たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

新たなピース

2019-12-11 09:50:44 | 縄文への旅

<三内丸山遺跡・縄文時遊館>

 

数か月間にわたり、「縄文時代」

について考察してまいりましたが、

記事内で取り上げた遺跡および遺物は、

全体から見ればほんのわずかでして、

青森だけでなく信州や東日本、

さらには全国各地を含めると、

膨大な量の「縄文」が私たちの足元に眠っています。

 

ゆえに、まだまだ取り上げたいテーマは

山ほどあるものの、他の遺跡にも足を運んだ上で、

改めて記事にできればと考えておる次第……。

縄文に興味がある方、神社マニアの方にとっては、

読んでいて物足りない部分、あるいは「?」

と感じるような部分も多々あったかと思いますが、

なにとぞご了承いただければ幸いです。

 

しかしながら、古代日本という舞台は、

知れば知るほど「謎」と「発見」が増える、

まさにミラクルワールドでして、

まったく無関係だと思われていた二つの事象や、

まったく縁がないと思われていた別々の土地が、

まるでパズルのピースがピタッとはまるように

つながることが頻繁にあります。

 

そして、古代日本で起きた出来事が、

まるでリピート再生するかのように、

現代に蘇っていることをつくづく実感するのです。

古代史や縄文をひも解くという一連の仕業は、

私たち日本人が生き延びるための、

大切な知恵を与えてくれるのでしょう。


言葉に宿る神

2019-12-10 09:45:34 | 縄文への旅

<国立民族学博物館>

 

昨日「生き物の模写」に関する記事を書きましたが、

同じようにアイヌの人々は「言葉」に関しても、

非常に繊細な感性を持ち合わせていました。

何でもアイヌの人々の間では、

他人を貶めるような言葉は絶対に口に出さない、

あるいは他人と同じ名前は絶対につけない……

などの決まりがあるそうで、

もし仮に、誰かと同じ名前をつけた場合、

相手の災い等が自分自身に伝播するのだとか……。

 

まあ、現代人にしてみれば、単なる「道徳的」

「スピリチュアル的」な思考でしかありませんが、

「言葉」を扱う身にとっては、

非常に共感できる部分があるのも確かでして、

文字を持たない縄文時代の人々が、

自らが発する「言葉」に対して、

相当神経を払っていたのは事実だと思うのです。

 

恐らく、縄文の血を引くアイヌの人たちも、

言葉を操ることで「神」とつながり、

また、言葉を操ることで「災厄」を

起こすことも可能だったのでしょう。

「言霊」の効力や「言葉に宿る神」

の存在を肌身で感じていたからこそ、

自他の「命」を慈しむように、

慎重に言葉を選んでいたのかもしれません。


アイヌの文様

2019-12-09 09:42:21 | 縄文への旅

<国立民族学博物館>

 

アイヌと縄文人とのつながりについては、

専門家の間でも意見が分かれるようですが、

アイヌに残る様々な思想や習俗を調べておりますと、

個人的にはやはり両者の間に深い結びつきを

感じるのも確かです。そのひとつが、

アイヌの人々の間に伝承される「文様」でして、

その幾何学的な図形の繰り返しを伴うデザインは、

どう見ても縄文土器のそれを想像せずにはいられません。

 

ちなみに、アイヌの人たちは、「絵」や

「生き物の造形物」などを極力避けていた節があり、

アイヌの血を引く老人が、動物の着ぐるみを着た人を見て、

「何と恐ろしいことを……」と卒倒したという話も聞きます。

恐らく、縄文人と同じようにアイヌの人々にとっても、

「神」が宿る動物や自然界の生物を安易に模写することは、

タブー中のタブーだったのでしょう。

 

縄文人が、大胆にデフォルメした図柄を土器に用いたり、

わざと人間離れしたフォルムの土偶を造ったりしたように、

アイヌの人たちも命あるものを「生き写しにする」ことに、

ある種の畏れを感じていたと考えられるのです。


続縄文時代

2019-12-08 09:16:46 | 縄文への旅

<国立民族学博物館>

 

西日本一帯が「弥生」と呼ばれる時代に入ってからも、

頑なに縄文文化を守り続けた、

東北、信州、関東など東日本一帯でしたが、

四方八方から押し寄せる「新時代の波」には逆らえず、

次第に弥生文化に飲み込まれて行きました。

そんな中、日本列島のある一部の地域だけは、

いわゆる「弥生化」することなく、

今日にまで至っているという事実をご存知でしょうか? 

