たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

男性原理

2018-03-31 10:16:03 | 阿波・忌部氏1

<伊弉諾神宮 いざなぎじんぐう>

 

忌部の地である阿波という国は、

「石の文化」に彩られた場所であり、

聖域には必ずと言ってよいほど、

多種多様な「石」が置かれています。

特に、細長い石を起立させる形状や、

女性よりも男性のシンボルを象った

自然石が目立つことなどを踏まえると、

「男性原理」が強い地域なのかもしれません。

 

男性原理と言えば思い出すのが、

国産みの神話で知られるイザナギ神です。

お隣の淡路島には、イザナギが余生を

過ごしたとされる伊弉諾神宮が鎮座し、

また、東の海を挟んだ先には、

イザナギの妻・イザナミの聖地

とも例えられる紀伊半島が迫っています。

恐らく、阿波(および淡路)と紀伊には、

古代からの深いつながりがあるのでしょう。


リンガ信仰

2018-03-30 10:13:36 | 阿波・忌部氏1

<青樹社の立石 あおきのもりのたていし>

 

阿波一帯の岩石構造物の中でも、

とりわけ目を引いたのが、

細長い石を石碑のように起立させる

「立石」と呼ばれる形態です。

恐らくこれらの石も、

巨石の磐座と同じように、

社殿が造営される以前の

古い自然信仰の名残であり、

神の依代としての役目を

果たしていたのだと思われます。

 

それにしても、石を寝かせるのではなく、

まっすぐに立てて祀るという様式には、

何か深い意図があったのでしょうか……。

ちなみに、このような形の祭祀を、

「リンガ信仰」と呼び、ヒンドゥー教では、

スサノオの化身であるシバ神を、

石とともにお祀りするのだそうです。

剣山・ユダヤそして忌部氏を解くカギは、

やはりスサノオにあるのかもしれません。


石の祭祀

2018-03-29 10:09:53 | 阿波・忌部氏1

<吉野川市・山川町>

 

岩戸神社の麻笥岩の他にも、

忌部山のふもと一帯には、

人為的に作られたと思われる

様々な形状の「石」が残っています。

ドルメンやメンヒルなどとも呼ばれる

これらの岩石構造物は、

阿波独特の信仰対象であり、

忌部氏の祭祀について語る上で、

どうしても外せないポイントのひとつです。

 

通常「石の信仰」と言いますと、

山深い神社のご神体である

巨大な自然石の磐座を思い出しますが、

ここ阿波の地では、支石墓(ドルメン)、

立石(メンヒル)、立石列石、

四角形に積まれた石殿(磐境)など、

ありとあらゆる形状の石たちが、

剣山を取り巻くようにして、

点々と置かれていました。


麻笥岩

2018-03-28 10:07:47 | 阿波・忌部氏1

<岩戸神社 いわとじんじゃ>

 

忌部山のふもとに鎮座する岩戸神社には、

「麻笥岩(おごけ)」と呼ばれる

古代の磐座遺跡が残っていました。

「忌部の大神が天降った」

とも言われる麻笥岩の麻笥とは、

麻を入れる笥(おけ)を意味し、

伊勢神宮に収める神宝の中にも、

御麻笥という紡績用具が

あったと記憶しております。

 

また、こちらの神社には、

「水」に関わる逸話が多く、

「麻笥岩の穴にたまった水を飲むと、

たちまち病が治った」……など、

不思議な伝説が残されているのだとか。

古くから水に恵まれていたこの地は、

聖なる麻を晒すための場所であるとともに、

里人の心身を癒やす聖地だったのでしょう。


忌部ネットワーク

2018-03-27 10:05:35 | 阿波・忌部氏1

<岩戸神社 いわとじんじゃ>

 

今は田んぼの中にポツンと建てられた、

小さな社殿のみが残る岩戸神社ですが、

もともとは広大な神域を要する

鬱蒼とした森に囲まれていたのでしょう。

目を見張るような大木こそないものの、

境内の片隅に列をなして並ぶ巨岩が、

当時の信仰の面影を伝えていました。

 

