たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

磐座信仰

2017-07-31 10:19:47 |  無社殿神社2

<高塚の森 たかつかのもり>

 

古代ユダヤの人々も「磐座崇拝」とでも呼ぶべき、

巨石への特別な信仰心を持っていたという話があります。

もともとその場にあった巨石を利用したのか、

あえてその場に巨石を移動したのかはさておき、

熊野の地にたどり着いた渡来人(古代ユダヤ人)が、

この地方の巨石文化を後押ししたであろうことは、

想像に難くない流れです。

 

とは言え、渡来人が日本にたどり着いた時代、

すでに古代日本(特に太平洋の海側)では、

土着の太陽信仰が根付いていたのでしょう。

日本古来の太陽信仰の形を整える過程で、

日本人と同じ遺伝子を有する、

ユダヤ人の「叡智」が注がれたのかもしれません。

(あくまで勝手なイメージですが…)

 

恐らく当時は、磐座に「敬いの心」のみを捧げ、

神様を宿すための磁場を創り上げていたはずです。

「巨大な感謝」を蓄え続けた巨大な岩に、

冬至や春分などの特別な日の太陽が力を与え、

磐座全体が人々の思いを反射する磁力で、

あふれかえっていたのだと思います。


自浄作用

2017-07-30 10:17:09 |  無社殿神社2

<高塚の森 たかつかのもり>

 

もともと磐座(大きな岩)というのは、

神様に下りていただくための目印でした。

特殊な磁気を発する巨石(鉱物)は、

その突出した姿形のせいだけでなく

人の思いを宿し投射する性能が高いため、

神の依り代になりやすかったのでしょう。

 

多くの専門家が指摘しているように、

磐座と太陽信仰との関わりというのは、

切っても切れないものだと思います。

特別な日の太陽の光を、

聖地から聖地へと導くように作られた、

レイラインの目標物となっているのは、

明らかに各所に作られた磐座だからです。

 

「太陽信仰の拠点のひとつ」と言われる

熊野の巨石信仰の痕跡を訪ねるうちに、

もしかすると太陽信仰には、

「自浄作用」をもたない岩を、

太陽の光で浄化するような意味合いも

含まれていたのではないかという考えが、

ふと頭をもたげてきました。


古い太陽神

2017-07-29 10:12:21 |  無社殿神社2

<市鹿野・熊野十二神社 いちかのくまのじゅうにじんじゃ>

 

十二所神社(じゅうにしょじんじゃ)、

十二社神社(じゅうにしゃじんじゃ)、

十二神社(じゅうにじんじゃ)など、

「十二」と名のつく神社が全国に分布しています。

ひとつは関東・甲信越地区に多くみられる

「十二様」という土着の山の神をお祀りした場所。

もうひとつは熊野地方を中心に点在する

熊野権現に関係する場所といった具合に、

大きく分けて二つの系統があるそうですが、

「十二」という数字の謎を解いていきますと、

熊野地方から広まったとも言われる、

「太陽信仰」との関わりも無視できません。

 

太陽の動きと連動し、干支や星座、

1年の月数などにも用いられる「十二」は、

古代の人々にとって「最も極まった数」でした。

ゆえに、神様の神威や畏怖を示す表現としても、

非常に適した言葉だったのでしょう。

熊野地方の神社で盛んに行われている

「射日儀礼」という弓引きの儀式も、

冬至祭や太陽信仰の名残とも言えます。

「十二」という数に隠されているのは、

天照太御神が私たちの先祖神となるはるか以前に、

この熊野の地を中心にお祀りされていた、

古い太陽神の存在なのかもしれません。


川という道

2017-07-28 10:18:55 | 無社殿神社1

<古座川>

 

熊野を巡っている最中、昔の人々にとって

「川筋」というものがいかに重要であったか、

ということを改めて確認したような気がします。

現代のように様々な交通手段が発達する前は、

川は最も利便性に優れた「生活道」であり、

物資も文化も「川」に沿って伝播しました。

同じ「川筋」に暮らす人々の結束力は、

私たちの想像以上のものだったと思われます。

 

