たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

奈良時代の疫病

2020-04-30 09:11:17 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.28 *****

「蘇我氏(崇仏派)」と「物部氏(排仏派)」

との争いを決定づけたのは、

敏達天皇の時代に出された

「仏教禁止令」だったと言われております。

 

仏教に対して中立的な立場を取っていた敏達天皇が、

なぜ「仏教禁止令」なるものを発令したかと言えば、

蘇我氏の「仏教崇拝」を認めた敏達天皇の振る舞いが、

「疫病の流行を引き起こしたのではないか」

という物部氏の批判を考慮したからでして、

結果として蘇我氏の寺や祀っていた仏像が

焼き払われる事態にまで発展しました。

 

しかしながら、その後も疫病が収まる気配は見えず、

人々の間では逆に「仏像を燃やしたことが原因」

という噂で持ちきりになったのだとか……。

つまり、このときの状況を整理してみますと、

疫病流行の原因が「仏教」ではなかった

可能性も浮かび上がるわけですね。

 

ちなみに、この後の奈良時代も含めた

約100年の間には、およそ40回以上も

疫病のパンデミックが発生したと聞きます。

特に、735年に始まった天然痘の流行時には、

藤原不比等の4人の息子などが相次いで死亡するなど、

政治の中枢部をも巻き込む大惨事を招いたのでした。


仏教と天然痘

2020-04-29 09:05:47 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.27 *****

大陸から百済を経由して

日本に仏教が伝来したのは、

敏達天皇および用明天皇の父であり、

聖徳太子の祖父にあたる「欽明天皇」

が皇位に就いていた時代です。

ちょうどこの頃から、国内でも疫病(天然痘)が

流行り始めたことなどを踏まえると、

恐らくは来日した僧侶などと共に、

ウイルスが持ち込まれた可能性も高いのでしょう。

 

ちなみに、疫病に苦しめられた当時の人々は、

欽明天皇の子・敏達天皇の「仏像の破棄」が

災厄の原因なのではないかと噂したそうですが、

よくよく考えてみますと、

そのときすでに敏達天皇が物部氏の進言に従い、

「疫病封じ」のため仏教禁止令を出していましたし、

それ以降もパンデミックが続いたという

事実を合わせて推測すれば、

「仏への崇拝」や「仏像の破棄」が

疫病蔓延の原因ではなかった

という仮説も成り立ちますね。

 

そこで思い出されるのが、

崇神天皇の時代に起きた

「三輪山の一件」かもしれません。

当初、祟りの元凶とされた

「天照太御神」や「倭大国魂神」を

宮中外へと遠ざけても、

なお状況が収まる気配がなかったことから、

最後の手段として強化したのが、

「三輪明神」つまり大物主神への祭祀でした。


仏教禁止令

2020-04-28 09:58:45 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.26 *****

物部氏と蘇我氏の対立を決定的にしたのが、

585年に敏達天皇が出した仏教禁止令でした。

何でも敏達天皇は、「疫病の流行は外国の神への

崇拝が原因」という物部氏の訴えを受け入れ、

崇仏派である蘇我氏が所持していた

仏像を破棄させたのだとか……。

その理由としては、敏達天皇と蘇我氏との

つながりが薄かったため、あるいは

敏達天皇が異宗教にも寛容だったため……

などの説が取り沙汰されておりますが、

いずれにせよこのことがきっかけとなり、

俗に言う蘇我氏(仏教)と物部氏(神道)

の争いが表面化し、物部氏は蘇我馬子や

聖徳太子らによって滅ぼされました。

 

ちなみに、この頃の出来事を記した文献に、

「三輪山には天皇霊が宿る」

との記述が残っていることから、

当時はまだ「天皇祭祀」の中心が

「三輪山」の周辺にあったと推測されます。

恐らく、崇神天皇の時代に始まった

「大物主神への本格的な祭祀」は、

この時代も継続されていたのでしょう。

もしかすると、疫病蔓延の元凶には、

かの「三輪明神」の存在が

少なからず影響していたのでしょうか……。


即位灌頂

2020-04-27 09:55:18 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.25 *****

日本人の古い信仰である、

「ニイナメ」に端を発する「大嘗祭」ですが、

南北朝の時代が始まるとほぼ同時に、

「即位灌頂(そくいかんじょう)」という

密教的要素の強い内容に変更され、

92代・伏見天皇から幕末の孝明天皇に至るまで、

大嘗祭の代替儀礼として継続されたと聞きました

(一部の天皇は両方を取り入れたという話も……)。

 

日本に仏教が伝来して以降も、

かろうじて守り通してきた天皇祭祀の伝統は、

ある期間いわゆる「異国の宗教」と混合したわけで、

その大きなきっかけを作ったのが、

「流行り病」だったのではないかと

個人的には想像しておるところです。

 

