たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

ミカとナカ

2018-10-31 09:20:27 |  出雲の神話

<大甕神社 おおみかじんじゃ>

 

鹿島神宮が創始される以前、鹿島周辺の一帯は、

那賀国造によって管理された土地だったと聞きます。

「ナカ」という言葉を耳にすると、

阿波国との関連が思い浮かびますが、

タケミナカタという神様の名称にも、

「ナカ」の文字が含まれており、

また、「タケミ」「カ」という音は、

「甕」とのつながりを連想させます。

 

もしかすると、タケミナカタという神にも、

「ミカ」とのつながりがあったのでしょうか……。

 

ちなみに、タケミナカタの本拠地でもある

諏訪地方には、道祖神信仰という

土着の風習が残っておりました。

道祖神と言うのはつまり「塞ノ神」であり、

「甕(みか)」にも通じる祭祀対象ですね。

タケミカヅチ、タケミナカタという

二神の名が持つ共通の響きの中には、

神々がたどった複雑な経緯が隠されているようです。


出雲神話の特徴

2018-10-30 09:17:08 |  出雲の神話

<鳥屋神社 とやじんじゃ>

 

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果敢に戦いを挑んだタケミナカタでしたが、
逆にタケミカヅチに軽々と手をつかまれ、
あっという間に投げ飛ばされてしまいました。
敗北を悟ったタケミナカタは、
慌ててその場から逃げ出したものの、
信濃の国の諏訪湖のほとりまできたところで、
タケミカヅチに追い詰められてしまいます。
そして、国譲りに同意することと、
一生諏訪の地から出ないことを、
命乞いの交換条件として約束させられたのです。

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タケミナカタが登場するシーンで手にしていた大岩は、

「山の神」の属性を意味するという説があります。

そして、タケミナカタと対比して描かれる事代主神は、

岬で魚釣りをしていたことからもわかるように

「海の神」の属性を帯びていますね。

恐らく、この対照的な大国主神の二柱の子が示すのは、

大国主神が国造りをより盤石にすべく、

「近隣国」そして「様々な部族」と

婚姻関係を結んでいたという事実でしょう。

 

古代日本にやってきたイスラエル氏族の系統を、

明確に分けることができないように、

ひと口に、「国津神」「出雲系の神々」

「大国主神の子孫」 とは言っても、

各々の神によってその背景は千差万別です。

「天津神系の血が濃い国津神」

「渡来系の血が濃い国津神」

「海人族系の血が濃い国津神」……など、

複雑な立ち位置に置かれた神々が目立つのも、

出雲神話の特徴のひとつなのかもしれません。


タケミナカタ

2018-10-29 09:13:00 |  出雲の神話

<親不知・子不知>

 

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話し合いを続けるタケミカヅチと大国主神の前に、
大岩を手の平に載せたタケミナカタがやってきました。
そして「この国を奪いたいなら、私と力比べをせよ」と言い、
意気揚々とタケミカヅチに挑みかります。
しかし、自らの手を氷柱から鋭い剣の刃へと変化させた
タケミカヅチの姿を見て、タケミナカタは
恐れおののき戦闘意欲を消失してしまったのです。

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素直に国譲りに応じた事代主神とは対照的に、

天津神に歯向かうような態度を取った

タケミナカタでしたが、タケミカヅチの力は凄まじく、

すぐに劣勢に立たされてしまいました。

同じ大国主神の子でありながら、

真逆の判断を下した二人の御子の姿は、

「イズモ」の国々がたどった様々な経緯と、

同じ国の中でも意見が割れていた事実を示すのでしょう。

 

ちなみに、タケミナカタという神は、

大国主神と高志(越)のヌナカワヒメとの間に

生まれた子どもだという説があります。

ヤマタノオロチや因幡の白兎など、

出雲神話を代表するいくつかの物語に、

たびたび影をのぞかせる「越」という国は、

この国譲りの場面においても、

カギを握る土地として暗示されていました。


各地のイズモ

2018-10-28 13:06:39 |  出雲の神話

<佐支多神社 さきたじんじゃ>

 

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事代主神の同意を得たタケミカヅチは、
再び大国主神に尋ねました。
「お前の子である事代主神は、
葦原中つ国を天津神に譲ることを認めたが、
他に意見を聞かねばならない子どもがいるか?」
その問いに対し大国主神は、
「タケミナカタという子がいますが、
それ以外にはいません」と答えました。

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事代主神が海の中に沈んで行った後、

入れ替わるようにして登場するのが

タケミナカタという神様です。

諏訪大社のご祭神としても知られる

タケミナカタは、『出雲国風土記』だけでなく、

『日本書紀』にも記載がないことから、

もともとは諏訪地方で信仰されていた土着の神で、

出雲とは無関係だったいう話もあります。

 