南方からこの熊野の海にたどり着いた人々は、

紀伊山地へと続くあちこちの「川筋」に定住し、

川を遡ってさらに山深い場所へと、

文化や風習を伝えていったのでしょう。

神武天皇がヤマトに進軍する際に重視したのも、

その土地の「川の状況」だったといわれています。

川筋に沿うようにして並ぶ熊野の無社殿神社は、

様々な歴史を目撃した生き証人なのかもしれません。


皮膚感覚

2017-07-27 10:16:45 | 無社殿神社1

 <入谷・地主神社 いりたにじのしじんじゃ>

 

熊野地方の無社殿神社を訪れて感じたのは、

「空=何もない」ことのすごさでした。

様々なご利益を謳う神社を参拝する際、

私たちはどうしても「願い事」のほうに

意識が向いてしまいがちですが、

無社殿神社のように、宣伝のための幟はおろか

社殿すら存在しない場所を目の前にしたとき、

心の中に思い浮かんでくるのは、

穏やかな感謝の気持ちしかありません。

 

私たちの祖先が何もない空間を真剣に拝んだのも、

決して人として未熟だったからではなく、

行き過ぎた森林の伐採や、物質的価値観に

さらされなかったからこそ持ち得た、

皮膚感覚のおかげなのでしょう。

「神前に向かったときは神への感謝を思う」。

そんな日本人として当たり前のことが、

当たり前として受け入れられる世の中が

一日も早く実現するよう願ってやみません。


先祖が来た道

2017-07-26 10:11:47 | 歴史・神話・旅・風景

 

伊勢・奈良・熊野などの古い聖地を巡っていると、

「東京や関東からの旅行者ばかり」

という話をあちこちで耳にします。

もちろん首都圏の人口が、

他の地域と比べて段違いに多いという、

物理的な要因もあるでしょうが、

人口という側面だけでは説明できない特別な理由が、

それらの状況の中には含まれていると感じるのです。

 

古事記や日本書紀などの古書を読んでもわかるように、

詳細な歴史が残されている西日本の状況とは異なり、

東日本の歴史に関しては、ほとんどといってよいほど、

物語らしい物語は記されていません。

最近になってようやく、東日本が「未開の地」

ではなかったことが証明されていますが、

「歴史的な裏付けがない」という状況は、

その土地で暮らす人の心に、

想像以上に影響を与えるものなのです。

 

東京や関東に住む人々が、

様々な歴史が眠る場所を目指すのも、

「自分のルーツ」を取り戻したいという、

押さえがたい衝動があるのでしょう。

今日本人の多くが、自分の足元に不安を感じ、

「先祖が来た道」への回帰を試みているのだと思います。


神との均衡

2017-07-25 10:39:37 | 無社殿神社1

<下村・矢倉神社 しもむらやぐらじんじゃ>

 

少々矛盾した言い方かもしれませんが、

人の手が入るからこそ聖域は保たれ、

また人の手が入らないからこそ、

たくさんの精霊が宿れるのだと思います。

神と人とが共存するこの世界では、

常に両者のバランスに気を配らなければならず、

どちらに偏っても日常生活に弊害が出ます。

昔の日本人は、神と人とが調和を保てるよう、

無意識に住み分けていたのでしょう。

 

いつの時代からか「社殿」という人工物が、

神社の代名詞のように扱われるようになったのも、

どこからが神の領域かわからなくなった、

人間の思い上がりが原因なのかもしれません。

私たちの先祖が神という存在に対し、

「真面目」に向き合っていたのは、

神と人との均衡が崩れたときに起こる災いを、

現実に経験していたからなのですね。


あるべき姿

2017-07-24 10:35:47 | 無社殿神社1

<生馬・篠原矢倉神社 *しのはらやぐらじんじゃ>

 

