はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江四十九薬師霊場4-1

2015-02-15 10:27:51 | 遠江49薬師
歩行記録                                                      26-3-19(日)
歩行時間:6時間12分   休憩時間:3時間28分   延時間:9時間40分
出発時間:7時25分     到着時間:17時05分
歩  数:  43、646歩    GPS距離32.6km
行程表
 袋井駅 0:17> 40番 0:28> 39番 1:05> 41番 0:20> 42番 0:30> 43番 0:52> 番外 0:30> 44番 0:30>
 45番 0:15> 46番 0:08> 47番 0:25> 客番 0:20> 48番 0:07> 49番 0:15> 1番 0:10> 磐田駅

                              40番 宋円寺(妻薬師)
 4回目の今回で遠江四十九薬師の遍路も結願を迎える事ができる。前回は開始時の岩水寺の受付時間に合わせたため
出発が遅くなり、最後の油山寺に着いた時は既に暗闇だった。それに懲りて今日は歩き初めを一時間早めたが札所の数が
14寺と前回より3寺多いので、果たして明るいうちに結願できるかどうか・・・・・

 袋井駅の北に流れる原野谷川には3本の橋が架かっている。東からそれぞれ 「和・静・睦」 と一文字の名前だ。
橋の名目の由来は知らないが、この三つの名前から感じるのは平和な家族を象徴しているように思う。家族が和み、睦あって
静かに暮らす。そんな思いで名付けたのかな。
更に袋井市の愛野駅の近くの原野谷川に架かる橋は 「曙橋」 の名前が付いているがこれはどう解釈しよう。 仮に「明るい」
すれば 「睦あい静かに暮せば家庭は和み明るくなる」 きっとそんな思いでつけたのだろう。そう云う事にしておこう。
 今日はその橋の中の一番西に架かる睦橋を渡って最初の札所・宋円寺に向かう。

 
              宋円寺                                 宋円寺薬師堂内
          宋円寺の地図
 宋円寺は旧古道1号線沿いにある変わり映えのしない寺だった。境内に建つ案内板によると 「宋円寺の鉄造の薬師如来像は、
鎌倉末期の仏像で県下唯一の鉄仏として貴重なものであり、地域の人に 「川井妻薬師」 と親しまれている。」
と書かれていた。
妻薬師? どこかで聞いた名前だと考え、前回歩いた34番建福寺の薬師如来も確か妻如来だったと思い出した。案内本には
「建福寺の薬師様は、またの名を妻薬師ともいい、縁談を祈願すると、ご利益がてきめんに現れます。」 と紹介されていた。
一方ここ宋円寺の妻薬師は 「縁結びの妻薬師とて有名で、遠くからお参りに来る方も絶えません。お堂には可愛い紅白の枕が
沢山下げられているが、これは良縁を得た方々から奉納されたものです。」
と紹介されている。

二つの妻薬師は似たような御利益だが、他にも類似している事に気が付いた。それはどちらの寺も 「かわい」 と云う地名に
ある事で、宋円寺が袋井市川井で建福寺が袋井市川会だった。
地形もどちらも川が合流する場所で当初は 「川合」 だったのではないか。川の出合う所は人の出合う所。そこで愛が芽生え
夫婦となり 「静に睦あう和みのある明る家庭」 になるのだろう。ウン上手く纏まった。
それにしてもお礼の品が枕とは、随分露骨だと思いお堂の中を覗きこんだが枕は見当たらなかった。

          
      境内の千手観音               宋円寺ご朱印              建福寺ご朱印

                              39番 鶴松院(観音堂)
 
                鶴松院                                 鶴松院薬師堂
             鶴松院の地図
 お詣りする順番が39番と40番が入れ替わってしまった。これは前回38番油山寺の次に39番40番と打って袋井駅に戻る
予定だったが、38番で夜になってしまい駅に帰ってしまった。そして今日は駅の近い寺から回ったので順番が逆になったのだ。
39番は40番の宋円寺から更に北に行った東名高速道路の取付道路沿いにあり、近くには袋井ICもある。このICが無ければ
淋しそうな所だがICのお蔭で開発されて大型店等も建っていた。

 鶴松院の薬師堂は遠江四十九薬師の赤い幟が林立していて遠くからでも一目で分かった。鶴松院とは何とも縁起が良さそうな
名前で山号も「献壽山」と、こちらも縁起がいい。名前の謂れはハッキリしないが鶴松院の住所の袋井市山科は、昔は山科村と
呼び、別名鶴松村と呼んでいたとか。そこから鶴松院になったらしいが、何故鶴松村と言ったのかが分からなかった。

 観音堂はまだ新しくお参りに来ていた地元の人に聞くと「あの高台にあったのを下ろしてきた。」そうだ。
本来なら山上にあったものは山上でお祀りするのが筋だが、僧侶や信者が高齢化して誰もお詣りしないのでは意味が無い。
ここの観音堂のように山上から麓に下して、お詣りの人が絶えない方のが時代に合っているのだろう。

