はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江四十九薬師霊場4-3

2015-02-20 15:20:11 | 遠江49薬師
歩行記録                                                      26-3-19(日)
歩行時間:6時間12分   休憩時間:3時間28分   延時間:9時間40分
出発時間:7時25分     到着時間:17時05分
歩  数:  43、646歩    GPS距離32.6km
行程表
 袋井駅 0:17> 40番 0:28> 39番 1:05> 41番 0:20> 42番 0:30> 43番 0:52> 番外 0:30> 44番 0:30>
 45番 0:15> 46番 
0:08> 47番 0:25> 客番 0:20> 48番 0:07> 49番 0:15> 1番 0:10> 磐田駅

                              44番 寿正寺(大之浦)
 
              44番寿正寺                                   観音堂
            寿正寺の地図
 番外を打ち終れば後は進路を北に変え磐田市のオールドタウン見付に向かって北上する。札所も残りは6寺だが、客番とお礼
参りの1番を入れると8寺となる。数は多いが皆狭い範囲内にあるので何とか今日中に結願を迎えたい。いや残ってしまうと後が
面倒になるので是非とも今日中に結願する。
 平らで変化の少ない田圃の間の道を歩くのは面白くないので勝手な妄想が湧いてくる。
遠江の語源は 「遠津淡海(とおつあわうみ)」 で、近江が都に近い琵琶湖なのに対し、そこより遠い所にある淡水湖を指していた。
今ではその湖は浜名湖だったと云う説が有力だが、実はここにあった 「大之浦」 と云う湖だったという説もある。
その証拠には遠江の国府は見付にあり、国分寺や国分尼寺も見付にある。仮に浜名湖が遠津淡海だったら、国府は浜松の西部に
置かれたのではないかと云う。
どちらの説が正しいか判断はできないが、磐田付近を歩いていると狭い台地の上の凹凸のある地が何故国府なのだと疑問が湧く。
台地の南下にあるもっと広く開いた土地があるのにと思うが、だがそこは当時大きな大之浦があり周辺は湿地帯になっていた。
では台地の東側と云うと、そこは太田川が流れ桶ヶ沼や鶴ヶ池もある湿地帯だった。
更に台地の西には天竜川が流れ大雨のたびに流域を変え暴れまくっていた。となるとこの辺りで国府を造るとなると台地の上しかない。
そんな理由で遠江の国府は台地の上になったのだろう。
よって私は遠江は浜名湖ではなく、ここ磐田にあった「大之浦」 に軍配を揚げたい。

 
              寿正寺の白木蓮                             寿正寺の????
 寿正寺の山門は山門と云うより民家の門のようで、本堂も入口の間口が広いので、寺と言えば寺だが住職のいる感じのしない
建物だ。境内を歩いても人気は無く案の定無住の寺だった。
だが無住で適度に荒れた境内には、大きく育った白木蓮や雪柳の花木が花をつけていた。公園の整理された花壇ではなく自由に
枝を伸ばした花木は無住の寺には合うようだ。

                              45番 全久院(役行者) 
  
              45番全久院                                山門扁額
 全久院の山門の横には六地蔵ならぬ四体の地蔵が祀られ、その横には案内板のあるお堂が建っていた。
これが薬師堂かと思い近寄り案内板を読んでみると珍しく役行者の来歴が記されていた。

役行者(鍬陰の行事由来) 舒明天王の御代、大和国葛上郡葦原に生まれました。幼少の頃から聡明で、あらゆる典籍を読破し
大和や熊野の山で苦行を重ね神の業を現すに至りました。その後は修験道を開き悪魔悪病の退散を祈り霊験を現しました。
鍬陰では、ある時期疫病が流行り、天地の異変も加わって苦難の年が続きました。村人は挙って山の上に役行者のお堂を造り
村の平安を祈りました。お堂は明治期に移転し平成16年に修復工事を行いました。役行者奉賛会」