つまり、出雲神話に登場する神々のほとんどが、

「どういうわけか出雲とはあまり関わりがない」

という不可解な傾向が見られるのですね。

出雲を舞台にした記紀の物語が、

出雲というひとつの国で起こった出来事ではなく、

全国各地の「イズモ」と呼ばれる土地で起きた事件を、

総括した内容だと言われるのも、

そういった理由からなのでしょう。


神々のつなぎ役

2018-10-27 09:45:57 |  出雲の神話

<揖夜神社 いやじんじゃ>

 

先日のブログ内で記事にした「雄略天皇の一件」で、

雄略天皇が葛城山で出会った一言主神という神様は、

実は事代主神のことではないかとも言われています。

雄略天皇の分身として現れた一言主神も、

鳥のあそびや天の逆手を施した事代主神も、

シャーマンとしての側面を持つだけでなく、

「あの世」とのつながりが深い神様ですね。

 

ここで思い出すのは、事代主神と同様、

何処からともなく美保の岬に現れ、

自ら常世の国へと旅立っていった

少彦名神という謎の神様です。

禁厭(まじない)を得意とし、

海の向こうへと去っていく二神からは、

異国の空気が濃厚に漂ってきます。

 

しかし、出雲神話を彩る神々であるにも関わらず、

なぜか両者ともに出雲における存在感は薄く、

二神を主祭神として祀る神社はほとんどありません。

事代主神と少彦名神にまつわるこれらの事実は、

いったい何を指し示しているのでしょうか……。

もしかすると彼らは、何らかの事情により、

本当の名前を伏せられた可能性もありそうです。


海の呪術師

2018-10-26 09:41:10 |  出雲の神話

<美保神社 みほじんじゃ>

 

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天津神の意向を汲んだ事代主神は、
「畏れ多いことです。この葦原中つ国は
天照太御神の御子に差し上げましょう」と言い、
すぐに自らが乗っていた船を踏み傾け、
天の逆手を打って船体を青柴垣に変えると、
その中に隠れてしまいました。

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天津神らに国譲りを迫られた事代主神は、

特に抵抗することなくその申し出を承諾し、

「天の逆手」という呪術を施して、

海の中へ消えてしまったと記紀は記します。

恐らく、事代主神は大国主神と同様に、

出雲を取り巻く包囲網が強まりつつある現実と、

「その時」が迫っていることに気づいていたのでしょう。

もしかすると、すでに大国主神から様々な事情を知らされ、

自らの手で自身の処遇をすべく

準備をしていたのかもしれません。

 

天津神からの提案を聞いた大国主神が、

真っ先に事代主神の意見を聞こうとしたのも、

事代主神に対する大国主神の信頼が、

非常に厚かったことを伺わせます。

と同時に、大国主神は普段から、

事代主神を通して「大事な神託」

受け取っていたようなニュアンスも伝わってきます。

とすれば、やはり事代主神という神は、

大国主神の子ではなく、 大国主神に仕える

神官やシャーマンだったのでしょうか……。


鳥のあそび

2018-10-25 09:18:06 |  出雲の神話

<美保神社 みほじんじゃ>

 

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大国主神の返答を聞いたタケミカヅチは、
早速アメノトリフネを美保の岬に遣わし、
事代主神を呼び出して問いかけました。

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天上界の使者が迎えに来たとき、

事代主神は魚釣りをしていたとも、

鳥のあそびをしていたとも言われております。

目の前に自らの危機が迫っているというのに、

何とものん気な光景のようにも思えますが、

実は鳥のあそびと言うのは「神事」であり、

出雲地方の習俗である「風葬」

にもつながる神聖な儀式だったのだとか。

 

風葬というのは、亡くなった人の遺骸を、

木の上に吊るして鳥に食べさせる埋葬法でして、

鳥が魂をあの世に運ぶという信仰とともに、

全国のあちこちにその痕跡が残っています。

つまり、事代主神は何も知らずに

のんびりと釣りをして遊んでいたわけではなく、

自らの死を予見したかのような神事を

執り行っていた可能性が高いのですね。


出雲のキーマン

2018-10-24 09:14:25 |  出雲の神話

<美保神社 みほじんじゃ>

 

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タケミカヅチの言葉を聞いた大国主神は、
「私は申し上げることができないのです。
私の子である事代主神に聞いてください。
しかし事代主神は、美保の岬に出掛けていて、
まだ帰って来ておりません」と答えました。

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ここで満を持して登場するのが、事代主神という神です。

個人的には、出雲神話の「秘密」を握るキーマン?として、

大いに注目している存在なのですが、 どういうわけか、

神話の中で事代主神が取り上げられるのは、

ほぼこの一ヶ所のみで、『出雲風土記』はもちろんのこと、

出雲地方で事代主神が崇拝された形跡すら見当たりません。

 