 

その地域とは、ずばり「北海道」でして、

何でも冷涼な気候のせいで稲作が根づかなかったため、

必然的に「縄文」を維持し続ける結果になったのだとか……。

日本の全土が弥生一色に染まって以降も、

約1,000年間にわたり「続縄文時代」

と呼ばれる狩猟採集生活を続け、

のちの「アイヌ」の人々へと血脈をつないだと聞きます。

 

つまり、弥生化の波をかいくぐった「北海道縄文人」こそが、

縄文人のDNAを最も色濃く継承している人々であり、

現在のアイヌの人々の暮らしの中に、

かなり高密度の「縄文」が残されていると

考えても差し支えないのでしょう。


四国とユダヤ

2019-12-07 09:13:36 | 縄文への旅

<見ノ越・剣神社 つるぎじんじゃ>

 

縄文時代の人口推移の資料

を眺めているとき気になったのが、

縄文時代後半、九州を始めとする西日本で、

一時的に人口増加の傾向が見られるということです。

中でも「四国」の人口の急増は、

素人の目にも少々不自然に映ったため、

つらつらとその理由を探してみたところ、

行き当たったのは同時期に起きたと

思われる「エジプト」での事象でした。

 

先日の記事内でも書いたように、

縄文後期(約4,000年前~3,000年前)、

神の啓示を受けたモーゼが、

ユダヤ人を連れてエジプトを脱出し、

「東の楽園」を目指したという逸話が存在します。

また、四国の剣山周辺には「イスラエル伝承」

が色濃く残り、オカルトマニアを中心に

根強い支持を集めていることは、

以前のブログにも記したので御存じでしょう。

 

そうなると気になるのが、

「四国においてはD系統遺伝子の

保有者の割合が全国平均より低い」

という調査結果かもしれません。

まあ、少々話が複雑になるので、

今の段階では保留にしますが、

いずれにせよエジプトを脱出したモーゼが、

その時期「日本にやってきた」と空想すると、

縄文後期から弥生時代にかけての景色が、

さらに立体的にイメージできるのですね。


縄文がえり

2019-12-06 09:55:45 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

西日本各地で稲作文化が広まり、

中国地方では弥生系の新たな呪術、

つまり「渡来系呪術」が浸透し始めたその頃、

青森を中心とする北東北一帯では

「縄文がえり」とも呼ぶべき現象が起こっていました。

青銅器を始めとする金属製の用具はもちろんのこと、

せっかく整えた水田稲作のシステムまで放棄し、

まるで「弥生」のすべてから身を引くかのように、

縄文への回帰を選んだ東北縄文人の

姿が浮かび上がってくるのです。

 

一方、あれほど多彩だった「縄文の呪術具」に関しては、

どういうわけか彼らが再び手に取ることはなく、

かろうじて「土偶」を細々と造り続けていたくらいで、

他の土版や石棒などは早々に姿を消したと聞きます。

もしかすると東北地方の縄文人は、

「行き過ぎた偶像崇拝」の弊害や、

多くの犠牲を伴う渡来系呪術の危うさに直面し、

一旦「引きこもる」ことを決めたのでしょうか……。

 

後世になって「ヤマト系の神社」が

東北に進出できなかった理由も、

この時期の東北縄文人の

「引きこもり」に端を発すると考えれば、

個人的には非常に納得する部分があるのですね。


縄文呪術の空白域

2019-12-05 09:33:42 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

「移住生活」を優先し、少人数での移動を

繰り返していた中国地方の縄文人たちは、

他の地域に比べて集落の人数や

対人ストレスが少なかったため、

集落内で葬送の儀式を行ったり、

魔除けなどの「呪術」を施したりする

機会があまりなかったと聞きます。

ゆえに彼らは、「見えないもの」

に頼らなくても生きていけるような

生活スタイルを維持できたのだそう……。

 

これらの事象を逆から見れば、

それだけ中国地方の縄文人は、

「縄文呪術」に対しての執着がなかったともいえるわけで、

ある意味そのあたりの「隙」を突くかのように、

「渡来系呪術」が浸透した可能性もあるのでしょう。

恐らく、弥生系の呪術というのは、

縄文系の呪術以上に「実践力」があったため、

渡来人や稲作文化の到来とともに、

爆発的に人口が増えた西日本の人々にとっては、

非常に魅力的なツールだったのかもしれません。

 

「葬送儀礼」に関わる渡来系の氏族が、

岡山や兵庫などを拠点に定めたのも、

もしかすると、中国地方というエリアが

「縄文呪術の空白域」だったからなのでしょうか……。


中国地方の動き

2019-12-04 09:25:48 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

弥生時代に突入して以降も、

縄文色を頑なに守り続けた東北北部とは逆に、

縄文晩期の西日本の(特に中国地方)に関しては、

人口や縄文遺跡の数はもちろん、土偶や石棒など

呪術具の出土数も極端に少ないと聞きます。

つまり、中国地方の縄文人は他の地域に比べると、

「呪術」や「縄文文化」に対する執着が

薄かったとも想像できるのですね。

 