大自然という「空」の対象を拝み、

日常のありとあらゆる空間に

「神」を見ていた古代日本人にとって、

神社(祭壇)は単なる目印であり、

ときには移動することさえありました。

聖域が固定化された背景には、

暮らしの中に「神様」を感じられなくなった、

現代人の驕りが潜んでいるのだと思います。

 

もちろん、古い聖域を守る気持ちは大切ですが、

同時に、古くなってしまった聖域に、

固執する必要もないのでしょう。

役目を終えた場所はそのままの状態で保護し、

これからは、私たちひとりひとりの日常の中に、

「自分だけの聖域」を持てばいいのです。

 

訪れる人も少なくなった無社殿神社の前で、

枯れ行く木々、苔むす石、 朽ちた祠を

ボンヤリと眺めながら、

自然に宿る精霊たちが次々に、

「ひとつの塊」に吸収されて行く姿を想像しました。

それはまるで、人間が土に還るのと同じように、

自然と一体になった神社のあるべき姿でした。


特別な神業

2017-07-23 10:33:49 | 無社殿神社1

<上村・矢倉神社 うえむらやぐらじんじゃ>

 

「空神を拝む」という高度なご神事は、

「何かを得ること」を目的に、

ご利益を求めて神社を巡っている限り、

決して身にはつかない特別な神業です。

地域の氏神や産土神を大切にし、

素直に神様を信じられる人でなければ、

どんなに神社参拝を重ねても、

「空」には意識を向けられないのですね。

 

自然と一体になった無社殿神社には、

たくさんの精霊が飛び交う「空」が生まれ、

岩や樹や森や川に向かって

厳かに手を合わせる参拝者に、

「生かす」という最高のご利益を与えてくれます。

それはきっと、昔の日本人なら誰でも持っていた、

どんな儀式よりも効果のある心がけなのでしょう。


神との境

2017-07-22 10:31:41 | 無社殿神社1

<滝の拝・矢倉神社 たきのはいやぐらじんじゃ>

 

「越えてはいけない一線」というのは、

どの世界にもあるもので、

特に人と神との一線を越えると、

神と一体になるどころか、

逆にお互いの距離が離れてしまいます。

人と神との「境目」にある

神社という存在に接していますと、

古代の日本人がいかに「境界」を

大事にしていたを実感するのです。

 

日本人は昔から、山の奥、川の淵、

海の中などに立ち入るときは、

必ず神様に挨拶をし敬意を示しました。

一見無秩序のようにも思える

熊野の無社殿神社の造りも、

実は非常に合理的な形をしているのです。

きっと昔の日本人は、何もない空間に

はっきりと「神との境」を見ていたのでしょう。


高度な精神性

2017-07-21 10:28:29 | 無社殿神社1

<矢野熊・矢倉神社 やのくまやぐらじんじゃ>

 

もともと神社に「社殿」は存在しませんでした。

昔の人たちは、木・岩・川そのものが神であり、

空気自体に神様が宿っているということを、

無意識に感じ取っていたからなのでしょう。

神と人との境がわからなくなった人間が、

あまりにも増えすぎたゆえに、

「社殿の増築」の流れが生まれたのかもしれません。

 

神様がお祀りされている「ご本殿」は、

言うなれば木材で密閉された空の一室です。

きっとそれは、禁則地である鎮守の森を

意図的に再現したものなのだと思われます。

「無言」のままの自然、「空間」に宿る神様、

そんな不明瞭な対象を拝んできた日本人は、

まちがいなく高度な精神性を持つ民族なのです。


予言の鏡

2017-07-20 10:23:42 | 無社殿神社1

<古座川近辺>

 

熊野地方の無社殿神社の多くは、

「存続の危機」にさらされています。

もうすでに、神社という形はおろか、

もともと神様をお祀りしていた位置さえ

特定できないような場所も多々あります。

 

地域の過疎化が最大の原因ではありますが、

日本人の意識の中から「自然への信仰心」が

薄れていることも無関係とはいえないでしょう。

 

