たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

牛殺祭祀

2019-07-31 09:23:30 | 鉄の神々2

<気比神宮 けひじんぐう>

 

延暦10年(791年)9月16日、

桓武天皇により「牛を殺して漢神を祀ること」

を禁止する勅命が出されました。

これらの祭祀は俗に、牛殺祭祀(殺牛祭神)と呼ばれ、

違反した場合は「故殺馬牛罪」という罪に問われたそうです。

対象となった主な地域は、伊勢・尾張・近江・紀伊

・若狭・越前などで、延暦20年(801年)4月8日には、

越前国に対してのみ、再度通達が出されたと聞きますから、

越前国における牛殺祭祀の定着度は他国以上だったのでしょう。

 

ちなみに、以前の記事内でも、

「ソシモリ」と「牛首」というテーマを取り上げましたが、

白山信仰と「牛」との間には切っても切れない縁があり、

白山信仰のお膝元である越前国をはじめ、

北陸から新潟にかけての「越」のつく国々には、

朝鮮半島からもたらされた「殺牛祭」

が多数残存していたとされます。

 

また、牛を殺す祭儀は、朝鮮半島だけでなく

中国古代でも盛んに行われており、

祭祀の供物として牛を屠ることは、

神に対する最高の犠牲行為であったのだとか……。

いずれにせよ、中央日本を中心に広がりを

見せていた殺牛祭祀という儀式、

そして「漢神」と名指しした桓武天皇の思惑が、

どのようなものだったのか興味が尽きないところです。


牛を屠る祭祀

2019-07-30 09:20:29 | 鉄の神々2

<石上神宮 いそのかみじんぐう>

 

アメノヒボコに関わる伝説の構図は、

俗に「日光感精神話」と呼ばれており、

「太陽の光により処女懐妊する」

という筋書きが特徴とされます。

さらに、「赤い玉(白い石)から人間が産まれた」

という内容の「卵生神話」も加わることから、

一般的には「日光感精型+卵生型」の神話などと分類され、

これらと似たような伝説は、

世界各地で伝えられているのだとか……。

 

ちなみに、「日光感精神話」は、

エジプトのあたりから伝播したという説があり、

もしこれが事実ならアメノヒボコの来日譚は、

古代イスラエルの人々によって

もたらされた可能性も出てくるのでしょう。

 

そんなアメノヒボコ伝承の中で、

個人的に気になったのは、

物語の途中で「牛」という動物が唐突に登場し、

牛を殺した(殺そうとしていると思い込んだ)相手を、

アメノヒボコが厳しく咎めているという部分でした。

その所業はあたかも、アメノヒボコ自身が、

何らかの形で「牛」を屠る祭祀に関わっていたという事実を、

それとなく暗示しているような気がしてならないのです。


麻と銅鐸

2019-07-29 09:45:13 | 鉄の神々2

<大麻比古神社 おおあさひこじんじゃ>

 

「鉄」と「麻」との間に強力な結びつきがあることは、

各地の「麻」と名の付く場所から、

「銅鐸」が出土するという事実からも証明できるそうです。

 

例えば、四国を例にあげると、香川県善通寺市の大麻山や、

鳴門市大麻町の阿波国一の宮・大麻比古神社の近辺、

古くは麻植郡と呼ばれた吉野川市山川町の遺跡など、

なぜか「麻」のそばには、常に「銅鐸」が寄り添う

という奇妙な偶然が見られるのだとか……。

 

また、旧麻植郡は徳島県内最大の銅鉱山

高越鉱山を要する「鉱物の都」で、

その昔は忌部郷(いんべごう)と

射立郷(いたてごう)とに分かれていたと聞きます。

 

射立郷に祀られる天村雲命は、

天五多底命(あめのいだてのみこと)

とも呼ばれていたという話があり、

もしそれが本当だとすれば、

たつの市の中臣印達神社に合祀された、

「アワヂ」と名の付く謎の社が、

もともとは射立郷に鎮座していた

可能性も出てくるのでしょう。

 

いずれにせよ、「アサ」という音は、

朝鮮語で「鉄」を意味するともいわれていますし、

「麻」をシンボルとする忌部氏と

「鉄」や「銅鐸」との関わり、

そして「麻」をシンボルとする忌部氏と、

伊福部氏・出石氏など「鉄」を専業とする氏族

との関わりが、にわかに気になってまいりますね。


鉄と麻

2019-07-28 09:39:15 | 鉄の神々2

<出石町宮内>

 