ゆえに、事代主神を「大国主神の子」と 記すことに、

懐疑的な見方があるのも事実でして、

一説には、この事代主神という神は神様ではなく、

神官やシャーマンのような「実在の人間」

だったのではないかとも言われています。

果たして、事代主神の正体とは誰なのでしょうか……。


真の丈夫

2018-10-23 09:11:26 |  出雲の神話

<倉吉・倭文神社 しどりじんじゃ>

 

出雲大社の社家に伝わる『出雲国造神賀詞』には、

「国譲りは経津主神(フツヌシ)によって行われ、

建御雷神(タケミカヅチ)は無関係だった」

とも受け取れるような記述があるそうです。

また、出雲地方の言い伝えを記した

『出雲国風土記』に登場する神名や、

出雲近辺の神社のご祭神などを見ても、

タケミカヅチのよりもフツヌシのほうが

圧倒的に目立っていることがわかります。

 

これらの内容を踏まえると、

大国主神に国譲りを迫ったのは、

「タケミカヅチではなくフツヌシだった」

という可能性がより信憑性を帯びてきますね。

少なくとも出雲の人々にとって、

天上界から派遣されてきたのは「フツヌシ」であり、

タケミカヅチではなかったということなのでしょう。

 

フツヌシの別名である斎主神とは、

「神に仕える者」を意味しますが、

物部氏の所有する十握剣(布都御魂)を、

フツヌシと呼ばれる斎主がお祀りしていたと想像すると、

布都御魂をめぐる諸々の駆け引きが脳裏に浮かびます。

もしかすると、布都御魂を管理した斎主氏族こそが、

「最後の使者」であり、タケミカヅチの陰に潜む

真の丈夫(ますらお)だったのでしょうか……。


斎主神

2018-10-22 09:07:44 |  出雲の神話

<香取神宮 かとりじんぐう>

 

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出雲の伊耶佐の小浜に降り立ったタケミカヅチは、
十握剣を抜き、波頭に突き立てると、
剣先にあぐらをかいて座りました。
そして大国主神に対し、
「私は天上界の使者である。
天照太御神とタカキノカミ(タカミムスビ)は、
彼らの御子に葦原中つ国を支配させたい 
と考えているが、そなたはどう思うか」と尋ねたのです。

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もし仮に、タケミカヅチという神が架空の存在であるなら、

このとき天津神を代表して地上界に降り立ったのは、

いったい誰だったのかが気になるところです。

そのヒントを探すため、鹿島神宮とのつながりが深い、

香取神宮について考察してみることにしましょう。

 

実は、香取神宮の祭神である経津主神(フツヌシ)には、

斎主神(いわいぬしのかみ)という別名がありました。

一説には、斎主(いつぬし)が経津主(ふつぬし)

に転訛したとも言われておりますが、

これらの名称から察するに、香取神宮には

「祭祀をする者」がいたことが伺えます。

 

また、香取という名称は「かじ(舵)取り」

から来ているという説が有力視されており、

操船技術に長けた海人族の姿も重なりますね。

もしかすると、香取神宮という古社は、

古くは海人族の血を引く斎主が、

神剣をお祀りしていた場所だったのかもしれません。


海の防御壁

2018-10-21 09:04:00 |  出雲の神話

<出雲市大社町>

 

東の果ての鹿島神宮は太平洋に向けて、

そして西の果ての出雲大社は日本海に向けて、

まるで「海からの侵入者」ににらみを利かせるように、

神たちの目線は海の方向を凝視していました。

鹿島神宮と出雲大社という二つの古社が、

本殿・神座の配置をこのような形に決めた理由とは、

もしかすると天津神と国津神の相克、

あるいは古代氏族の間で起きた争い……、

などの理由だけではなかったのかもしれません。

 

それは恐らく、「のちの世の日本人」を守護するために、

古代のある時期に施された壮大な仕掛けだったのでしょう。

もちろん、記紀神話が示すように、当時の人々の間で

凄惨な争いの歴史があったことは事実ですが、

国津神と呼ばれる神々(およびその御霊を宿した人々)が、

言うなれば人柱となって日本を支えることで、

「海の向こうからの侵略」を防いだのだと思われます。

 

ここ数年、鹿島神宮の周辺では地震が相次ぎ、

また今春には、出雲の隣の大田市付近を

震源とする震度5強の地震が起こりました。

また、これらの二社だけに限らず、

全国各地の「国津神に縁する土地」で、

立て続けに地震などの天災が発生しています。

長い長い眠りから覚めた国津神という名の神々は、

身を挺して守ろうとした後世の日本人の姿を、

いったいどのような思いで見つめているのでしょうか……。


特徴的な神座

2018-10-20 09:00:18 |  出雲の神話

<鹿島神宮 かしまじんぐう>

 