 静岡県内を歩いていると行基や弘法大師の逸話や二人が彫ったとされる仏像は多い。だが役行者に関連した話は少なく覚えて
いるのは掛川市本郷にある 「長福寺」 に伝わっている話だけです。
「むかし、掛川の長福寺に旅の僧が立ち寄り 「大和の国まで行くのだが、少しお金を恵んでくだされ」 と頼むと、 長福寺の和尚は
自慢の大鐘を指差して 「金ならあそこに吊してある。あれでよければ持っていけ」 とからかった。
旅の僧は釣鐘堂にあった鐘を軽々と下におろし、ふわりと肩に担ぎあげて 「和尚、もらっていくぞ!」 と叫び西の空に飛んで行って
しまいました。
その夜のこと、役の行者尊を祀った大和の国の大峰山では、ひどい嵐が吹き荒れました。翌朝、村人が外に出てみると険しい
岩山の松に大きなつり鐘がかかっています。不思議になって、やっとの思いで近づいてみると、その鐘には 「遠江国佐野郡原田郷
長福寺鐘」
と彫ってありました。
旅の僧が役行者尊の化身だったと気づいた村人たちは、長福寺の裏山にお堂を建立して、行者尊を祀りました。
けれどそれ以来、何度つり鐘を造っても、その鐘の音は寺の外には聞こえなかったそうです」


 今に残る言い伝えとは、こんな風に逸話を含めて残っているものが多いのに、ここの鍬掛行事の由来案内は単に役行者の履歴と、
疫病が流行って困り役行者のお堂を建てたと云う事実だけだ。
これでは鍬陰の行事とは何か分からないし、何をするのかも分からない。仕方なくネットで鍬陰を検索したがヒットしなかった。

 
              全久院本堂                                 お堂の内部
 ここの本堂の屋根は一見イスラム教的雰囲気のあると思いませんか。遍路をしていると時折こんな屋根の寺を見かける事が
あるが私にはどうもしっくりこない。ここの屋根も実際は何をデザインしたのだろう? 蓮の花を逆さにしたものか、合掌した掌の
形なのかよく分からないな。
 だが全久院は屋根の形こそ斬新的だがその歴史は古く、開創は670年頃の天部天皇の時代だったという。当時は虚空蔵
菩薩を祀る寺で明星山虚空蔵寺と呼ばれていたが、923年頃には 「蔵前山虚空蔵寺」 と改めている。
その山号の蔵前とは、寺の裏手に七つの蔵があり、そこから米を舟で伊勢まで運んでいたから付けられた名前だと云う。当時の
ここの地名は 「船戸」 と呼ばれていたと云う。
なら太田川利用した水運はここが発着点だったのか。云われてみれば寺の後ろ辺りから磐田原台地への登りが始まっていた。

 現在全久院の山号は 「護国山」 。折角歴史を感じさせる山号だったのに改名は惜しい気がする。
そして今の地名は鎌田だが蔵前山の山号を使った頃の823年頃では舟戸で、役行者のお堂を建てた1754年は鍬陰だった。
地名の変換は仕方ない事だが、その謂れが残っていれば郷土史に更に興味も湧いてくのだが。

 境内に新しいお堂が建っていた。その正面には扁額の代わりに天狗のお面が飾ってある。何のお堂だろうと中を覗いて見ると、
沙弥壇上の正面には社の様な形の物が置かれ、その左右には十二神将ならぬ十二支の置物と人形の置物が飾られていた。
一体何のお堂だろう?

                              46番 医王寺(古刹)
 46番医王寺は既に磐田原台地への登りが始まる台地の最南端の地にある。この寺の歴史も古く天平16年(744)行基が
聖武天皇の勅命でこの地を訪れ、薬師如来の霊験ありとし、山内の木で薬師如来像を彫り、伽藍を造って祀ったのが始まりと
伝えられている。寺の正式名称は 「鎌田山金剛院醫王寺」 だが、今迄遍路をしていて行基が本尊の仏像を彫り、その仏像を
祀った寺は多かったが、行基自身が開基と云う寺は少なかった。
否、記憶に無いくらいだ。そこで興味を覚えて調べてみると医王寺のHPを見つけた。以下はそのHPからの受売りです。
 
