に管理することで

「より少ない被害で済むよう」

神様との距離感を保っていたのですね。

 

普段目にする小さな氏神も、

長い時代に渡りその地を守り、

ときには陰で人々の命を救ってきたことを、

そこに住まう私たちが知らないだけのかもしれません。


セーフティーゾーン

2020-05-21 09:26:42 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.25 *****

各地を旅しておりますと、

どんなに僻地の神社を訪れても、

境内はきれいに掃き清められ、

氏子の人たちが替えたであろう新しい榊が、

神前に供えられている様子を良く見かけます。

 

神社のそばには、「公民館」や「集会所」

などが隣接しているケースも多いことから、

恐らく集落の人々は日常的に

集まり話し合い祭りを行うなど、

「神社」を拠り所としながら様々な

「結びつき」を生み出しているのでしょう。

言うなれば、地域のコニュニティーセンター

としての役割を、「神社」という

聖域が担っているわけですね。

 

普段は都会的な生活をしている人でも、

また、個人主義をポリシーとしている人でも、

ひとたび災害が起きれば否が応でも

「被災者」となり、周囲の人々の

協力を必要とする事態に陥ります。

そして、「命が助かる場所」を探し求める中で、

必ず遭遇するのが「神社」という

セーフティーゾーンなのです。

 

被災をしてつらい思いをする前に、

各々が神社(氏神)の価値に気づき、

今からでも大切に守って行くことこそ、

有効な「減災対策」につながるのかもしれません。


自然は神の領域

2020-05-20 09:23:07 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.24 ***** 

東日本大震災後の東北では、

「巨大な防波堤の建設」

「集落全体の土地のかさ上げ」

「商業地と住宅地の差別化」……など、

地域独自の防災計画が進められております。

もちろん、近代の土木技術を

駆使した災害対策も重要ですが、

忘れてはいけないのは

「自然は神の領域である」ということで、

すでに地球全体が「かつてない規模の災害」

に見舞われる時代に入っているという事実を、

現代に生きる私たちは

理解できていないのかもしれません。

 

昔の人たちは、いわゆる「人知の及ばない」

ことに対しては、無駄に抵抗するのではなく

「どうやったら無難に避けられるか」を

念頭に知恵を絞ってきました。

災害で生き残った神社の姿は、

千年以上も前の人々が

「知恵を絞ってきた物証」であり、

各時代に生きた人々が「必要だ」

と思ったからこそ、取り壊されずに

脈々と継承されてきたのでしょう。

 

自分の住んでいる地域の「氏神」

を意識するという心がけは、

巡り巡って自分たちの「命」

を救うことにもつながるのですね。


謙虚だった先人

2020-05-19 09:19:49 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.23 *****

古来「神の住まう場所」と「人間の住む場所」

とは明確に分けられておりました。

「地域の氏神」と呼ばれるような神社が、

集落の中心にある小高い丘や、

少し離れた山のふもとに鎮座しているのも、

古代の人々が神々の領域とされる

「山」を神聖視していた証拠でして、

これらの信仰心が結果的に

「安全な立地」を導き出したのでしょう。

 

ただし、時代を経るに従い

「村と山との境界線」に居た神々は、

集落の中の「お参りやすい平地」に移され、

また人口増加と共に「小高い丘の上」

に居た神々は、過去に被災した

災害危険エリアへと招かれました。

つまり、「神様」を優先して

祭祀場を選んでいた古代人と、

「人間」を優先して神社を創建した

現代人の感覚の差が、

命の軽視を招いたというわけですね。

 

「先人は自然災害に対して、

非常に素直かつ謙虚だった」と、

防災の専門家たちは口をそろえて言います。

私たちは、「自然に対する畏怖」

という人間としての本能を

忘れかけているのかもしれません。


一番良い場所

2020-05-18 09:14:38 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.22 *****

自然災害を調査してきた専門家の多くが、

「被災地では想像以上に多数の神社、

特に古社と呼ばれる神社を

中心に被災を免れている」

という事実を目の当たりにするそうです。

その理由として考えられるのが、

「大災害を繰り返してきた結果、

津波や地滑りの起こりにくい土地を選んで、

神社を建立したのではないか……」

ということでして、

これまで記してきた東北の事例からも、

まるで「災害後」の状況を見越すかのように、

より安全な土地へと社を移転してきた

神社の姿が浮かび上がります。

 

国土のほぼ70%を森林に覆われ、

平地の少ない日本という国では、

「海の災害」「川の災害」「山の災害」……など、

すべてのリスクを避けられる土地は

限られているのが現状です。

ゆえに、現代になるに従い、

過去には手を付けなかった「危険地帯」にまで、

住宅が建設されるようになったのも

致し方のない流れかもしれません。

恐らく、私たちの祖先は、

それでも多くの住民の命が助かるよう、

「一番良い場所」に神社を置くことで、

現実的な避難場所の確保と、

精神面での防災意識を促そうとしたのでしょう。


防災の叡智

2020-05-17 09:05:05 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.21 *****

津波被災地や豪雨被災地の

写真を眺めていますと、

神社の一帯だけがまるで「浮島」のように、

水の中にぽっかりと浮かんでいる

様子を目にすることがあります。

恐らく、神社を取り囲む「鎮守の森」が、

社殿を守る砦のような役目を果たし、

そこに逃げ込んだ人々を救った

ケースも少なくないのでしょう。

 

また、水害の危険地帯だけでなく、

「地滑り災害」などの起きやすい地域でも、

地盤の強い「安全地帯」に神社を建てることで、

人々が避難場所として活用できるよう、

造成を工夫した形跡が見られると言います。

 

これまでの旅を思い返しても、

山間地の土砂災害区域にある神社では、

必ずご神木と呼ばれるような

「巨木」が出迎えてくれました。

樹齢何百年以上もの巨木が残っているということは、

地質が強固だった証拠でもありますから、

私たちの祖先は、自らが住まう土地の特性を見極め、

自らの神と自らの命を救うために、

「聖地」を選定してきたことは確かです。

つまり、神社という特殊な場は、

「防災の叡智」が詰まった場所でもあったわけですね。