「鉄」にまつわる神々を調べて行きますと、

時折「麻」という文字が目に入ってきます。

以前ご紹介した『金屋子神祭文』の

「金屋子神が麻に足を取られて亡くなった」

という一文しかり、天目一箇神の由来を語る

「麻の葉の鋭い葉先が神の目を傷つけた」という話しかり、

鉄の神々の周りには「麻」というワードが頻繁に現れ、

そのほとんどが「神が麻を避ける」という

あらすじに沿って描かれたものなのです。

その中のいくつかをご紹介しましょう。

 

==========================

『常陸国風土記』逸文

兄妹が同じ日に田植えをしていました。
しかし、「遅い時間に苗を植えると、
伊福部神(雷神)の祟りに遭う」と
いわれていたにも関わらず、妹はその約束を破り、
遅い時間まで田植えをしていたため、
雷に打たれて死んでしまいます。
妹の死を嘆き悲しんだ兄が、雷神に復讐をすべく、
肩に止まった雉の尾に積麻の糸をつけて追跡すると、
雉は伊福部岳へと兄を導いたそうです。
そして、雷神のいる石室を見つけて押し入り、
太刀を抜いて襲い掛かったところ、
雷神は命乞いをし、今後兄妹の子孫が
雷の被害に遭わないよう誓ったのだとか……。
男は雷神を許したのち、雉の恩に報いるため、
以後雉の肉を食べなかったと聞きます。

==========================

『播磨国風土記』

昔、但馬国の伊頭志君麻良比
(いずしのきみまらひ)という人物が、
山の上に居を構えていました。
ある日の夜半、麻を打っていたふたりの女が、
麻を自分の胸に置いたまま死んでしまいます。
ゆえにこの地を麻打山と呼ぶようになり、
この辺りに住む人は夜は麻を打たくなったのだそうです。

==========================

これら二つの伝承からは、

製鉄氏族である伊福部氏が

「雷神」と同一視されていたこと、

そして佐用郡の話と同様に、

製鉄氏族と「田植え」が関わること、

さらに出石の君と呼ばれる人物が

「麻」を禁忌としていたことなどが読み取れます。


アメノヒボコと氏族

2019-07-27 09:35:34 | 鉄の神々2

<出石町宮内>

 

古代史における「渡来神」の代表格

アメノヒボコという神の周辺には、

様々な氏族の影がつきまとっております。

まず、宍粟郡においてアメノヒボコを尋問した長尾市は、

出石神社の宮司家・長尾氏の先祖ともいわれておりますし、

アメノヒボコが但馬国に入り婚姻関係を結んだのは、

物部氏につながる太耳の娘でした。

 

また、アメノヒボコの渡来説話が残る地域と、

秦氏の居住地、および天目一箇神(忌部氏の祖神)

が祀られる神社の分布が一致するという話もあるなど、

多くの豪族がアメノヒボコの来日に

絡んでいた形跡が伺えるのです。

 

つまりこれは、「銅鐸」や「製鉄」に関わる氏族の支配地を、

アメノヒボコの勢力が抑えて行ったか、

もしくは「銅鐸」や「製鉄」に関わる氏族自体が、

アメノヒボコと同族であったという

意味にも受け取れるのでしょう。

 

恐らく、「親の国に帰る」といって日本に逃げてきた、

アメノヒボコの最初の后・アカルヒメだけでなく、

アメノヒボコ自身も日本とのつながりを持ち、

朝鮮半島にいた時分から、猿田彦一族や

その他大勢の部族との「奇縁」があったのかもしれません。


邪視文

2019-07-26 09:28:50 | 鉄の神々2

<国立歴史民俗博物館>

 

数ある銅鐸の図柄の中でも、

希少かつユニークな文様として知られるのが、

「邪視文(じゃしもん)」と呼ばれる

「眼」を模したような文様です。

邪視文は、悪霊や邪悪なものににらみを利かす

「邪視(じゃし)」を表現した絵であり、

邪視文が描かれた銅鐸には、人間らしき顔と

水鳥とがセットで描かれている場合が多いと聞きます。

 

ちなみに、先日から記事にしている猿田彦という神は、

邪視の神あるいは邪視防御の神とされ、

「ニニギの前に立ちはだかった猿田彦の眼は、

八咫鏡のように輝き怪しい光を放っていた」

という内容の一文が、『日本書紀』の

天孫降臨の段に記されていました。

 

このとき、猿田彦の眼力を唯一跳ね返したのが、

天岩戸の件で手に鐸(さなぎ)の矛を持って

舞った天鈿女なのだとか……。

つまり、邪視文銅鐸に描かれていた「眼」は

「猿田彦の目」でもあり、

以前ご紹介した「鹿文様」と同様、

「地霊鎮め」としての力を秘めた

サイキックな図柄だったのでしょう。


猿田彦と銅鐸

2019-07-25 09:25:29 | 鉄の神々2

<和気神社 わけじんじゃ>

 