ちなみに、神社の由緒によりますと、

安房国(千葉県)一の宮である

館山市の安房神社には、

こちらの岩戸神社から勧請した

天太玉命がお祀りされているのだとか。

また、讃岐国(香川県)の複数の神社にも、

岩戸神社のご祭神が分祀されたと聞きます。

 

剣山の山中ではなく、剣山のふもとから

忌部氏の神様が移し奉られたと考えると、

やはりこの一帯は、日本各地とつながる

忌部ネットワークの中心地だったのかもしれません。

以前は、一年に数度「市」が開かれ、

近隣の市町村から多くの人たちが集まり、

たいへんな賑わいを見せていたそうです。


麻晒池

2018-03-26 13:03:34 | 阿波・忌部氏1

<岩戸神社 いわとじんじゃ>

 

忌部神社の摂社でもある「岩戸神社」は、

忌部氏が神事に使用する大麻を

晒してた場所だと言われています。

その昔は、神社のすぐ脇を

吉野川の本流が流れていたそうで、

当時麻を晒した「麻晒池(おざらしいけ)」

と呼ばれる水場が、境内に残っていました。

 

ちなみに現在、岩戸神社のそばを流れているのは、

「コリトリ川」という名の小さな川です。

コリトリという名称を聞きますと、

見ノ越峠で見た謎の標識を思い出しますが、

こちらも忌部神社参拝の際の禊の場だったのだとか。

恐らく、剣山の清浄な水が集まる岩戸神社周辺は、

大量の清水を必要とする紡績産業を発展させる上で、

非常に適した場所だったのかもしれません。


山と平地

2018-03-25 01:00:52 | 阿波・忌部氏1

<山川町・忌部山>

 

阿波忌部氏という集団は、

「山の民」と「平地の民」に分かれており、

二つの領域の境界あたりに接するのが、

忌部山の付近だったと言われています。

恐らくここは、山の民と平地の民とが、

交流するような場所だったのでしょう。

多種多様な忌部の産物や技術が、

ここから地方に伝播・拡散されると同時に、

忌部の情報センターであるこの場所を目がけて、

全国各地の人々が集まってきたのかもしれません。

 

そんな忌部山の周辺には、 いわくありげな神社が点在し、

そのどれもが強い存在感を放っています。

「岩戸」「村雲」「須賀」……など、

記紀の物語を彷彿させるような地名も見られ、

それぞれに興味深い伝承が残っているのです。

うっすらと靄が立ち込める忌部山のふもとで、

朝焼けに照らされた東の方角を眺めると、

「岩戸神社」の社叢がふいに姿をあらわしました。


忌部山

2018-03-24 09:58:40 | 阿波・忌部氏1

<山崎・忌部神社 やまさきいんべじんじゃ>

 

天皇即位の儀式「大嘗祭」

で使われる麁服用の麻は、

徳島県の三木家で栽培されたのち、

忌部山にある忌部神社まで運ばれ、

織など作業が進められるそうです。

「忌部山」という名称からもわかるように、

このあたりは忌部氏の拠点があった場所で、

その昔は「忌部郷」と呼ばれていたのだとか。

ふもとの山崎地区が紡績業で発展したのも、

繊維の扱いに秀でた忌部氏の功績なのでしょう。

 

そんな忌部の本拠地のひとつである、

吉野川市山川町の忌部神社を訪れたのは、

日の出の太陽の光が山の端から漏れ出し、

あたりがうっすらと明るくなり始めた頃でした。

もとの社殿は山頂付近にあったと聞きますが、

現在は徒歩でもかろうじて登れるような、

山の中腹あたりにひっそりと鎮座しています。

正面には鳥居が見当たらなかったため、

神社の脇のほうへ回ってみると、

隣接するお寺の脇に古い参道が伸びていました。


多面的な存在

2018-03-23 09:14:16 | 阿波・忌部氏1

<大麻比古神社 おおあさひこじんじゃ>

 