ちなみに、飛鳥時代に登場する「用明天皇」は、

歴代の天皇の中でも、いち早く仏法に

重きを置いた人物だと言われております。

父である敏達天皇が仏教禁止令を出すなど、

どちらかと言えば廃仏派寄りの

行動を取っていたのに対し、

用明天皇は「朕は仏・法・僧の三宝に

帰依したい」と仰せられるほど、

仏教を擁護する立場を公にしておりました。


異国色の儀式

2020-04-26 09:50:20 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.24 *****

天皇の即位儀礼の中でも最も重要とされるのが、

昨年11月14日夕刻~15日未明にかけて行われた

「大嘗祭(だいじょうさい)」と呼ばれる儀式です。

一説に「大嘗祭を経なければ天皇になれない」

などと言われるほど、とりわけ厳粛な雰囲気で

行われる式典ではありますが、

実は長い皇室の歴史の中でも、

南北朝~明治時代に即位した天皇に関しては、

大嘗祭を執り行わないケースも多かったと聞きます。

 

代わりに行われていたのが、

即位灌頂(そくいかんじょう)という

密教的要素の強い儀式でして、

これらの即位儀礼が、約500年以上もの長期間

「大嘗祭の代替儀式」として続けられていたそうです。

 

ちなみに、即位灌頂の「灌頂」とは、

仏教(ヒンズー教?)で頭に水を注ぐ

所作を意味する言葉で、実際の即位礼では、

水を注ぐ代わりに手に印を結び、

呪文(ボロン)を唱えたのだとか……。

つまり、ある時期の大嘗祭(天皇祭祀)は、

異国色に染まっていた様子が伺えるのですね。


ニイナメ

2020-04-25 09:11:30 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.23 *****

「能登の神社」に関する記事の中で

ご紹介した「アエノコト」という行事は、

「大嘗祭」の大元の形を残すとされる民間伝承です。

アエノコトの「アエ」とは「饗」の意味であり、

田の神(稲魂)を迎えてもてなし、

家族と共に食事をするという、

「ニイナメ」の古風なしきたりを

今に伝える伝統でもあります。

 

「大嘗祭(だいじょうさい)」の中心的儀式

「大嘗宮の儀(だいじょうきゅうのぎ)」の中で、

天皇陛下が多くの時間を割かれたのも、

「神への供物を取り分け自らも食する」

という所作でした。言うなればこの「アエ」こそが、

近代の大嘗祭における中心的儀式とも言えるわけですね。

 

ちなみに、各家庭の神棚にお供え物を上げる

風習を「宅神祭」と呼びますが、

考えてみますと、これらも「稲魂」を

お祭りする「ニイナメ」の行事ですから、

大嘗祭が始まるはるか以前には、

すでに日本人にとって「ニイナメ」

という概念は当たり前のものだったのでしょう。

 

大嘗祭の大枠を作った祭祀氏族は、

「アエノコト」「宅神祭」など

「縄文の祭り」を参考にしつつ、

その概要を固めて行ったのかもしれません。


「ハレ」と「ケ」

2020-04-24 09:06:58 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.22 *****

古来より日本人は、

通常の生活を送る期間を「ケ」、

お祭りや年中行事などを行う

特別な期間を「ハレ」と呼び、

日常と非日常とを明確に区別しておりました。

これは単なる迷信や古い風習などではなく、

「陰陽」の法則に従った「生命維持」の秘策でして、

今まさに「ハレ」の準備段階でもある、

「物忌み」という特殊な期間に

入ったのだと思われます。

 

現在世の中は、ウイルス騒動一色に

染まっておりますが、

首都直下地震・東南海トラフ地震

などの大地震はもちろん、

富士山・九州火山帯等の噴火、

そして昨年以上の広範囲の豪雨やテロなど、

様々な天災・人災に備えなければならない

「非常事態」であることは確かです。

 

恐らく、多くの日本人が時代の変わり目に気づかず、

このまま「ハレ」と「ケ」を混同し続ければ、

神々の働きを邪魔する結果にもなるのでしょう。

今後「物忌み」がどのくらい続くのかはわかりませんが、

「神在祭」が行われる2020年の11月あたりには、

私たちはそれらの期間が想像以上に

「長丁場」であることを認識するのかもしれません。


内需の充実

2020-04-23 09:03:17 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.21 *****

現在、新型ウイルスへの感染者数を

抑えるため、世の中の多くの人々が

「自宅待機」を余儀なくされております。

言うなれば、今の日本だけでなく全世界が、

「物忌み」の期間に突入したわけで、

やがて訪れる「新嘗祭」に向けて、

地球上の人間が「潔斎」をする時代が

始まったとも捉えられるのですね。

 