先日ご紹介した和気氏の氏神・和気神社は、

もともと「猿目(さるめ)神社」と呼ばれていて、

天鈿女命だけでなく猿田彦命もお祀りしていたと聞きます。

現在の和気神社のご祭神である鐸石別命

(ぬでしわけのみこと)しかり、

天鈿女命や猿田彦もまた「銅鐸」

との関連を伺わせることから、

古代の人々にとって猿田彦という神が、

「鉱物の神」として認識されていた

と考えても不自然ではないのでしょう。

 

一説によりますと、猿田彦の一族は

紀元1世紀ごろ但馬国に移住したのち、

土蜘蛛の王となったという話があり、

但馬国がアメノヒボコの支配下になる前は、

猿田彦の一族がこの地を管理していた可能性も大です。

また、和気神社の近辺はもちろん、

「別部の犬」が砂鉄を発見したとされる

佐用町の近辺からも、銅鐸が出土しているそうですし、

岡山東部から兵庫県一帯にかけて、

猿田彦に関わる一族がこの地の「鉱物資源」を取りまとめ、

一大銅鐸文化圏を形成していた時期があったのかもしれません。


古代の出石

2019-07-24 09:20:53 | 鉄の神々2

<余部湾>

 

一説に、アメノヒボコが日本にやってきたのは、

大和朝廷が武力強化を図るために、

「朝鮮半島の職人集団を招いたからではないか」

という説があります。

つまり、朝鮮半島にいた製錬技術者たちを呼び寄せ、

立地や資源に恵まれた但馬国に定住させることで、

「鉄不足に陥っていた大和国へ、

優先的に鉄資源が流れ込むよう画策した」

のだとか……(~海峡を往還する神々 関裕二)。

 

もしそれが本当だとすれば、

アメノヒボコの「案内役」を努めたのは、

恐らく猿田彦一族(の末裔)であり、

彼らが日本へと上陸した際の様子が、

能登の熊甲祭に代表される伝統行事や、

麒麟獅子に同伴する「猩々(しょうじょう)」

などに影響を与えた可能性も否定できないのでしょう。

 

ちなみに、縄文時代の出石市一帯は、

周囲を低山に囲まれた「湾」だったそうですが、

実際に車で走ってみますと、

想像以上にアップダウンが続く山道を、

右へ左へとハンドルを切りながら盆地へと突入し、

気づけばこの土地の名物である

「大量の霧」に視界を阻まれるという、

なかなかスリリングなドライブが体験できます。

 

もしかすると、アメノヒボコが

アシハラシコヲとの国占めの際、

出石「しか」占有できなかったのは、

ある意味大和朝廷側にとっては

「狙い通り」だったのかもしれません。


猿田彦の役目

2019-07-23 09:15:46 | 鉄の神々2

<中山神社 なかやまじんじゃ>

 

昨日、猿田彦について書いている最中

ふと思い出したのが、美作国一の宮

中山神社の一角にある「猿神社」のことでした。

これまでの記事内で、この猿神社に祀られているのは、

「渡来系部族の首長であった猿田彦」か

「オオナムチに討ち取られた猿田彦一族のならず者」

である可能性を示唆しましたが、この仮説に

能登の熊甲祭というお祭りを重ね合わせてみれば、

新たに「猿田彦一族とツヌガアラシト(アメノヒボコ)

一族とのつながり」が浮かび上がってきます。

 

考えてみますと、天孫降臨の場面で

ニニギ一行の道案内を努めた猿田彦の様子は、

すでに彼らの到着を待ち受けていたような雰囲気でしたし、

日本国内の地理を熟視し、また天孫族と

旧知の間柄であったからこそ、猿田彦が大役を

任されたと考えても不思議ではないのでしょう。

 

恐らく、猿田彦の一族というのは、

天孫降臨以前に来日し、日本に土着化した

渡来系の国津神であり、後発の渡来神たちを

日本に導く役目があったのかもしれません。

だとすれば、猿田彦神がアメノヒボコら渡来神を、

日本に呼び寄せた理由が気になるところですね。


矛で結ばれた神

2019-07-22 09:11:57 | 鉄の神々2

<お面資料>

 

以前、「能登の旅」の中でちらっとご紹介した、

久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)

