たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

丹敷戸畔

2016-06-30 10:38:11 | 名草戸畔・神武東征

<熊野三所大神社 くまのさんしょおおみわやしろ>

 

那智の補陀落山寺というお寺の隣に、

熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)

という 熊野詣の拠点としても知られる小さな神社があります。

こちらには丹敷戸畔(にしきとべ)の存在を示す、

数少ない痕跡が残されており、

境内には神武天皇の碑も建てられていました。

 

那智の駅からまっすぐに続く参道を神社の本殿まで進むと、

向かって右側に、丹敷戸畔をお祀りした祠があります。

もともとは、地主神としてお社に祀っていたそうですが、

神武天皇に配慮をして石の祠に変えたという話を聞きました。


丹敷浦の女首長

2016-06-29 10:33:49 | 名草戸畔・神武東征

七里御浜 しちりみはま>

 

神武天皇が上陸したとされる、

熊野の荒坂(あらさか)の津は、

別名「丹敷浦(にしきのうら)」とも呼ぶそうです。

神武一行は和歌山市付近で名草戸畔と対峙した後、

紀伊半島を船で迂回して熊野灘に上陸し、

そこで「丹敷戸畔(にしきとべ)」 という人物を討伐しました。

 

戸畔(とべ)というのは女首長のことで、

名草戸畔と同様、その一帯を統治していた、

地元豪族のリーダーだったのでしょう。

ただ、丹敷戸畔も名草戸畔と同じように、

くわしい言い伝えが残されておらず、

その存在は謎に包まれています。


二木島での海難

2016-06-28 10:27:47 | 名草戸畔・神武東征

<阿古師神社 あこしじんじゃ>

 

神武天皇が名草での戦いの後、

紀伊半島を大きく南に迂回し、

再度上陸したのは熊野灘のあたりでした。

ただ、実際にたどり着いた地点ははっきりとせず、

伝承を残す熊野灘沿いのいくつかの地区が、

「こここそが上陸地だ」と名乗りを上げております。

 

三重県熊野市二木島もその候補地のひとつで、

こちらには海難事故で亡くなった神武の二人の兄、

稲飯命(いなひのみこと)と

三毛入野命(みけいりののみこと)

をお祀りする二つの神社があります。

 

神武の兄たちが遭難した際、

二木島の民は嵐の海に船を漕ぎ出して、

救助に向かったといわれており、

現在もその伝承に基づたお祭りが、

脈々と引き継がれているそうです。

 

【参考文献】

ヤマト王権 幻視行 ~桐村栄一郎


荒坂の津

2016-06-27 10:23:32 | 名草戸畔・神武東征

<鬼ヶ城 おにがじょう>

 

2月に和歌山を旅した折、

「名草戸畔」に関わる神社を巡ってきました。

* 詳しくは名草戸畔のカテゴリーを参照

 

名草戸畔(なぐさとべ)と申しますのは、

神武東征の伝承の中で登場する、

「名草地方の女首長」のことでして、

生駒山で長髄彦(ながすねひこ)軍

との戦いに敗れた神武天皇が、

和歌山の紀の川付近へと迂回したとき、

名草山の周辺で神武軍との死闘を

繰り広げた人物といわれています。

 

その後、名草戸畔との戦いに勝利?した神武天皇は、

長兄である五瀬命(いつせのみこと)の遺言に従い、

紀伊半島をさらに南下して熊野灘へと向かいました。

しかしその道中、度重なる嵐や暴風などにより、

神武軍は残る二人の兄も失ってしまいます。

 

海路を閉ざされた神武天皇が、船を捨てて

上陸した場所は熊野の荒坂(あらさか)の津。

現在の三重県熊野市の「大泊(おおどまり)」

付近ではないかといわれています。


東征の道筋

2016-06-26 10:32:00 | 名草戸畔・神武東征

<大泊海岸 おおどまりかいがん>

 

神武天皇が紀伊半島にたどり着いてから

ヤマトに入るまでの行程は、それまでとは違い、

様々な苦難が待ち受ける過酷な旅だったようです。

また、ヤマト入りのルートに関しても、

数多くの伝承が残る吉野川沿いだけでなく、

峰を隔てて西側にある熊野川を通った説や、

和歌山から直接紀の川を遡った説など、

多くの可能性が示唆されております。

 

ただ、どの説からも共通して感じられるのが、

熊野から吉野の険しい山を越える過程が、

いかに重要だったかということです。

仮に、熊野・吉野の山々を経由せず、

紀の川を遡るルートを取っていたとしても、

これらの地域を制したという証を、

伝承として残さなければいけない理由が、

朝廷側にはあったのかもしれません。


安堵感と緊張感

2016-06-25 10:28:20 | 名草戸畔・神武東征

<吉野山 よしのやま>

 

奈良の市街地からひたすら国道を南下して、

目の前に吉野の山々が迫り始めると、

なぜか心の中に、安堵感と緊張感という、

相反する感情がわいてきます。

初めてこの一帯に足を踏み入れたときに感じた、

古い信仰の息吹と、山間部特有の「酷道」の恐怖が、

どこからともなく蘇ってくるからなのですね。

 