だとすれば私たちは、

「神在祭」に際する出雲の人々と同じように、

神様の働きを邪魔しないよう、

極力静かに引きこもっているのが最善で、

仕事や食料品の買い出しなど、

日常生活における最低限の外出を除き、

自分の生活を「慎む」必要があるのかもしれません。

 

考えてみますと、私たちが生まれて以降、

「当たり前」だと思って来た生活は、

すべて「物質的な快楽」に基づくものです。

そして、それらの「楽しみ」を

ほぼ奪われかけつつある今、

消えゆく物々を求めてうろたえるよりも、

ひとりひとりの人間の中から湧き出る

「新たな喜び」に目を向けるべきなのでしょう。

 

それこそがまさに「内需」の充実であり、

今後の日本を支える「命綱」

になることは間違いないのです。


神在祭

2020-04-22 09:02:33 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.20 *****

旧暦で10月を意味する

「神無月」という名称は、

出雲に関わる神話が発端だと言われております。

何でもこの時期は、全国の八百万の

神々の多くが出雲大社へ出かけてしまい、

地元に神様不在となるので「神無月」。

反対に、出雲の国(島根県)では、

多くの神々が話し合いのために

全国から集まってくるので、

「神在月」と呼ばれるようになったのだとか……。

 

出雲一帯では、毎年旧暦の10月

(現在の暦では11月~12月)になると、

各所で「神在祭(かみありさい)」

関連のお祭りが執り行われますが、

特に中心となる出雲大社の神在祭では、

およそ半月以上に渡って神事が続くと言います。

その間、近辺の人たちは、

神々の会議を妨げないよう極力外出を避け、

物音を立てずにひっそりと自宅に引きこもるため、

地元では神在祭のことを、

「御忌祭(おいみさい)」とも呼ぶと聞きました。

 

一説にこの「神在祭」は、

新嘗祭に備えるための「潔斎」の行事であり、

本来は「神在祭」から物忌みの期間を経て、

新嘗祭を迎える習わしだったという説があるのです。


弓と物部氏

2020-04-21 09:20:08 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.19 *****

一説に、「サカツコ」を補佐していたのは、

物部氏だったとも言われております。

現在も天皇を陰で支えると噂される物部氏は、

実は三輪山との深い縁を有する氏族で、

物部氏が得意としていた「弓」を使った呪術は、

三輪山の神を呼び出す(鎮める?)

ためのものだったのだとか……。

高知の物部の里に残る「いざなぎ流」にも、

「蟇目法(ひきめのほう)」という

呪法が存在しますし、弓の弦を鳴らすことで

神や異界と交流する手法は、物部氏

(および石上氏)の専売特許だったのでしょう。

 

ちなみに物部氏は、大嘗祭の諸儀式における

中心的な役割に従事してきた部族でして、

楯や矛や弓といった武具を自在に操りながら、

宮の御門を固める立場を担っていたとのこと。

もしかすると、三輪山の祭祀を任された

「大田田根子」という人物を

探し出したのも物部氏であり、

両者は「弓を鳴らす呪術」を通じて

三輪山にコンタクトを取りながら、

大物主神をお祀りしていたのかもしれません。


明治天皇の思惑

2020-04-20 09:16:02 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.18 *****

もし仮に、近代以前の大嘗祭に登場する

「サカツコ」という童女が、

田の神に差し出された巫女と関連するならば、

古代の天皇祭祀には「人的犠牲が伴っていた」

という解釈も成り立つはずです。

 

とは言え、天皇祭祀のダークな側面を

暴くことが記事の主旨ではないため、

それ以上深入りするつもりはありませんが、

恐らくは伊勢の式年遷宮における

「物忌(ものいみ)」なども、

「オナリ」「ヒルマモチ」「サカツコ」

の流れを引く立場であり、

田の神に仕える巫女的な立ち位置なのでしょう。

 

だとすれば気になるのは、

現代の天皇祭祀(主に大嘗祭)の中では、

なぜ「これら童女の存在が消されて

しまったのか」ということですね。

もしかすると、サカツコという役目を

大嘗祭から排除した明治天皇には、

天皇祭祀から「人柱」の陰を消したい

という意図があったのかもしれません。

 

それは、女性神職を廃止した?とされる天武天皇や、

殉葬という風習を禁じた垂仁天皇も同様であり、

決して明治天皇の「政治的な思惑」

ではなかったと個人的には思うのです。


神への供物

2020-04-19 09:13:41 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.17 *****

「オナリ」「ヒルマモチ」「サカツコ」など、

不思議な名称で呼ばれる女性(童女)たちは、

恐らく「田の神」に奉仕する巫女であり、

神への供物でもあったのかもしれません。

田植えに従事する女性が

非業の死を遂げるという話は、

全国各地に伝承として残っておりますし、

民俗学者の柳田邦夫の著書には

「古来オナリは田の神に供えられた人柱で、

オナリの死が儀式の締めだった」といった

ニュアンスの記述が残されています。

 