 平安時代(810~822)に嵯峨天皇の厚い帰依を受け、七堂伽藍が整い、真言密教の根本道場となりました。
当時の山容は、広大な境内に本堂、金堂、講堂、五重塔、三重塔、鐘楼堂、仁王門、三十六ヶ坊の末寺などが配置されて
いましたが、戦国時代に武田信玄勢の兵火にかかり寺塔ことごとく灰燼に帰したのでした。
 のちに徳川家康は兵火による焼失をいたく惜しまれ、家康自ら浄財を出してその再興を援助されましたが、ついに旧観に
復帰させることが出来ませんでした。
 三代将軍徳川家光からは、祖父徳川家康のかつて与えた 「黒印」 を改めて、石高135石の 「朱印」 を与えられます。
おかげで寺運は大いに振るい、江戸時代末期まで代々135石を領していました。
 当時の本寺金剛院は、多くの塔頭を擁していました。医王寺はその塔頭の一つで、鎌田薬師の名称で親しまれていました。
しかし本寺の金剛院が明治維新の廃仏毀釈、神仏分離の嵐により寺運がゆらいだため、明治8年医王寺を再興する形で
法灯を守ったのです。この時三十六ヶ坊のほとんどが廃寺になっています。

 
             石垣の寺の入口                              山門への道
         医王寺の地図
 寺の入口にある石垣は、小さなめな河原石を積んだ脆そうな石垣だった。HPによれば、この石垣は 「百姓積みの石垣」 とか。
意味の説明は無かったが、きっと鎌田薬師に参拝する百姓が、畑や田圃から出た石を持ってきて奉納したのだろう。
島田の大井神社にも同じような風習があり、川越人夫が大井神社に参拝する時は、石垣用の石を大井川から持っていったとか。

 山門に続く参道の左右は、杉苔が生茂り緑の絨毯のようになっていて、厳かな気分にさせてくれる。

 
                山門                                     山門
 海鼠壁を左右に張りだした四足門の山門は、折から咲き出した桜の花にも彩られ、厳かな気分の中に期待感も抱かせてくれる。
この山門は建立から160余年を経っているが、昭和19年の東南海地震では、大きな被害を受けた。左右にある海鼠壁は崩れ
落ち、山門だけがかろうじて建っている状態になってしまった。
それから60年近く経った平成14年に、大規模な工事を行い、以前のように海鼠壁を持つ山門に修復されました。

 
               山門の彫刻                               山門の彫刻
 山門の各所には種々の彫刻が彫られていて、中でも目を引いたのは番の鶏が餌を啄ばむ姿だった。色彩が施されていない
ので地味な感じがする彫物で威圧感は無い。山門と云えば阿吽の仁王がそれこそ仁王立ちして、不審者を睨みつけているのに
ここの 「鶏」 は何を意味しているのだろ?

 
                 客殿                                   庫裏
 山門を潜った境内は杉苔が一面に生茂っていて厳かな感じを醸し出している。その先にある建物は本堂と見えるがHPに
依れば客殿となっている。しかし元々は客殿として使われていたが、明治に入ってからは普通の寺院にある本堂と同じような
用途で使用しているそうだ。

 庫裏の建物も本堂と思えるような堂々とした建物だった。ご朱印を貰うべき入った庫裏の天井は、黒光りをした太い梁が幾重
にも重なっていて伊豆長岡の江川邸より立派だと思えた。そして座敷へ上がる板の間も磨きが掛けられ黒く光っていた。
こんなに立派な建物も明治に入ると荒廃し、一時は無住の時もあったというのが信じられないほど綺麗にされていた。。
明治の新政府の行った廃仏毀釈運動は、今ならさしずめアフガニスタンのタリバンがやったバーミヤン渓谷の仏像破壊に等しい
愚行だったと思う。しかし当時の一部の輩は、日本古来の神道を敬い、東洋伝来の仏教を破壊することが正義とする流行病に
罹っていた患者だったのだろう。