出雲大社の神座の配置が特徴的なのは、

一般的にもよく知られた事実ですが、

実は鹿島神宮という神社の構造も、

出雲大社のそれとよく似ているのだそうです。

確かに、本殿自体は北向きにも関わらず、

鹿島神宮の神座はなぜか東を向いており、

南向きの本殿でありながら、

神座が西を向いている出雲大社とは、

お互いに対を成すような位置関係にも思えます。

 

もしかすると、鹿島神宮も出雲大社と同様に、

国津神との因縁を抱えた場所なのでしょうか……。

仮にそうだとすれば、鹿島神宮のご祭神は、

藤原氏の氏神であるタケミカヅチではなく、

この地を守っていた別のタケミカヅチだった

という話が、さらに信憑性を増しそうです。

 

ちなみに、出雲大社と鹿島神宮とを直線で結ぶと、

諏訪大社および白山系の主要神社の上を通過する、

巨大なレイラインが描かれるという話があります。

恐らく、東の突端と西の突端とに鎮座する

「特徴的な神座」を要した二つの古社は、

単なる「怨霊封じ」のひと言では片づけられない、

深遠な役目を担った場所なのかもしれません。


本当の神名

2018-10-19 09:57:06 |  出雲の神話

 <大甕神社 おおみかじんじゃ>

 

出雲神話の国譲りの件で活躍する

タケミカヅチ(建御雷神)という神は、

建布都神や豊布都神など様々な別称を持ちますが、

その中に「武甕槌神」という表記が存在します。

この名前を元に考察すれば、

タケミカヅチは雷を象る神というより、

甕(みか)つまり境界を守護する

塞の神だった可能性も否定できません。

 

ちなみに、甕は「かめ」と呼ばれる容器のことで、

俗世と現世とを分ける境目に埋められた祭祀具でした。

鹿島市の近くの日立市には、大甕という地名が残っており、

古くはこのあたり一帯が祭祀場だったと考えられています。

もしかすると、古代は多氏がお祀りしていたはずの甕の神を、

建御雷神に変えてしまったのは藤原氏だったのでしょうか……。


藤原氏の思惑

2018-10-18 09:43:38 |  出雲の神話

<鹿島神社 かしまじんじゃ>

 

国譲りの件で登場するフツヌシという神は、

「神剣に宿る神霊」を表す神名であり、

フツヌシが宿る神剣を「布都御魂」と呼びます。

布都御魂は現在、初代の刀が物部系の石上神宮に、

二代目の刀が藤原系の鹿島神宮に祀られておりますが、

一説には、もともと藤原氏が所有していたものを

物部氏が奪ったため、二代目が造られたという話も……。

 

真偽のほどはさておき、藤原氏が物部氏を牽制し、

「布都御魂は自らのもの」と喧伝することに、

執念を燃やしていたのは確かでしょう。

 

ちなみに、中臣氏の出と言われる藤原不比等という人物は、

実は中臣とは別の渡来部族の出身であり、

「権威付けのために中臣の系譜を利用した」という説が有力です。

日本神話の見せ場とも言える大事なシーンにおいて、

たびたびタケミカヅチが布都御魂とともに登場する背景には、

陰の編纂者とも言われる藤原氏の思惑があったのでしょうか……。


記紀編纂の裏側

2018-10-17 09:40:36 |  出雲の神話

<出雲市・屏風岩>

 

出雲神話のクライマックス「国譲り」の件において、

天上の神々が最後の使者としてフツヌシを指名したとき、

「フツヌシだけが丈夫(ますらお:一人前の男)で、

私は丈夫ではないというのか」とタケミカヅチが怒ったため、

この二神を一緒に派遣したと『日本書紀』は記しております。

さらに、『古事記』の中ではフツヌシの名前さえ登場せず、

まるで国譲りの場面はタケミカヅチの独り舞台のように、

華々しく描かれているのが印象的です。

 

ちなみに、よく知られた話でありますが、

記紀(特に『日本書紀』)の内容には、

当時大きな権力を誇っていた藤原不比等の思惑が

反映されたという説があるのをご存知でしょうか……。

もしそれが本当だとするならば、

記紀神話の名場面でもあるこのシーンに、

自らの氏神(に設定した)タケミカヅチの名前を、

あえて加えたと考えても不思議ではありません。

 

『古事記』の編纂者・太安万侶は、

多氏の流れを汲むとも言われる人物です。

そして、藤原氏(中臣氏)の氏神、

鹿島神宮にもともと祀られていたのは、

タケミカヅチではなく多氏の祖先である

「タケカシマノ命」だったのだとか。

つまり、太安万侶および多氏は、

何らかの理由で藤原不比等や中臣氏の意向を

無視できない立場に置かれていた可能性があります。