つまり、「稲作」や「米を使った酒造り」

など弥生由来の風習には、少なからず

「生け贄」の陰がつきまとうわけで、

これらの習俗をたどると「三輪山」とも

浅からぬ関わりがあるのではないかと、

個人的には睨んでいるのですね。

 

ちなみに、谷川健一氏によれば、

「三輪山中にはむくろが谷と称する

風葬の地があることから、

古代の三輪山は清浄な神聖な山ではなく、

葬送の地であり、天皇の遺体も

風葬された可能性が高い」とのこと。

いずれにせよ、崇神天皇の

「大物主神に対する過度な怯え」、

歴代天皇の「三輪山への過度な配慮」には、

「死」と隣り合う三輪山の存在が

あったことは確かなのでしょう。


童女と童子

2020-04-18 09:11:21 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.16 *****

2013年に行われた伊勢の式年遷宮において、

「物忌(ものいみ)」と呼ばれる童女や

童子が様々な儀式の大役を担いました。

しかしながら、古代より大嘗祭の陰の主役でも

あった「サカツコ」という童女に関しては、

明治天皇の大嘗祭以降は廃止され、

令和の大嘗祭でも復活しなかったと言います。

 

これについてある専門家は、

「天武天皇が女性神職を廃止したように、

明治天皇も大嘗祭の女性性の部分を排除

したかったのではないか」と述べておりますが、

天武天皇や明治天皇のように飛び抜けた

霊媒力を持つ人物が、単に「武力王・軍事王」

の側面を強調したかったなどの理由で、

この童女の奉仕を取り止めにするとは思えず……。

恐らくそこには、「三輪山の一件」とも絡む、

歴史の裏事情があったのではないかと、

個人的には想像してしまうのですね。

 

そこで思い出すのが、以前「金屋子神」

などに関する記事内で取り上げた

「オナリ」という女性の存在です。

沖縄で「姉妹」を意味する「オナリ」は、

東日本では「ヒルマモチ」とも言い、

田植えのときに昼飯を届ける女性

(および早乙女)を指すと聞きました。


日本酒の起源

2020-04-17 09:07:31 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.15 *****

日本酒の起源に関しては諸説あるようですが、

古くはスサノオがヤマタノオロチを

退治するために造らせた

八塩折之酒(やしおりのさけ)や、

『大隅国風土記』の逸文に記載され、

人気アニメの《君の名は》にも登場する

「口噛み酒(くちかみざけ)」などが、

日本酒の原初として有力視されております。

 

また、『播磨国風土記』には、

「携行食の干し飯が水に濡れてカビが生えたので、

それを用いて酒を造らせて宴会をした」

などの記述が見られることから、

日本酒の製造法が複数あった可能性も伺えます。

いずれにせよ、古代の人々が「命の根」である、

米の発行過程の中で発生した「何らかの力」を、

敵を退治したり荒ぶる神を鎮めたりするために

利用していたことは確かなのですね。

 

もしかすると、大神神社の初代神官であった

「大田田根子」とは、「大きな田」で

「稲(いのちの根)」を生み出す

「子(男子?女子?)」という意味であり、

「米」に秘められた作用を知っている

人物だったのでしょうか……。


サカツコ

2020-04-16 09:01:28 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.14 *****

古くは大嘗祭の陰の主役でもあった

「造酒童女(さかつこ)」は、

その名の通り酒造りに関わる童女を指し、

「悠紀・主基両国の現地の郡の

大領・少領の未婚の娘で、

卜占で選ばれた者」

がその役を担ったと聞きます。

 

実際には酒の醸造だけでなく、

大嘗宮で使用される材木の

切り出しや斎場の整備など、

主に準備段階で行われる様々な儀式を、

この「サカツコ」が祭主として

取り仕切っていたとされ、

大嘗祭当日の行列においては、

サカツコのみが白木輿(しろきのこし)

に乗せられて、神供などを納めた

黒木輿(くろきのこし)の前を

進んで行ったのだそうです。

 

つまり、サカツコという童女は

ただの奉仕者ではなく、

新たに天皇となる人物と同等か、

もしくはそれ以上に神聖な存在として

扱われていたわけですね。

 

専門家の中には、「本来の大嘗祭は、

稲とサカツコを主役とする前半部がメイン」

と解釈する人もいて、女性を主役として

祭祀を行っていた古代の名残が、

このサカツコという存在に集約

されているという話もあります。

 

いずれにせよ、サカツコという名称からは、

大嘗祭のカギを握っていたのが「童女」

であり「酒」であったことが伺えるのです。

 

【参考資料】

『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』

/著者・工藤隆インタビュー記事