 
                 薬師堂                                 旧薬師堂
 現在の薬師堂はどこにでも見られような小振りのお堂だが、昭和19年に起こった東南海地震までは、右の写真のように
風格のある薬師堂だった。だが地震により薬師堂の棟瓦は全てすべり落ち、薬師堂内一面に雨漏りするようになってしまった。
しかし戦時中の貧しい中では、物資も人出も不足し改修工事もままならず、雨漏りの応急処置すら出来ぬまま歳月が流れた。
 戦争の末期に同じ真言宗の浜松鴨江寺は米軍の艦砲射撃と焼夷弾による浜松空襲で、寺の諸堂伽藍すべてが灰燼に帰して
いた。そんな時、医王寺の薬師堂を鴨江寺に移築し、鴨江寺の末寺の小寺を医王寺の薬師堂にする案が浮上した。金の無い
医王寺としては薬師堂をこのまま朽ちさせるよりは、鴨江寺との両替案に賛同した方がベターとして建替えを行った。
 
 医王寺のHPには
「薬師堂は多くの参詣者に親しまれるお堂として今現在も、鴨江寺にて大切にされ、その法灯は脈々と受け継がれています。」

書かれている。だが、鴨江寺のHPにはその件の案内は一切無かった。

     
               鎮守堂                               大師堂
 小高く積れた石垣の上に一見社とも見える建物がある。両脇には常夜灯や狛犬も供えているが案内板も無かった
のでただ見るだけで済ましてしまったが、後でHPを確認すると 「鎮守堂」 とあり、白山権現、八王子権現、熊野権現の
三体を祀る三部権現との説明が有った。
この鎮守堂は名前の通り、医王寺に降りかかる災い事を鎮めることを目的に、天保7年(1837)に建立されたともあるが、
今思い出してもお堂の向きが客殿とは逆の方向を向いて、医王寺を見守っているようには見えなかったが・・・・・・ 
次回訪ねた時に確認しよう。

 大師堂と云えば弘法大師を思い浮かべるが、ここの大師堂には行基菩薩、弘法大師、興教(こうぎょう)大師の3人の
祖師をお詣りしている。元々は 「三祖御影堂」 と呼んでいたが、現在は便宜上大師堂と呼んでいるそうです。
御影堂(みえいどう)の名は余り聞かないが、祖師堂とか開山堂と同じものなのだろう。
ここのHPでまた面白い記述を見つけた。そこには 「医王寺は遠州二十一大師の第二十一番札所です。」 とあった。
遠州、駿河の霊場巡りも底をついて、次回は何処を歩くか迷うこの頃なので恰好の題材だ

  
              2墓制による墓                               古い石仏
 大師堂の裏に無縫塔の墓が何体もある。どれもが古い石塔で現在の物は見当たらない。いつもなら住職の墓か、と思うだけで
終わってしまうのだが、これにHPには面白い紹介がなされていた。
「医王寺周辺の地域では、古くからの風習で2墓制による先祖祀りが行われていました。亡くなったご先祖さまのご遺骨を納める
墳墓と、その家系の大先祖さまをお祀りする墓碑の2種類であり、墓碑は、信仰していたお大師さま(弘法大師空海)の近くに
建てることで、お大師さまの徳と、慈悲を授かれるようにしたのでした。  
大先祖さまを祀るということから、その家系の本家すじにあたる者しか、大師堂の近くに墓碑を持つことが出来ませんでした。」

初めて聞く風習だった。

 大師堂の近くには古い石仏群が安置されている。どの石仏も崩壊しているが、六地蔵の下部は石の表面が剥がれ落ちていて
痛みが一番激しい。隣の青面金剛(だと思う)の足元には踏みつけられた邪鬼や鶏も見える。
ほかの観音像もそれぞれ彫り出し部分が高く、それだけに惜しまれる感じの石仏群だった。
               