観音堂の入口に 「當国 三十九番 釈迦如来 安政四巳年」 の石碑が建っている。きっと観音堂と一緒に高台から下してきた物
だろうが、安政四年の文字で嬉しくなる。今から160年ほど前から私と同じように薬師遍路をしていた人がいるなんて・・・・・
鶴松堂に境内には 「鶴松庚申堂」 の扁額の架かる祠もあり、地元がお寺を大切にしている感じが伝わってくる。

        
                       釈迦如来石碑                            鶴松庚申堂

                              41番 心宋院(お礼回り)
 袋井駅から北に向かって40番39番と打ったが、41番は一転して南に向かう。
今日の予定はこれから東名、国1バイパス、東海道本線、新幹線を越して南に入ると、今度は西に向かい磐田駅の東側の札所を
廻り、最後の49番は見付宿にある慈恩院で結願する予定だ。
今回の49薬師の順路はほぼ順番通り廻る事ができ、しかも磐田を出発して磐田に終わるようになっているので歩きやすい。
その順路を簡単に説明すると、磐田駅近くの1番国分寺を振り出しに2番3番と線路沿いに西に向かうのだが、4番はとんでも
なく離れた場所にある。これは旧4番少林寺が廃寺となり、新しい札所が宗安寺になったからで、とても順路通りには歩く気には
なれない。宗安寺自体は三重塔もあり札所として適しているが場所が離れ過ぎだ。(順路に拘らなければ何ともないが)
5番から磐田の西の札所を廻り天竜川を渡る。東海道線沿いの札所を廻りながら、一番西にある高塚駅近くの15番まで行き、
ここから少し東に戻る。次は浜松の街に入る手前から北に向かって天竜二俣駅近くの29番栄林寺まで北に向かって歩く。
29番からは山奥の寺30・31番と打ったら南下し、袋井の北側にある札所を打って一番東にある油山寺を打ち袋井駅に出る。
ここからが4日目の今日のコースになるのだが、今日最後の49番が出発時の1番の近くなのでお礼回りができるのが嬉しい。
今回1番のお詣りが早朝だったためご朱印を受けてなかったので更に丁度良いと思っている。

 考えてみると今まで歩いた霊場は幾つかあるが、その殆どは1番と最後の結願の寺が近くにある事が多い。四国遍路の1番
霊山寺と88番大窪寺は、県は違うが1日で歩ける範囲内にあり、お礼回りする人も多い。
秩父34観音は1番四萬部寺と34番水潜寺とは12kmで、これもお礼回り可能だ。静岡県内の霊場では一番古い遠江33観音
は4kmほど、遠州33観音が6km。この遠江49薬師が1.2kmしかない。
こうしてみると霊場巡りは円を描くよう設定されていて、悟りを得られない者は再度遍路を続けるように出来ているのか。
(それだと私は永久に回り続けなければならないが)
しかし駿河一国33観音はその例に入らない。1番清水山は藤枝にあり33番潮音寺は沼津と三島の境、黄瀬川近くにある。
その距離は80kmを超えている。これではとてもお礼回りなど考えられない距離で実際誰もやらないだろう。これは駿河国の
海岸線と山との距離が狭い地形が影響したのだろう。この様に例外はあるが霊場は円を描いている方のが歩き甲斐がある。

 
                      心宋院                         薬師堂内部
                 心宋院の地図
 心宋院の観音堂の中を見ると厨子は閉じられていて薬師如来は見えないが、厨子の横には十二神将が並んでいた。
だが、日光・月光菩薩は厨子の中なのか見当たらなかった。
境内に古い石仏が安置されていて左が寛政3年の如意輪観音で、右が安永5年の弘法大師像だとある。どちらも古い石仏だが
祠の中に安置されているので細部まで確認できる。しかし心宋院は曹洞宗なのに真言宗開祖の弘法大師像? 
きっと心宋院の開創当時は真言宗だったのだろ。そうしておこう。

 
       如意輪観世音菩薩・南無大師遍照金剛                    五輪塔・宝篋印塔

 もう一つの祠には鎌倉時代の五輪塔と室町時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が並んでいる。だが五輪塔を数えると4段し
かない。五輪塔の下に丸い石が見えるが、あれは塔の一番上に乗る 「空輪」 ではないか? 落ちたのだろうか? 
それにしては石の色が違うが。

 宝篋印塔とは 「呪文を収めた塔。日本では供養塔や墓碑塔として建てられた。」 そうです。
私流に解釈するなら「宝(呪文・教文)を収めた箱(篋)型の塔」となるのだが 「印」 の解釈が出来ない。
どこか印を結んだ手の格好があればもっと分かりやすいのだが。
それにしてもこの宝篋印塔は古くて崩れかけているので、上の相輪が無ければ宝篋印塔とは思えない。
          

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