今回は神武ゆかりの神社を巡るため、

平地と山間地を何度も往復したのですが、

山に入る緊張感と山に包まれる安堵感、

そして山を下りるときの安堵感と、

山を出てしまったことの緊張感が、

ぐるぐると身体の中を駆け巡り、

苦難の末にヤマトに入った一行の思いに、

少しだけ触れられたような気がしました。


行きにくい場所

2016-06-24 16:27:17 | 名草戸畔・神武東征

<奈良川上村 ならかわかみむら>

***** 神武東征 *****

 

先日訪れた、奈良から熊野にかけての山岳地帯は、

とにもかくにも「行きにくい場所」の筆頭でして、

東京から最も時間がかかるエリアとも言われています。

ただ、その地理条件が幸いし、

「俗」に染まらない古い信仰を感じられるのも事実。

古い神社が好きな人間にとっては、

まさに「聖地」と呼べるような場所です。

 

ちなみに昨年は、奈良南部の山間地に点在する

丹生川上三社を中心にお参りしたのですが、

今回はその近辺の山中にある小さな神社を目指し、

最終的には熊野の沿岸部へと足を進めてまいりました。

奇しくもこれは、記紀に書かれている

神武東征のルートとも重なります。


日本人の本能

2016-06-23 11:08:21 | 神社について

<香取神宮 かとりじんぐう>

 

鹿島・香取神宮がある場所というのは、

東京からほど近い距離にありながら、

少々交通の不便なところでもあります。

考えてみますと、熊野・出雲・白山…

などをはじめとする古代の聖地は、

ほとんどが「行きにくい場所」にあるもの。

ただその「行きにくさ」が幸いし、

数千年にも渡る長い間、貴重な自然や信仰が、

古代のままの様相を保っているのも事実です。

 

聖地というのは「わざわざ」行くからこそ、

その意義が増すという一面があり、

時間や労力や資金をやりくりしながら、

お参りしようとする気持ちが神様に通じます。

もちろんそれがすべてではありませんが、

他の様々な楽しみを二の次にして、

神社参拝を優先する心がけは、

やはり日本人の良心でもあり本能なのでしょう。


南九州と北関東

2016-06-22 10:00:20 | 歴史・神話・旅・風景

<鹿島神宮 かしまじんぐう>

 

阿蘇神社と鹿島神宮という、

中央構造線の両端に位置する場所に、

それぞれ「ナマズ伝説」が伝えられていることは、

遥か太古の時代からこの断層上で、

大きな地震が頻発していた証だといえます。

 

ちなみに、熊本大地震の震源地近くに、

「鯰」と名のつく場所があるのですが、

奇しくもそれは、鹿島と同じ読みを持つ、

嘉島町(かしままち)の中の地名でして、

鹿島はもともと「かぐしま」とも呼び、

鹿児島という名称とも共通する部分があるそうです。

 

またそれ以外にも、南九州と北関東という二つの地域には、

遠地とは思えないほど、同じ名前の地名が数多く確認できます。

これらの土地の間には、中央構造線という大活断層を通して、

簡単には無視できない古い結びつきが存在しているのでしょう。


国造神社

2016-06-21 10:55:13 | 西日本の神社

<国造神社 こくぞうじんじゃ>

 

阿蘇神社の北に「国造神社(こくぞうじんじゃ)」

という古社があります。こちらの神社は、

阿蘇神社の北宮とも呼ばれ、境内にある鯰宮には、

阿蘇神社の神である健磐龍命によって退治された、

阿蘇谷の大ナマズの御霊が祀られているそうです。

 

一般的な知名度は低い国造神社ですが、

地元の人たちの間では、

「ここが本当の阿蘇神社」といわれるほど、

古くから崇敬されている神社でして、

以前、ナマズの研究者としても知られる、

秋篠宮殿下も参拝に訪れたのだとか。

 

阿蘇神社という結界を通じて封印されていたのは、

国造神社のナマズの御霊であり土着の火山の神でした。

鹿島神宮で起こった鳥居や本殿の異変と同様、

阿蘇神社の建物が倒壊したことにより、

全国各地で眠っていた「ナマズたち」が、

その封印を解かれたのかもしれません。


ナマズ伝説

2016-06-20 10:52:46 | 歴史・神話・旅・風景

<阿蘇山 あそさん>

 

熊本・阿蘇付近に残る「ナマズ」の伝承には、

先月発生した熊本大地震を予言するような、

暗示的なキーワードがたくさん含まれています。

ナマズ伝説が残る地域というのは、

昔から地震が多かった土地である証拠で、

阿蘇地域を支配していた阿蘇氏が、

ナマズをシンボルとして崇めていたのも、

地震鎮めの意味合いがあったからなのでしょう。

 

熊本大地震により、ナマズの聖地である

阿蘇神社の建物は大きくつぶれました。

同じくナマズ伝説で有名な鹿島神宮は、

東日本大震災により鳥居が倒壊しています。

古くからの言い伝えというのは、ただの昔話ではなく、

現代に生きる私たちに向けた重要な示唆なのかもしれません。


阿蘇の主

2016-06-19 10:48:12 | 西日本の神社

<阿蘇神社 あそじんじゃ>

 

