たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

三柱一組

2016-03-31 10:00:30 | 皇室・海人族・ユダヤ

<伊太祁曽神社 いたきそじんじゃ>

 

日本の神社の祭神には、三柱一組の神がよく見られます。

例えば、底筒男命( そこつつのおのみこと)、

中筒男命(なかつつのおのみこと)、

表筒男命(うわつつのお のみこと)の住吉三神。

多紀理毘売命(たきりびめ)

市寸島比売命(いちきしまひめ)

多岐都比売命(たぎつひめ)の宗像三女神など…。

三神をひとまとめお祀りしている場所は、

海人系の神社が多いといわれます。

 

紀伊国を代表する古社・伊太祁曽神社では、

五十猛命(いたけるのみこと)、

大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、

都麻津姫命(つまつひめのみこと) の三神をお祭りしてますし、

日前神宮・國懸神宮、伊太祁曽神社、竈山神社の

三社を詣でる西国三社参りも古くから盛んなのだとか。

そして何より名草戸畔の遺体が「3つ」に分けられています。

海人族にはなぜか「3」の数字が付きまとっているようです。 


海の民と山の神

2016-03-30 15:55:13 | 名草戸畔・神武東征

<杉尾神社 すぎおじんじゃ>

 

名草戸畔について詳しく調べるまでは、

名草の人たちは海や太陽の神を拝む、

生粋の海の民のイメージがありました。

ただ、名草戸畔の故郷である

和歌山・海南の神社を訪れたとき感じたのは、

山への強い崇敬心と信仰心です。

 

今回巡ったどの名草の神社も、

背後には高い山や深い森が控えており、

静かに手を合わせていると、

そこが海のそばであることを忘れてしまいます。

 

一見「山」という場所とは

無縁に思える海人族ですが、

その信仰の対象には、

「海の神」や「太陽の神」だけでなく、

「山の神」も含まれていたのです。

海の豊穣をもたらすのが 「山・森・木」であることを、

当たり前のように知っていたのでしょう。


ハイヌヴェレ型神話

2016-03-29 10:41:43 | 歴史・神話・旅・風景

<千種神社 ちぐさじんじゃ>

 

日本書記の一説に、 保食神(うけもちのかみ)という神様が登場します。

保食神は月夜見尊(つきよみのみこと)の訪問に際し、

口から吐き出した食べ物を用意してもてなしたことから、

その無礼に激怒した月夜見尊により斬り殺されてしまいますが、

その後、天照太御神の使いが、保食神の様子を見に行きますと、

保食神の屍体からは、牛馬、粟、蚕、稗、稲、麦・大豆・小豆 など、

生きるために必要な様々な食物が芽を出していたそうです。

* 古事記では、スサノオと大宜都比売(オオゲツヒメ)の伝承

 

排泄物や死体が豊穣をもたらすという内容は、

アジアを中心に世界各地に見られる

「ハイヌヴェレ型神話」の特徴であり、

保食神の話は、日本における食物起源神話、

死体化生神話を代表する話のひとつです。

今回の記事で参考にした 「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」の中では、

このハイヌヴェレ型神話を軸に物語が進められていました。


大和魂

2016-03-28 10:37:44 | 名草戸畔・神武東征

<宇賀部神社 うかべじんじゃ>

 

もともと紀氏というのは、

紀伊国の先住民・名草の人々を祖先とする、

土着の豪族だったといわれています。

ただ、大和朝廷からの圧力が強まるにつれ、

自らの祖先(名草戸畔)や、

自らの神(国津神)を守るために、

名草戸畔という名前を伏せたり、

大切にしてきた聖地を明け渡したりと、

不本意な譲歩をせざるを得なかったのも事実です。

 

神武東征の過程において、

他の先住民が次々と天孫族に服従していく中、

名草の人々だけは果敢に侵入者に立ち向かい、

さらには撃退したことを示す痕跡が残されています。

小野田さんが自伝の中で書き記したように、

古代の紀伊人と紀伊に出自を持つ人間の不屈の魂は、

名草戸畔の伝承を通じて、

現代を生きる私たちに「大和魂」を伝えているのでしょう。


紀氏

2016-03-27 10:33:11 | 西日本の神社

<國懸神宮 くにかかすじんぐう>

 

日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう) という、

二つのお宮の総称である日前宮(にちぜんぐう)は、

代々天道根命の末裔である紀氏(きうじ・きし)により奉祀されてきました。

紀氏は畿内全域のみならず、西日本一帯に勢力を持っていた豪族で、

神話の世界にまで歴史を遡れる家系は、全国的にも数えるほどです。

 

紀氏には二つの系統があり、 ひとつは大和朝廷成立後、

公家として活躍した紀氏。 「土佐日記」の著者・紀貫之をはじめ、

古くは武内宿禰(たけのうちのすくね)なども、

母親が公家紀氏の出身であったといわれています。

 