ただ、そんな風前の灯ともいえる

無社殿神社のこれからを考える中で、

「その裏にはもっと深い要因が

隠されているのではないか」

と感じているのもまた事実です。

 

これから「心の時代」へと切り替わるに従い、

「神や精霊はひとつの存在に一元化される」

という話を耳にしたことがあります。

もしかすると、熊野の無社殿神社の現状は、

これからの時代を私たちに知らせる

「予言の鏡」でもあるのかもしれません。


正しい関係

2017-07-19 10:22:50 | 熊野の神社

<曽根・飛鳥神社 そねあすかじんじゃ>

 

ごくごく限られた狭い神域の中に、

天然記念物レベルの巨木を多数抱く

曽根・飛鳥神社の周辺は、

縄文土器が大量に出土する

古代集落の跡でもあるそうです。

 

境内に隣接する家々や、小さな漁港を見る限り、

とてもこれらの場所が遺跡だとは思えませんが、

熊野という土地の多様性、そして深淵さを考えると、

「さもありなん」と納得してしまう部分もあります。

 

「海」「山」「川」「樹」「岩」など、

自然界を司るありとあらゆる対象がひしめき合い、

思い思いの形を取りながら創り上げられたこの神域は、

まさしく熊野の神々の造形物なのでしょう。

 

この熊野の地で、時代の波に飲まれながらも、

奇跡的に生き残った古代の断片に触れたとき、

神々が私たちに伝えたかった、

「人と神との正しい関係」が、

少しだけわかったような気がしました。


神域の概念

2017-07-18 10:20:44 | 熊野の神社

<曽根・飛鳥神社 そねあすかじんじゃ>

 

今回、押し気味の予定をやりくりしてまで

曽根・飛鳥神社を訪れたかった理由は、

神社の裏手の樹齢1000年はあろうかという

クスノキの巨木を写真に撮ることでした。

前回は知らずに通り過ぎてしまい、

後で資料を調べている最中に気づいて、

少々残念に思った経緯があったからです。

 

目指すクスノキの巨木は、

左手にあるホテルに向かって続く小道の途中、

境内をぐるっと取り巻く石垣の不自然な隙間に、

かなり窮屈そうな趣で収まっていました。

「境内」という狭い枠を飛び出すほど、

生命力に満ちたその姿を目の前にすると、

現代人が決めた「神域」の概念が、

神の意志とは少々異なることを感じます。

 

きっと古代は、この神社周辺の一帯に、

亜熱帯の森が広がっていたのでしょう。

上へ上へとどこまでも伸びる太い幹と、

空を埋め尽くすように広がる枝葉は、

かろうじて残された神域を、

その身を持って守るかのごとく、

千年以上もの長い間、

この場で静かに耐えていたのかもしれません。


密度の濃い社叢

2017-07-17 10:18:45 | 熊野の神社

<曽根・飛鳥神社 そねあすかじんじゃ>

 

今回の旅で最後に訪れたのは、

以前ご紹介した曽根・飛鳥神社です。

一度参拝したことがある場所のため、

「時間がなければ中止」と考えていたのですが、

何かのご縁か「飛鳥」の名を持つ神社を、

立て続けにお参りした以上、

やはり立ち寄らないわけにはいきません。

 

熊野市との境にほど近い尾鷲市・曽根町へは、

五郷町から車でおよそ30分程度かかります。

すでに太陽が山の際まで迫り始めたころ、

白金色に染まった鳥居とご本殿が、

「ようやく来たか」と言わんばかりに、

まぶしい残光とともに出迎えてくれました。

 

改めて境内を眺めてみますと、

他の神社の社叢と比べても、

この神社の森の密度はかなり濃く、

すぐそこに海があるというのに、

あたかも深山にいるような錯覚を起こします。

「鎮守の森」のひと言では括れない、

バラエティー豊かな様相があることを、

この神社に来るとつくづく実感するのです。