鹿島神宮の「ナマズ」を調べていて思い出したのは、

熊本大地震で甚大な被害に見舞われた阿蘇のことでした。

実は熊本県内にはナマズに関する伝説がたくさんあり、

「ナマズ神社」と呼ばれるお社も数多く存在するのだとか。

先の地震で楼門や拝殿が倒壊した阿蘇神社も、

ナマズに関する伝承が残る場所のひとつで、

阿蘇神社の宮司家である阿蘇氏のトーテム

(シンボル的な動物)は「ナマズ」です。

 

伝説によりますと、阿蘇神社のご祭神である

健磐龍命(たけいわたつのみこと)が、

農地開拓のために阿蘇の外輪山を蹴破ったところ、

阿蘇谷の湖水から湖の主である大ナマズが飛び出し、

流れをせき止めて邪魔をしたため、退治したのだそうです。

大ナマズはそのまま川を下り、上益城の村に流れ着きました。

「益城」といえば、先日発生した巨大地震の震源地ですね。

益城町の隣の嘉島町には、今も鯰という地名が残っています。


麻の葉の紋

2016-06-18 11:10:11 | 東日本・三陸の神社

<台方・麻賀多神社 だいかた・まかたじんじゃ>

 

麻賀多神社の総本社である、

成田市台方・麻賀多神社神紋は「麻の葉」です。

何でもこの地域は、かつて麻の一大生産地で、

都の高貴な方々が身に着ける衣の麻は、

この地方から献上されていたのだとか。

麻の葉の紋を掲げる神社の数が、

全国的に少ないことから考えても、

古来よりこの神社が、

朝廷から特別な扱いを受けていたことがわかります。

 

麻の紋を使用する氏族として有名なのが、

阿波の忌部氏(いんべし・いんべうじ)です。

忌部氏は代々朝廷の祭儀の際に、

重要な役目を担ってきた氏族で、

記紀の岩戸開きの物語でも登場する、

天太玉命(あめのふとたまのみこと)を祖としています。

 

天太玉命という神様はその名のとおり、

「玉」つまり勾玉を司る神様でして、

忌部氏もまた、古代イスラエル

との関連が示唆されている氏族です。

麻賀多神社が点在する印旛郡(いんばぐん)も、

「いんべ」とのつながりを示すものなのでしょう。

古代、忌部の一部の人たちが房総半島に渡り、

この土地に麻の栽培だけでなく、

勾玉に関する秘密を伝えたのかもしれませんね。


まがたま神社

2016-06-17 11:13:32 | 東日本・三陸の神社

<台方・麻賀多神社 だいかた・まかたじんじゃ>

 

鹿島・香取神社の南西にある、

佐倉市・成田市の付近を中心に、

麻賀多神社と名のつく神社が点在します。

麻賀多(まかた)という不思議な名前の由来には、

諸説あるようですが、そのうちのひとつが、

稚日女尊(わかひるめのみこと)の霊示を受けた、

印旛国造・伊都許利命(いつこりのみこと)が、

大木の根本から掘り出した勾玉にちなんで、

「まがたま→まかた」神社になったという説です。

 

このとき見つかった勾玉の霊代とされたのが、

伊勢外宮の神・豊受大御神の親神である、

和久産巣日神(わくむすびのかみ)という神様。

稚日女尊とともに麻賀多神社の主祭神であり、

成田の麻賀多神社にはかつて、

日本武尊が訪れたという形跡も残っています。

 

鹿島の刀剣、香取の神鏡、そして二社に近い

麻賀多神社には、勾玉の伝説が伝えられていました。

伊勢や熱田から離れたこの関東の地でも、

ひっそりと三種の神器が揃っていたのですね。

三社に置かれた三つ穴灯篭の存在とともに、

伊勢神宮そしてユダヤとの深い関連を、

私たちに示すものなのかもしれません。


三つ穴灯篭

2016-06-16 10:46:46 | 皇室・海人族・ユダヤ

<鹿島神宮 かしまじんぐう>

 

神社の入口や境内には、必ずといっていいほど、

石で造られた「灯篭」が置かれております。

灯篭のデザインは神社により様々ですが、

多くの場合その壁面には、神社に由来する

紋や動物などの形象が刻まれるのが常。

伊雑宮の六芒星(籠目紋)が彫られた灯篭は、

ユダヤとの縁を示唆する象徴的な印です。

 

実は、こちらの鹿島・香取神宮にも、

六芒星にも通じる謎の神紋が刻まれた

灯篭が存在するのをご存知でしょうか?

「三つ穴灯篭」と呼ぶそうですが、

一説によりますと、この三つ穴灯篭も、

ユダヤとの関連を示すものなのだとか。

 

三つ穴灯篭は、関東を中心に分布し、

同じ東国三社のひとつ、

息栖神社にもあると聞きました。

また、これらの神社にほど近い、

成田市の麻賀多神社(まかたじんじゃ)でも、

三つ穴灯篭を見かけたことがあります。