神社の主祭神は、クマカブトアラカシヒコという名の

古代朝鮮(3~4世紀頃)の王族とも噂される神様です。

さらに、この神社にはもう一柱ご祭神が鎮座しており、

何を隠そうそれがツヌガアラシトでして、

この神社で行われる熊甲祭は、別名「枠旗祭」とも呼ばれ、

祭り王国でもある能登においても、

特に異国情緒が漂う奇祭として知られています。

 

残念ながらこちらのお祭りは拝見していないため、

写真を載せられずに申し訳ないのですが、

書籍等で確認いたしましたところ、

枠旗祭で使用される枠旗の色はすべて真っ赤、

そして枠旗のそばで舞い踊る人々の

お面も真っ赤……といった具合に、

祭り全体がまさに赤一色に彩られたお祭りでした。

 

そして、この祭典の中で「枠旗」と同様、

主役級の存在感を放っていたのが、

神輿や枠旗に先立って登場する「猿田彦」です。

ツヌガアラシトを先導する猿田彦、

猿田彦が手にする「矛」とアメノヒボコの「ホコ」……。

これら3神の間には、古代史の裏に隠された

深い結びつきがあったことは確かでしょう。


額にある角

2019-07-21 09:09:40 | 鉄の神々2

<気比神宮 けひじんぐう>

 

「額に角」という言葉からまず連想するのは、

昔話に登場する「鬼」という妖怪かもしれません。

ただし古代、額に角を持っていたのは、

伝説上の鬼と呼ばれる存在だけでなく、

ある職業に従事していた人々も含まれていたといいます。

ずばりその職業とは「製錬技術者」でして、

主に大陸からやって来た鍛冶やタタラ民を示す「印」が、

額にある角だったといわれているのです。

 

以前、イタテ神・兵主神について記した記事内で、

中国の神話に登場する「蚩尤(しゆう)」という神が、

兵主神と同体であると書きましたが、

聞くところによりますと、この蚩尤も頭に角を生やし、

血の色である赤をシンボルカラーとしているのだそう。

兵主神はアメノヒボコとも同一視されていますし、

ツヌガアラシトの特徴的な容姿を絡めて考えれば、

兵主神が額に角を生やした韓鍛冶だった

可能性も高いのでしょう。そしてさらに、

アメノヒボコと「浅からぬ縁あり」と目されているのが、

同じ「矛」をトレードマークとするある有名な神でした。


ツヌガアラシト

2019-07-20 09:59:31 | 鉄の神々2

<気比神宮 けひじんぐう>

 

ツヌガアラシトの来日譚として、

『日本書紀』には次のようにに記されていました。

*一部補足あり

==========================

崇神天皇(もしくは垂仁天皇)の時代、
額に角が生えた人物(ツヌガアラシト)が、
船に乗り穴門から出雲国を経由して、
笥飯浦(けひのうら)に到着しました。
不審に思った土地の人が、ここに来た理由を尋ねますと、
「聖なる王を探してやってきた」といいます。
ツヌガアラシトは崇神天皇との面会を望んでいたものの、
崇神天皇はすでに崩御されていたため、
時の天皇である垂仁天皇に3年間仕えることになりました。

その後、ツヌガアラシトは本国である
伽耶国に戻ることになったのですが、
帰国後、天皇より賜った大切な赤い絹の織物を、
新羅国の兵士に奪われてしまったのだとか……。
この出来事がきっかけとなり、
伽耶と新羅の対立が始まったたそうです。

==========================

ここで登場するのが

「赤い絹の織物」というキーワードですが、

麒麟獅子舞において、道化役として登場する

猩々(しょうじょう)の身に着けていた衣装も、

全身真っ赤な装束でした。

さらに、このツヌガアラシトは、

以前ご紹介したある「神話上の神」

とのつながりも指摘されていたのです。


奇妙な一致

2019-07-19 09:53:55 | 鉄の神々2

<気比神宮 けひじんぐう>

 

昨日、「アメノヒボコ」と「ツヌガアラシト」が

同神であるという記事を書きましたが、

実はアメノヒボコにはもうひとり(一神)、

多くの接点を持つ著名人がいました。

それは、仲哀天皇の后であり、

のちの応神天皇を産んだ神功皇后でして、

両者は同じ系譜を持つだけでなく、

たどったルートや伝承地の類も

驚くくらいに一致するのだとか……。

 

神功皇后が長期滞在したとされる、

敦賀市の気比神宮(けひじんぐう)の

ご祭神・伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は、

一説にはツヌガアラシトではないかとも

いわれていますし、気比神宮が鎮座する

「敦賀(つるが)」という地名は、

この地に上陸した「額に角が生えた人物」

に由来すると聞きます。

つまり、アメノヒボコという神の

別名がツヌガアラシトであり、

額には角が生えていたと考えても

間違いではないのでしょう。

 