     
     行基作薬師如来像               御前立ち薬師如来像           薬師如来像
 御前立ち(おまえだち)とは、秘仏の本尊の替りに、本尊が安置されている厨子前に置かれた仏像の事です。なので私は今迄
本尊を模した仏像が御前立ちだと思っていた。ところが医王寺の御前立ち釈迦如来は座像で本尊は立像の釈迦如来だった。

 医王寺はこれ以外にも枯山水の庭園等があるが、時間が気になり今回は見学をしなかった。
医王寺はは今まで多くの寺院を参拝した中でも五指に残る寺だと思う。是非近いうちにもう一度お参りに来たい。
その時は時間の余裕を持って参詣しよう。

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4 コメント

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遠江 (黄色い麦わら帽子)
2015-02-25 14:43:16
>よって私は遠江は浜名湖ではなく、ここ磐田にあった「大之浦」 に軍配を揚げたい。
新聞より引用---------------------------------------
2014.4.10 中日新聞の「紙つぶて」より
歌の懐 島田修三(愛知淑徳大学長・歌人)
<前略>
 時は奈良時代、

 遠江の国守、桜井王が
「九月のその初雁の使いにも思ふ心は聞こえ来ぬかも」
という一首を聖武天皇に秦上した。
 九月の初雁は音信を伝える使者というが、せめて初雁でもいい、私を思うお気持ちが伝わって来ぬものか、という意。 九月は中央役人の異動期。桜井王は中央に役職を得て帰京したいと天皇に直訴しているのだ。

 天皇は
「大の浦のその長浜に奇する波ゆたけく君を思ふこのころ」
と応じる。
 遠江の大の浦の長浜にゆったりと波が寄せるように、ゆったりと構えてあなたを思っている、という意。
 長い目でお前を見ているから、まあ、そんなに焦るな、というわけだ。
<後略>
-----------------------------------------引用終わり
 この「大の浦(おおのうら)」とは、今の磐田市の「今之浦」が湖だった頃の地名です。


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黄色い麦わら帽子さん (はぐれ)
2015-02-26 17:14:57
お久しぶりです。
懐かしいお名前を見て再活動をされたのかと早速HPを拝見しましたが・・・・・・・
私は相変わらず自己中的なダラダラブログをやっています。
歩きの方は「より速く、より遠く」のKWAの完歩は卒業(中退かな)して、今は見ながら(観歩)感じながら歩く(感歩)をやっています。
そうして歩いていると色々面白い物や気になる事が出てきます。
今回の磐田の大之浦もあった事は事実ですが、問題は遠江の語源の元になった 「遠津淡海(とおつあわうみ)」 の湖が浜名湖だったのか大之浦だったのか気になっています。
返信する
浜名湖だったのか大之浦だったのか (黄色い麦わら帽子)
2015-02-26 18:41:18
>今回の磐田の大之浦もあった事は事実ですが、問題は遠江の語源の元になった 「遠津淡海(とおつあわうみ)」 の湖が浜名湖だったのか大之浦だったのか気になっています。

 私は大之浦と考えています。
 遠江の真ん中にあり、当時の国府であり、姫街道の起点、終点が国府で繋がっていますから。
 遠江の範囲は東は大井川から、西は浜名湖までらしいですが、浜名湖説だと遠江の端っこになってしまいます。
 遠州三十三観音巡りのときに安倍晴明の祈祷所のあるお寺で御朱印を貰いながら住職の奥さんに訊ねたところ「大之浦」という返事でした。
 磐田の歴史や民話などの本から想像してみても「大之浦」、磐田湖という文字もありました。と私は考えます。
返信する
黄色い麦わら帽子さん (はぐれ)
2015-02-27 09:55:03
そう私も遠江の語源は大之浦だったのでは、と思います。
>遠江の真ん中にあり、当時の国府であり、

わたしも初めはそう思いましたが、駿河の語源の「速い川」は安倍川でなく富士川を指しているそうです。
そうなると国府のあった駿府とは、随分離れた場所ですよね。

たまにはご一緒に歩いて歴史談義をしたいですね。
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