はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江四十九薬師霊場4-4

2015-02-24 15:57:03 | 遠江49薬師
歩行記録                                                      26-3-19(日)
歩行時間:6時間12分   休憩時間:3時間28分   延時間:9時間40分
出発時間:7時25分     到着時間:17時05分
歩  数:  43、646歩    GPS距離32.6km
行程表
 袋井駅 0:17> 40番 0:28> 39番 1:05> 41番 0:20> 42番 0:30> 43番 0:52> 番外 0:30> 44番 0:30>
 45番 0:15> 46番 0:08> 47番 0:25> 客番 0:20> 48番 0:07> 49番 0:15> 1番 0:10> 磐田駅

                              47番 東昌寺(貝塚)
 
              47番東昌寺
           東昌寺の地図
 47番東昌寺は医王寺から西へ1km程で、医王寺では新幹線が寺の後ろを走っていたが、東昌寺は新幹線は前に、後ろには
東海道本線が走っていた。地図上では煩そうな所と感じるが実際歩くと特に騒々しいとは思わなかった。どちらかと云えば畑に
囲まれた静かな住宅地と言った感じがした。
 寺の前のバス停が 「東貝塚」 で地名も東貝塚。そう云えば遠州33観音で磐田のを歩いた時は 「西貝塚」 の地名もあった。
となればこの台地の下には矢張り蜆の取れる大きな湖があったのだろう。
尤も貝が蜆ではなくアサリなら海あるいは塩分が混じった汽水湖だったかもしれない。以前聞いた説で徳川家康が磐田に城を
築こうとしたが、井戸に塩水が湧き真水を得る事ができなかった。仕方なく磐田での築城を諦めて浜松に築城した云う。
その城普請をした場所の地名は 「城之崎」 とか。上手く纏めた話で成程と頷けてしまった。
だが若し家康が磐田市に城を築いていたら三方原の戦いは行われず、家康は負戦をしないで済んだ。となると日本の歴史は
変わったものになっていただろう。

   

  東昌寺では遠江49薬師の全てのご朱印を預かっており、ここで無住の寺などのご朱印を受けられるという。私もここまでに
48寺廻ってきたが9寺のご朱印を受けてない。この際無住らしき寺のご朱印は貰ってしまおうと思ってその旨を申し出ると。
「今はご朱印は預かっていません。今は油山寺さんが全ての寺のご朱印を持っています。」 だって。

                              客番 福王寺(名刹)
 
                 総門(山門)                             山門(鐘楼)
             福王寺の地図
 福王寺は寺名だけでなく山号も含めて 「風祭山福王寺」 と書くと寺のイメージが湧いてくる。この 「風祭山」 と称する謂われは
永観2年(984)の寺の開創当時、遠州一帯を暴風が来襲した。そのとき諸国行脚で福王寺に逗留していた陰陽師安倍晴明が、
風雨鎮めのご祈祷を行い、暴風を鎮めて多くの人々を救った。これ以後福王寺の山号を 「風祭山」 と称するようになった。

 福王寺は43番松秀寺と同じように49薬師だけでなく、33観音と七福神の札所なので既に何回も来ている。外にも歩こう会でも
来ているので磐田地区では一番馴染みのある寺だ。しかしいつも迷うのが寺の門の呼称だ。普通なら寺の入口にある門を山門と
呼び、次の門は鐘をのせているので鐘楼と呼びたい。だがその鐘楼には寺の案内板があり、そこには 「山門」 と紹介している。
では入口の門は総門なのか? 門の外に立つ仁王像が門の中なら仁王門だがなー。そこには寺の説明は見当たらなかった。