猿田彦大神の祀られている場所には、

かなりの割合で「ユダヤ人」の足跡が見られます。

主祭神とともに猿田彦大神を祀る

大麻比古神社という古社の周辺も、

恐らく古代イスラエルに縁ある場所なのでしょう。

大麻山に祀られていた猿田彦大神というご祭神は、

この地に最初に入植した渡来人なのかもしれません。

 

実在の人間をお祀りする神社は

全国各地にたくさんありますが、

猿田彦大神は神とも言えますし、

また人間とも言える多面的な存在です。

あえて言うなら、猿田彦大神という神様を、

人間に置き換える際に選ばれたのが、

古代ユダヤ人だったのだと思われます。

 

一概にイスラエル人とは言っても、

十支族が渡来を始めた当初に来日した人々が、

後からやってきた同郷の人々を迎えるころには、

すでに前者は「土着の民」として生活しており、

両者の間には様々な葛藤があったはずです。

猿田彦大神を祀る神社を参拝するたびに、

その地に生きた古代人の悲喜こもごもの思いが、

ふいに伝わってくるような気がします。


猿田彦大神

2018-03-22 09:12:23 | 阿波・忌部氏1

<高千穂神社 たかちほじんじゃ>

 

「導きの神」として知られる

猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)は、

実に多様な顔を持つ存在でして、

ときにはその特徴的な容貌から

「天狗」と同一視されたり、

ときにはサルの呼び名にちなみ、

庚申信仰の守り神となったり、

あるいは白鬚明神、興玉神、道祖神

などの別称で人々から崇められたりと、

非常に複雑な性格を秘めております。

 

個人的に猿田彦大神と聞きますと、

「天津神」とも「国津神」とも

判別できないようなその立ち位置が、

日本にやって来た古い渡来人を彷彿させ、

イスラエルとの関連を想像するのが常です。

恐らく猿田彦大神は、ニニギの命が

地上に降臨する前に日本に降り立った、

一行の先遣部隊であると同時に、

ごく最初の段階で日本へとたどり着いた、

十支族の末裔だったのかもしれません。


大麻山

2018-03-21 09:09:44 | 阿波・忌部氏1

<大麻比古神社 おおあさひこじんじゃ>

 

阿波国一宮・大麻比古神社に祀られているのは、

大麻比古神という「麻」の名を冠する神様です。

一説によりますと、この大麻比古神というご祭神は、

忌部氏全体の元神・天太玉命と同神であるとか、

阿波忌部族の祖神・天日鷲命の子であるとか、

いくつかの説が伝えられていますが、

もともとご神体である大麻山の神なのでしょう。

古くは山頂で祀られていた猿田彦大神も、

大麻比古神社の主祭神として名を連ねていました。

 

実は、大麻山の近辺というのは、

古墳の密集地として知られる場所で、

日本最古の前方後円墳が見つかるなど、

その歴史は奈良を凌ぐほどなのだとか。

近畿圏の著名な古墳の石室等には、

阿波産の石や丹が使用されているそうですし、

「阿波から畿内へ古墳文化が伝わった……」

という推論が出るのも不思議ではない状況です。

いずれにせよ、大麻山の周辺には、

ヤマトが成立する以前に繁栄を誇った、

古代部族がいたことは間違いないのでしょう。


祈祷の一族

2018-03-20 09:07:20 | 阿波・忌部氏1

<別府峡 べふきょう>

 

剣山の南麓に位置する 旧木頭村の

「木頭」という言葉は、 「祈祷」を

意味するのではないかと言われています。

祭祀具や神殿などの製造を請け負っただけでなく、

宮中祭祀の重要な役目をも担った

忌部という氏族の中でも、

特に「祈祷」の技能に秀でた一族が、

この旧木頭村の周辺で暮らしていたのでしょうか……。

 

ちなみに、木頭地区から県境の峠を越えると、

そこはかの有名な「いざなぎ流」

の伝統を残す物部(ものべ)の里です。

現在も数名の太夫と呼ばれる祈祷師が、

神道のみならず仏教や修験道など、

様々な宗教的要素を織り交ぜながら、

独特の作法で祈りを続けております。

 