そこで思い浮かぶのが、出雲や播磨など

中国地方の神社を巡る中で接した

「渡来人の色濃い痕跡」でした。

先ほどの現象を踏まえれば、

中国地方と渡来人とが深く結びついたのも、

「縄文集落の少なさ」や「縄文人の人口密度」

の影響があったのかもしれません。

 

一説に、中国地方に居住していた縄文人は、

「定住生活」よりも「移住生活」を

優先したともいわれていますし、

東北や信州に居住する縄文人とは、

価値観も幾分異なっていたのでしょう。

個人的には、中国地方に住む縄文人の

「柔軟性」や「こだわりのなさ」が、

「渡来人の集結」というこの地特有の

現象を引き起こしたようにも感じるのです。


北東北の動き

2019-12-03 09:18:45 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

縄文時代の日本の人口比率が、

東日本に極端に偏っていたことは

良く知られていますが、弥生時代になると、

逆に西日本の人口が爆発的に増えて行きます。

また、日常生活で使用する道具ひとつをとっても、

弥生時代に移行するに従い、

女性が制作していたとされる

独創的な「土器」や「土偶」は姿を消し、

男性主導で製造が行われた「金属製品」が

大多数を占めるようになるのです。

つまり、縄文時代と弥生時代以降とでは、

社会構造が正反対になってしまったわけで、

縄文の人々が弥生人の価値観を受け入れるまでには、

相当大きな壁があったことは想像に難くありません。

 

そのことを示すかのように、他の地域が

弥生色に染まりつつある時期の東北北部では、

青銅器を始めとする金属器がほとんど普及せず、

かろうじて始まった灌漑水田稲作に関しても、

残された遺跡からは鋤や鍬などの農具ではなく、

土偶などの呪術具などが多数発見されるのだとか……。

さらには、それらの水田も稲作が開始されて間もなく、

何らかの理由で耕作放棄されてしまった

という話もありますし、縄文時代から

弥生時代にかけての青森県近辺では、

独自の動きが出ていた可能性が伺えるのですね。


ユダヤ系渡来人

2019-12-02 09:08:38 | 縄文への旅

<橿原神宮>

 

非常に古い起源を持ち、また世界的に見ても希少な

血統である「D1b系統(旧:D2系統)のY染色体」は、

日本人男子の約3割のみが継承する日本人特有の遺伝子です。

もしかするとそれらは、縄文以前の時代から

脈々と継承されてきた超古代の遺伝子型であり、

モーゼ・イザヤ・神武天皇……など

「古代ユダヤ」と縁する偉人たちも、

この遺伝子と深く関わる人物なのかもしれません。

そして当時は、このD1b系統のY染色体を

有する人物でなければ、日本の地に適合できない

という厳密なルールが存在した可能性もあるのでしょう。

 

「渡来人」との噂も根強い神武天皇ではありますが、

もし仮に神武天皇が日本人ではなかったとしても、

大元をたどれば日本人と同じ遺伝子型を

所有していた「同郷人」だったとも考えられます。

「YAP(ヤップ)」の印が刻まれた

E系統のユダヤ人と私たち日本人は、

ときに近づきときに離れる中で、

それぞれ陰と陽の役目を果たしながら、

歴史の中心的役割を担ってきたのかもしれませんね。


縄文の壁

2019-12-01 09:03:17 | 縄文への旅

<国立民族学博物館>

 

もし、古代イスラエルの「失われた10支族」が、

日本に到着していたとすれば、ユダヤ人特有の

DNA「E系統のY染色体」の痕跡が、

日本人のどこかに存在していても

不思議ではないと思われます。

ただし、現在の日本人には「E系統」

のY染色体を持つ男子はおらず、

E系統の兄弟遺伝子であるD1b系統(旧:D2系統)と、

ユダヤ系以外の遺伝子が継承されてるだけです。

果たして、これらの矛盾はどのように

説明したら良いのでしょうか……。

 

現時点で考えられるのは、

E系統の遺伝子が到着後に何らかの理由で消滅したか、

あるいはD系統の遺伝子を所有する支族のみが、

海を渡り日本を目指したという可能性かもしれません。

もしかすると縄文時代、男子の場合は

D系統遺伝子の所有者でなければ、

日本に立ち入ることができない、

あるいは日本に永住するのが難しいなど、

不可抗力的な条件があったとも想像できます。

 

弥生人が新たな文化を全土に浸透させるまで、

想像以上の時間がかかったのも、

縄文の人々が「遺伝子の入れ替わり」を

拒んだことが原因だったと考えると、

「縄文の壁」は「遺伝子の壁」で

あったとも言い換えられるのでしょう。


2つの支族

2019-11-30 09:59:47 | 縄文への旅

<国立民族学博物館>

 