もうひとつは、神武天皇の時代から

紀伊国造を務めていた在地豪族の紀氏。

名草を本拠地とし、日前・国懸神宮 の神官を務めている由緒ある家系で、

豊鍬入姫命も紀伊国造家の血筋を引いているそうです。


石凝姥命

2016-03-26 10:29:23 | 西日本の神社

<日前神宮 ひのくまじんぐう>

 

記紀の天岩戸隠れの話の中で、

天照太御神を岩戸から誘い出すための鏡を鋳造したのは、

石凝姥命(いしこりどめのみこと)という神様です。

天児屋命(あめのこやね)、太玉命(ふとだま)、

天鈿女命(あめのうずめ)、玉祖命(たまのおや)と共に、

ニニギの天孫降臨につき従い、日本の国土に降り立った神様で、

日前宮のご神体の鏡は、そのとき石凝姥命が作製したものだそう。

 

石凝姥命という神様の名前を聞いて浮かぶのが、

戸畔の語源のひとつとされる 「姥(とめ)」という言葉なのですが、

日本書記の一書で石凝姥命は、

石凝戸辺(いしこり「とべ」) とも表記されています。

もしかすると石凝姥命は、 名草戸畔や丹敷戸畔などと同様、

海人族と深い関わりを持つ存在だったのかもしれません。


ふたつの鏡

2016-03-25 10:22:32 | 西日本の神社

<日前宮 にちぜんぐう>

 

紀氏の祖神とされる

天道根命(あめのみちねのみこと)は、

ニニギ一行の天孫降臨に先立ち、

饒速日尊(にぎはやひのみこと)とともに、

地上(日本の国土)に降り立ちました。

この手にしていたのが、

毛見の濱宮から日前宮へと遷座された

日像鏡、日矛鏡だったといわれています。

 

こちらの神鏡は、

記紀の天岩戸隠れの場面で造られた、

3つの鏡のうちのふたつ。*諸説あり

最後に完成した鏡(のちの八咫鏡)に比べて、

少々出来が悪かったなどの理由から、

伊勢神宮のご神体にはなりませんでしたが、

日の神(アマテラス)の前霊(さきみたま) として、

日前宮で手厚くお祀りされています。


名草との因縁

2016-03-24 11:20:45 | 西日本の神社

<濱宮 はまのみや>

 

戸畔の血筋の女性である豊鍬入姫命は、

名草戸畔と同じように、神の声を聞き伝える

卑弥呼・シャーマンとしての力が優れた人物でした。

天皇や天皇家が積極的に、

戸畔の家系の子女と婚姻関係を結んだのも、

戸畔、つまり海人族の巫女としての能力が、

国家平定のために必要不可欠だったからなのでしょう。

 

紀伊国の前に訪れた丹波国しかり、

紀伊国の後に訪れた吉備国しかり、

豊鍬入姫命が選んだ地はすべて、

海人族と所縁のある土地ばかりです。

豊鍬入姫命が紀伊国を目的地に選んだ理由には、

名草戸畔との因縁を解消し、

名草の神と和解する狙いもあったのかもしれません。


心安らぐ場所

2016-03-23 12:51:44 | 西日本の神社

<濱宮 はまのみや>

 

濱宮で天照太御神とともにお祀りされていたのが、

天道根命(あまのみちねのみこと)により奉安された、

日像鏡(ひがたのかがみ)と日矛鏡(ひぼこのかがみ)でした。

しかし、豊鍬入姫命が次の目的地である吉備に向かったのち、

二柱の神は日前宮(日前神社・国懸神社)へと遷座されます。

 

戸畔の血を引く豊鍬入姫命にとって、

紀伊国は自分の故郷ともいえる場所でした。

大海原を明るく照らす太陽や

懐かしい先祖の眠る山々を遥拝しながら過ごす日々は、

まるで産土神の懐に抱かれたような、

心安らぐ時間だったのでしょう。

 

【天道根命とは】

紀伊国造家を始めとする紀氏の祖神


濱宮

2016-03-22 11:15:41 | 西日本の神社

<濱宮 はまのみや>

 

戸畔と称される女性首長の中には、

荒河戸畔(あらかわとべ)のように、

天皇家と姻戚関係を結ぶケースも少なくなかったようです。

荒河戸畔の子女は崇神天皇の妃となり、

のちに上毛野氏・下毛野氏の祖となる豊城入彦命や、

倭姫に先駆けて巡幸の旅に出た豊鍬入姫命を生みました。

 

毛見の海岸沿いにある濱宮(はまのみや)は、

「奈久佐浜宮(なぐさのはまのみや)」とも呼ばれ、

豊鍬入姫命が天照太御神の御霊を納める土地として選んだ

元伊勢のひとつでもあります。

濱宮は日前宮(日前神社・国懸神社)の

元宮だったともいわれる場所でして、

主祭神として祀られているのは天照太御神です。


戸畔

2016-03-21 11:11:56 | 名草戸畔・神武東征

<和歌山マリーナシティ>

 