 
                  本堂                                万両園(庭園)
 福王寺は現在は曹洞宗だが開創当時は真言宗だったと云う。静岡県の寺では良くある例で驚く事は無いが、福王寺の前に
寄った東昌寺も曹洞宗だった。今はそれに不思議さは感じないが、福王寺が真言宗だった頃はどうだろう。
東西に真言宗の大きな寺に挟まれた寺が別の宗派でやっていけたのだろうか。一般的にはどちらかの寺の末寺だったのでは
ないかと考えてしまう。だいたい寺の宗派はそれほど厳密な物ではなく、変更に際しては一般檀家の思惑など考慮せず有力な
檀家や時の住職の考えで宗派を変えた様だ。例えば伊豆修善寺にある修禅寺は、真言宗の空海により開創されたが途中で
臨済宗に宗旨替えをし、更に今では曹洞宗である。寺の名前の 「禅」 が町の名前の 「善」 と違うのも禅宗の臨済宗になって
から変えたのではないかと私は感じている。
話しを元に戻して東昌寺だが、今曹洞宗である事を考えると、寺の開創当初は福王寺の末寺の真言宗で、福王寺が曹洞宗に
なるのに合わせて、東昌寺も曹洞宗に宗旨替えさせられたのではないかと想像している。   

           
                観音堂                              江月堂
 山門の入口には 「本尊聖観世音菩薩」 の大きな看板が下がっていたが、これは遠州三十三観音霊場のご本尊の方で、
49薬師は境内にあるお堂の前に 「客番札所 遠江四十九薬師霊場」 の看板が立っていた。
お堂の中を覗きこむと沙弥壇の上には扉の開いた厨子が安置されていたが、格子が邪魔をして良く見えなかった。
多分これが薬師観音なのだろうと思ったが、私の注意は本尊より手前に置かれている2体の木彫りの動物に引かれた。
ライオン? 獅子? 狛犬のように座ってはいないで4本の足で歩いている形だ。だが口は阿吽のように一匹は口を結び、
一匹は開いている状態だ。矢張り狛犬としてここに安置したのだろうが、何となくこの場にはそぐわない様に感じた。 

 雰囲気が金閣寺を思い起こさせるような建物 「江月堂」 は、安政期から明治初期まで開かれていた寺子屋があった所に
あり、今は1階に寺宝展示、2階は図書文庫として利用されているようだ。
何回も福王寺は来ているが、この建物の中には入った事がない。今日も入口をチラリと見ただけで素通りをする。

 
                 晴明堂                                安倍晴明祈祷跡      
 福王寺で忘れてはならないのは、平安時代に活躍?暗躍?した 「陰陽師安倍晴明」 だ。その晴明を祀ったのが 「清明堂」 で、
扁額には 「晴明大権現」 とあり、お堂の幔幕やガラス戸の桟にも 「晴明紋」 がある。
晴明紋とは 「五芒星」 といわれる形をしているのだが、これにもう一つ角を増やせば 「六芒星」「ダビデの星」 と同じになる。
若しかして安倍晴明は世界に散ったユダヤ民族の末裔か。とまたもや妄想が蠢きだした。
境内には晴明が祈祷したと場所 「晴明塚」 もある。

           
                      石仏群                            今川範国の墓
 屋根の下にある石仏は余り傷んではいない。医王寺の六地蔵は表面が崩壊し始めていたが、ここの六地蔵は江戸時代の
文化9年(1813)と200年以上前の物だが傷みは無く剥がれてくる兆しも無い。それは他の石仏も同じで屋根が有るか無い
かで、こうも違うのかと驚いてしまう。尤も石の材質による方のが影響が有るのだろうが。

 一般の墓地の後ろに、駿河今川家の初代当主で今川氏の礎を築いた 「今川範国」 の墓がある。駿河の守護代の墓が何故
遠州のここに有るのか、以前から疑問に感じていたので調べてみたがよく分からなかった。
範国は後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕の元弘の乱でも戦い、鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏に従い、北朝方として活躍する。
その功績により遠州の守護職、次いで駿河の守護職になる。その後守護職を子の範氏に渡し、本人は足利幕府の出仕する。
1384年に死去し、当初菩提寺は磐田市岩井の東光寺だったが、廃寺となったことで五輪塔は福王寺に移されたとある。
だがこの時代の今川は駿河守護代と云っても、まだ駿府には入る事ができず、2代目範氏は島田市大草の山城にいて、墓も
その地にある。そうしてみると範国の亡くなった頃は駿河守護代と云ってもその勢力は弱く、駿河に墓を築くよりも遠州の方が
無難だったのかもしれない。

  

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