古代イスラエル12支族の中でも、

エフライム族とマナセ族という

2つの支族(ヨセフ系支族)は、

ともにD系統の遺伝子を保有していた

人々だといわれております(他の支族はE系統)。

 

そして、これらの支族の末裔とされるのが、

チベット近辺に住む中国の少数民族の

チャン族やシンルン族などで、

彼らもまた日本人と同じ

D系統遺伝子の保有者なのだとか……。

 

仮に、古代イスラエルの「失われた10支族」が、

日本に向かう途中でチベット周辺に立ち寄ったと考えれば、

同じD系統遺伝子を持つ人々が、この一帯に残っている

という現象もさほど不自然ではないのでしょう。

 

ただし、不可解な点がいくつかありまして、

まず1つ目が現在のイスラエルには

D系統のDNAを持つ人々がいないこと、

2つ目が現日本人にはE系統が存在しないこと、

そして3つ目が同じD系統でもチベットと

日本では細かい型が違うことなどです。

 

残念ながら今はまだ、それらの疑問に

対する答えは出ていないのですが、

少なくとも古代ユダヤの王族の家系とも噂される

「エフライム族」「マナセ族」の2つの支族が、

縄文人と何らかのつながりを

有していた可能性は高いと思われます。


YAPの変異

2019-11-29 09:55:59 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

日本人男性の約3割が継承する

「D系統(ハプログループD)」

のY染色体(父系遺伝子)は、

数万年前にユーラシア大陸のどこかで、

ハプログループDE系統から分岐したといわれています。

 

また、D系統の遺伝子の中でも、日本人のほとんどが

「ハプログループD1b系統(旧:D2系統)」

と呼ばれる集団に属しており、このD系統には

「YAP(ヤップ)」という特徴的な変異が見られるのだとか……。

 

他にこのYAPの配列が見つかるY染色体は、

兄弟グループであった「E系統」のみですから、

DE系統と呼ばれる遺伝子が、

いかに「特異」なものであるかがわかるでしょう。

 

ちなみに、E系統のY染色体と聞いて思い浮かぶのは、

言わずと知れたユダヤ系の人々かもしれません。

もちろん、現日本人と同様に現ユダヤ人のすべてが、

E系統のY染色体を持つわけではないものの、

日本と古代イスラエルとの間に、

私たちの知らない深遠な結びつきがあったことが、

このことからも証明されるのです。


遺伝子の覚醒

2019-11-28 09:52:03 | 縄文への旅

<皇居>

 

昨今、皇室の皇位継承者の問題などで

注目を浴びる「Y染色体(父系遺伝子)」ですが、

なぜこのDNA配列が重要かといえば、

それらの血統が「国の存続」を

大きく左右するからだと断言できます。

仮に、国民の「Y染色体(父系遺伝子)」が

他の遺伝子に大幅に入れ替わってしまえば、

表向きは「国」の形が残っていたとしても、

その国は元の国とは「別物」になってしまうのが世の常で、

アジアの某大国などは、国民の「Y染色体」のほとんどが、

たったひとつの系統で占められているのだとか……。

 

つまり、日本という国は、多様な遺伝子を抱えながらも、

「D系統のY染色体」という「核」となるDNAを

未だに継続し、かつそれらのルーツが

縄文時代にまで遡れるという

非常に稀有な国柄だといえるのでしょう。

私たちが「縄文人」に強く惹かれるのも、

もしかするとそんな目には見えないDNAの

成せる業であり、昨今の縄文ブームというのは

まさしく「遺伝子の覚醒」なのかもしれません。


弥生人のDNA

2019-11-27 09:46:40 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

弥生時代後期の人骨(鳥取市の青谷上寺地遺跡)

のDNAを解析した結果、32人分の人骨の

「ミトコンドリアDNA(母系遺伝子)」と、

4人分の人骨の「Y染色体(父系遺伝子)」

のデータの一部が明らかになったそうです。

それによれば、見つかった29種ほどの

「ミトコンドリアDNA」の大部分が、

大陸系のハプログループに属し、かつお互いに

密接な血縁関係がないことが判明したのだとか……。

 

また、サンプル数は少ないものの、

4人分の人骨の「Y染色体」に関しては、

3人が縄文系の配列(D系統)だったことから、

当時日本に渡来してきた弥生人の中に、

「他民族の父系遺伝子」を持つ人物が、

ほとんどいなかった可能性が浮かび上がるといいます。

 

つまり、日本(青谷上寺地遺跡)にやってきた

人々の多くが他民族の女性か、

あるいは大陸で暮らしていた

「D系統のY染色体」を持つ男性であったため、

奇跡的に「日本人特有のY染色体」が

温存されたとも考えられるわけですね。

*あくまでも青谷上寺地遺跡に関するデータです