一説によりますと、名草戸畔の戸畔(とべ)とは、

家庭の主婦を示す「刀自(とじ)」からきており、

かつて存在した母系社会の名残だとされています。

また別の説では、「姥(とめ)」が変形したとも、

アイヌ語で乳を指す「tope」が語源だともいわれておりますが、

いずれにしても、古代の女性首長にのみ与えられた称号でした。

 

一部では「名草戸畔男性説」も唱えられるなど、

謎多きこの戸畔という存在。 主に海沿いや海の近く等々…、

海洋民族との接点が多い土地で活躍し、

名草戸畔以外にも、丹敷戸畔、新城戸畔など、

特に紀伊半島近辺で多くの痕跡を残しています。


千種神社

2016-03-20 10:20:46 | 名草戸畔・神武東征

<千種神社 ちぐさじんじゃ>

 

杉尾神社から千種神社へと向かう道は、

往来の激しい大通りと、両側に民家の迫る細い道とを、

交互に行き来しながらようやくたどりつく、

今回の難所のひとつでした。

目の前にあらわれた千種神社は、

想像以上に開けた場所にあり、

高い山を背後に抱く、 他の名草の神社の参拝後に訪れると、

緊張感がふいに和ぐような気がします。

 

千種神社は名草戸畔の足を埋葬した神社ですが、

社殿の扁額の文字は、敵側であった五瀬命をお祀りする

竈山神社の宮司さんが書いたものだと聞きました。

そして、神武天皇がヤマト入りを果たした後も、

兄である五瀬命の亡骸は、 名草の地に留まり続けています。

神武一行と名草の人々の間には、

勝者と敗者というひと言では片づかない、

複雑な思いが隠されているようです。


杉尾神社

2016-03-19 11:01:44 | 名草戸畔・神武東征

<杉尾神社 すぎおじんじゃ>

 

宇賀部神社からほど近く、

高倉山の反対側の山麓にあるのが、

名草戸畔の胴を埋葬したといわれる杉尾神社です。

道路からまっすぐ伸びる急な階段を、

足元に注意しながら登っていくと、

山肌に張りつくように鎮座する、

小さなお社が見えてまいります。

 

それにしても、名草戸畔の遺体はなぜ、

本拠地である吉原の中言神社ではなく、

名草山からやや距離のある内陸部の

小野田地区や高倉山近辺に葬られたのでしょうか。

そこには、亡くなったご先祖をより近くで供養したい、

産土神である高倉山の神様の懐で眠らせたい、

という小野田一族の願いもあったのかもしれません。


歴史のタブー

2016-03-18 10:35:17 | 名草戸畔・神武東征

<宇賀部神社 うかべじんじゃ>

 

宇賀部神社でいただいた資料の中に、

「紀の川の河口に流れ着いた大蛇(神様)を、

頭・胴・足に分け、それぞれを3つの神社に埋めた」

という伝承が載せられていました。

宮司さんいわく、「名草戸畔の名を公に出せないため、

名草戸畔を大蛇に変えて言い伝えを残したのだろう」

ということですが、ほんの数十年前まで、

公式の史実とは異なる敗者側の伝承は、

口に出すことすら憚られる時期があったのですね。

 

今でも、伊勢神宮など天津系の神社では、

陰の歴史に関わる内容について尋ねると、

怪訝な顔をされることが多々あり、

長年蓄積された「タブー」を肌で感じるもの。

名草戸畔に関する伝承が、大蛇の話に入れ替わったり、

名草戸畔の子孫であることを公言できなかったりしたのも、

ある意味仕方のない流れだったのかもしれません。


不撓不屈

2016-03-17 10:24:20 | 名草戸畔・神武東征

<宇賀部神社 うかべじんじゃ>

 

宇賀部神社で宮司さんに案内されたのは、

不撓不屈(ふとうふくつ)

という文字が刻まれた境内の石碑と、

小野田さんの身近な品を集めた展示室でした。

小野田寛郎さんに関しては、

ご自身の人生を書き記した本をはじめ、

様々なエピソードが残されていますが、

そのどれもが心の強さを感じる内容です。

 

この不撓不屈という言葉は、

神社に石碑を建てるにあたり、

小野田さんご自身が揮毫したそうで、

また石の材質も、全国各地の産地を探し回り、

自分のイメージに合うものを選ばれたのだとか。

 

現代人の誰もが成しえない、

過酷かつ稀有な人生を全うできたのも、

先祖である名草戸畔の強靭な精神力と、

産土神である山の神(国津神)の後押しを受け、

まさに不撓不屈の精神で、与えられた試練を

乗り越えたからなのかもしれません。