忌部氏の拠点が点在する剣山北麓に比べ、

どうしても見過ごされやすい、

剣山南側から西側にかけての一帯ですが、

「隠された一族」のさらに「隠された人々」

が集まっていたと想像すると、

とても意味深な歴史を感じるもの。

かつて忌部氏が伝えた「祈祷の奥義」は、

今も途絶えることなく、この山深い山麓で、

脈々と受け継がれているかもしれません。


木頭忌部

2018-03-19 09:03:45 | 阿波・忌部氏1

<那賀町・木頭>

 

「麻の栽培技術」を広めたとされる阿波忌部氏は、

麻以外にも様々な植物の育成を手掛けていました。

穀(かじ)や楮(こうぞ)などはその代表的な産物で、

これらの植物から作られる太布(たふ)という織物は、

現在、徳島県・木頭町のみで継承される伝統文化です。

歴史上、最古の布と言われるこの太布は、

木綿(ゆう *もめんとは別物)とも呼ばれ、

江戸時代に木綿(もめん)の織物が普及するまでは、

全国各地で作られていたと聞きます。

 

ちなみに、高知県との境に位置する旧木頭村は、

ゆずの一大産地であり、「木頭忌部」と名乗る

忌部族の一派が拠点を構えていました。

言うなれば、数少ない「南麓の忌部氏」

の伝承を残す場所で、剣山の例祭でも舞われる

「劔の舞」という神楽が代々伝わるなど、

剣山北麓で消えてしまった習俗の類が、

奇跡的に存在している土地柄でもあります。

もしかすると、剣山の南側一帯には、

知られざる忌部氏の痕跡をたどれる場所が、

まだまだ残っているのかもしれません。


忌部の石

2018-03-18 09:00:56 | 阿波・忌部氏1

<宮川>

 

紀伊半島などで見られる白石奉納の風習が、

陰の地と陽の地を結ぶ神事だとするなら、

本来神事には、陰の気を帯びた「海の石」を、

奉納石として使うのがセオリーです。

ただし、伊勢神宮の神域に置かれているのは、

生き石と呼ばれる陽の気を帯びた「川の石」で、

理論的に陰陽の和合は成立しません。

 

海の石のほうが適しているのであれば、

近隣の熊野灘から採取できたはずですが、

今現在、神宮の神域に持ち込めるのは、

宮川か吉野川の川石のみです。

恐らく伊勢神宮で用いられる川石は、

海の石の代用というよりも、

「忌部氏の石」としての

意味合いが強かったのでしょう。

 

伊勢神宮の祭祀は、もともと忌部氏が

中心となって執り行ってきたにも関わらず、

中臣氏(藤原氏)の台頭により、

次第に役目を奪われて行ったと聞きます。

ただし、伊勢神宮のマツリゴトにおいて、

忌部氏という存在が必要なことには変わりなく、

失った祭祀力を補うための苦肉の策として、

宮川や吉野川の「忌部の石」

が集められたのかもしれません。


麻と石と磨

2018-03-17 09:00:21 | 阿波・忌部氏1

<多賀宮 たかのみや>

 

「麻」と「石」という性質の異なる二つの物質は、

神祀りをする上で欠かせない品々です。

石は磐座という神の降臨する依代として、

麻は祭祀場を祓い清めるための神具として、

古代よりこの二つの物質を置かずして、

神事を執り行うことはできませんでした。

麻と石という文字を組み合わせると、

「磨」という文字が出来上がるように、

私たちの心身を磨き上げるためには、

「麻」と「石」が必要なのですね。

 

これら二つの物質を掌った阿波忌部族は、

聖なる石を拠り所に石製の礼拝場を造り、

麻の繊維を加工して祭祀具などに変え、

国と天皇のために祈ってきたのでしょう。

恐らく「石」の性質や「麻」の効果を、

誰よりもよく知っている一族なのだと思われます。

もともとは伊勢の民間信仰だった白石奉納の風習を、

神宮の神域に持ち込んだのも、恐らく度会氏であり、

その大元に控える忌部氏だったのかもしれません。