それだけではなく、因幡国から播磨国北部に

かけて伝わる「麒麟獅子」という伝統芸能の頭、

そして「牛頭天皇」との間にも、

「角」という奇妙な符号の一致が見られるのですね。


二つの伝承

2019-07-18 09:42:14 | 鉄の神々2

<出石神社 いずしじんじゃ>

 

……昨日より続く。

==========================

『古事記』

アメノヒボコが新羅にいる頃、
アグヌマと呼ばれる沼のほとりにいた
ひとりの女性のホトに、
太陽光が突き刺さり赤い玉が産まれました。
その様子を見ていた男が、
女性の産んだ赤い玉を「ぜひ」と所望し、
女性から玉を譲り受けます。
ある日、その男が牛を引いて谷に差し掛かったとき、
偶然すれ違ったアメノヒボコから、
「おまえは牛を食べるつもりだろう」
との言いがかりをつけられました。
釈明しても納得してもらえなかったため、
男は女性からもらった赤い玉を差し出し、
許しを請いました。アメノヒボコが赤い玉を持ち帰り、
床に置くと玉は美しい娘に変化します。

その後、アメノヒボコは娘と夫婦になりましたが、
アメノヒボコの暴言に耐えられなくなった娘は、
突然親の国に帰ると言い残し、
難波の津に逃げてしまったのだとか……。
妻が逃げたことを知ったアメノヒボコは
日本に渡って難波国に入ろうとしたものの、
立ち入りの許可が得れらずその場を立ち去りました。
そのとき、持参した宝物が、珠2貫、
浪振る比礼、浪切る比礼、風振る比礼、
風切る比礼、奥津鏡、辺津鏡の8種です。
赤い玉の娘は、阿加流比売(アカルヒメ)神という名で、
難波の比売碁曾の社に祀られています。

==========================

『日本書紀』

ツヌガアラシトが伽耶国にいた頃、
農具などの荷物を背負わせていた牛が逃げてしまいました。
牛を追いかけてある田舎の村に入って行ったところ、
すでにその村の役人が牛を食べた後だと聞かされます。
ツヌガアラシトは牛の代わりに白い石を譲り受け、
持ち帰って寝床に置くと、白い石は美しい娘に変身しました。
ツヌガアラシトは喜んで夫婦の契りを結ぼうとしたのですが、
目を離した隙に娘はいなくなってしまったのです。
逃げた娘は難波に渡り、比売語曾社の神となりました。
(豊国の国前郡にたどり着き、
比売語曾社の神となったという説もあり)

==========================

上記の類似する二つの伝承が元となり、

アメノヒボコとツヌガアラシトは

同神であるという説が有力視されています。


アメノヒボコ

2019-07-17 09:38:42 | 鉄の神々2

<出石神社 いずしじんじゃ>

 

古代、播磨国周辺で起きた「鉄を巡る争い」の中で、

最大のキーマンとなりそうなのが、

新羅王子とも呼ばれるアメノヒボコです。

『播磨国風土記』に限らず、

古事記や日本書紀などにおいても、

この神に関するいくつかの逸話が載せられていますが、

登場する時代や来日時の状況、

さらにはその名称に至るまで、

「似て非なる」パターンが散見されるため、

その素性をつかむのは容易ではありません。

まずは、頭の中を情報を整理すべく、

それぞれの内容を比較してみることにしましょう。

 

==========================

『播磨国風土記』

神話の時代、アメノヒボコは出雲神であるアシハラシコヲ
(オオナムチ・伊和大神・大国主神)と領土争いをしました。
軍勢は八千人ほど。揖保川を遡り、
宍粟郡のあたりでアシハラシコヲとの紛争が勃発し、
国占めの結果、但馬国の出石地方に拠点を構えます。

==========================

『日本書紀』

アメノヒボコは、垂仁天皇の時代に新羅から来日しました。
播磨国の宍粟村にて、垂仁天皇の使者と対面した際、
自ら「新羅国の王子」と名乗り、
羽太の玉、足高の玉、鵜鹿鹿の赤石の玉、
出石の小刀、出石の矛、日鏡、熊の神籬の
7つの神宝を差し出します。そのとき天皇により、
宍粟村と淡路島の出浅村の支配を許可されましたが、
自らの意思で但馬国出石地方を選びました。
土地の娘との間にもうけた子の末裔が田道間守です。

==========================

……次回へ。